第二十話 工神と破戒僧
黄衣派法皇視点を含みます。
二十八と七の命を捧げた日の夜――
法皇トウロは大寺院の深奥にいた。
暗部一人が伴っているはずだが、
その姿は闇に潜み、
トウロには確認できなかった。
黄衣派の本拠地は複数の御殿で構成され、
それらは渡り廊下で繋げられている。
廊下は電気灯でほのかに照らされている。
トウロはその廊下を静かに歩む。
庭の池に伸びる己の長い影を見る。
清澄な気分だった。
あれだけの人間を殺して、
殺し尽くした後とは思えなかった。
何もかも壊してしまいたい。
本当は昔からそう思っていたのかもしれない。
たどり着いたのは、工神を祀る祭殿である。
周囲と隔絶されており、密談向きの場所だ。
だがそんな利用法を選べるのは、
高位の僧だけだった。
既に待ち合わせていた先客は来ている。
がっしりとした体躯の初老の男だった。
「兄者よ。このような夜更けに何用だ?」
「よく来てくれた、コウサ。
いや今は黒書院の大僧正と呼ぶべきか」
黒書院は革新派の中心である。
その名を冠する大僧正とは、
革新派の指導者と言っても過言ではない。
コウサは革新派の最高権力者にして、
トウロの弟だった。
それは奇妙なことではない。
トウロの家系は法皇の家系であり、
その権威はあらゆる派閥にとって、
尊重するべきものだったからだ。
コウサは鋭い目でトウロを見る。
「私が革新派の僧正となった時に、
もう私人として会うべきではないと、
そう言ったのは、兄者ではなかったか」
「状況が変わった。今は黄衣派存亡の危機だ。
あらゆる力を結集する必要がある」
「大粛清の件、聞いたぞ。
守旧派を切り捨てるそうだな。
兄者だけがこちらにつこうなどと、
姑息なことを考えているのではあるまいな」
コウサはトウロを睨む。
「心配はいらん。俺も後を追う予定だ。
コウサ、お前にはその後を頼みたい。
俺が死ねば、次の法皇は確実にお前だ」
コウサは眉をひそめた。
「冗談にしては笑えないな」
「暗部を下げてもらいたい。
お前だけに聞かせておきたいことがある」
コウサは僅かに迷ったようだった。
トウロは続けた。
「すぐに知れることだから言っておく。
守旧派の上級幹部二十八名は、
既に全員自殺した。
守旧派の政治力は壊滅している。
俺の死後の主導権は革新派のものだ」
コウサは訝しげに問う。
「兄者、何を考えている?」
「そして大粛清は、死者たちの嘆願を受けて、
撤回される予定となっている。
それが今の法皇の最後の決断となるだろう」
コウサは目を細めた。
「いいだろう」
護衛の退去を確認した後、
トウロは知り得たことを弟に話した。
「コウサよ、
ソーマを誰が作っていたか、覚えているか」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
翌日――
僕は遙花とスワルガの中心街へと歩いていた。
遙花は僕の左腕に抱きついている。
なぜこんなことをしているのかというと、
今朝、そろそろアルテミスへ帰ろうと、
遙花を迎えに行ったら、
約束がまだだと、
強硬に主張されてしまったからだった。
約束なんてしたか、と記憶を探ると、
確かに僕は一緒に遊ぶと言ったようだ。
仕事も、結果はともあれ一段落した。
約束を果たすなら今だった。
ということで、
スワルガを発つのは明日にして、
僕と遙花はスワルガ観光に出たのだった。
フレアはこの件については協力的で、
尾行は三百メートル以上の距離をとる、
ということで話がついていた。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
教会からの下り道を進み、
狭苦しい裏通りをしばらく道なりに歩く。
「なんだか広くなったような気がします」
遙花が不思議そうに通りを見回す。
「ソーマ中毒者の数が随分と減ったようだ」
かつて通りの隅を占領していた、
生ける屍たちのほとんどが姿を消していた。
「やっぱりソーマがなくなったせいでしょうか」
人の口に戸は立てられない。
遙花には今回の真相は話していないが、
スワルガ内に流布されている噂程度は、
知っているのだろう。
遙花の言葉に僕は公式見解で答える。
「それもある。もう補充はないから、
末端が握っていた在庫が終われば、
ソーマはスワルガから完全に消滅するだろう。
それに流通量が激減したことで、
末端価格が急速に高騰していて、
貧困層が買えるものではなくなったのもある。
だが目に触れなくなったのは、
黄衣派が治療施設を用意して、
依存中毒者を受け入れていることが大きいな」
遙花は目を丸くした。
「黄衣派というところは、
お金のことしか考えていない、
悪人の集まりだと思っていました」
僕は微笑む。
「スワルガに存在する以上、
どんな組織にも汚い部分はある。
黄衣派はその中ではだいぶマシな方だよ。
ただ大きくなりすぎただけだ。
そのため素晴らしい部分は素晴らしいままでも、
腐った部分はどこより腐れきってしまった。
それだけのことだと思う。
黄衣派の理念そのものは、
ネオブッディズム正統派の干渉を跳ね返し、
スワルガという自由な世界を維持し続けた、
最大の原動力だ。それは今も変わらない」
僕は続ける。
「もともと黄衣派は、
正統派に弾圧された異端諸派が、
互助組織としてつくりあげたものだ。
だからその中には、
現実的なものから、
ほとんど達成不可能なものまで、
あらゆる理想が含まれている。
その一つとして、
あらゆる派閥から距離をとり、
死期の近い老人や、
重篤な病人を無料で預かる療養所を、
営んでいる中立の派閥も存在している。
今回はそこが受け入れを表明したらしいな」
「無料なら誰でも行けますね」
「身寄りのない者の死に場所みたいなもので、
あまり近付きたい場所ではないけどな」
「それじゃ普通の病気の人はどうなるんですか」
「他の派閥が営む診療所が別にある」
「たくさんあるんですね」
僕は少し考える。
これらの慈善活動の資金は、
寄付で賄えるようなものではない。
ではどこから出ていたのだろうか。
推測はできた。
ソーマからだ。
黄衣派は大きな資金源を失った。それは確かだ。
どこかでコストを削らなければならない。
今までと同じようにはいかないだろう。
だが、と僕は目を閉じる。
そこからは彼らが考えることだ。
僕が悩むことではなかった。
裏通りを抜けると中心街に近くなる。
僕と遙花は小さな露店が並ぶ通りを歩く。
スワルガもそうだが、
都市という名のつく規模となれば、
その経済圏が都市一つで完結することはない。
売り場を求めて、
農産物や材木、変異生物の肉や毛皮などが、
周囲の村落から運び込まれてくるようになり、
自然と交換のための市場が発生するようになる。
中核となる市場は都市の入り口近くにあるが、
市場内のスペースをとれなかったあぶれ者は、
そこかしこで露店を開くことになる。
遙花は楽しそうに露店を覗く。
不思議な細工物や珍しい木の実に、
驚きの声を上げる。
「兄さん、次はこっちです!」
腕をひっぱる遙花に僕はつき従う。
そうしてゆっくりと歩くうちに、
僕らはスワルガの中心市街に着いていた。
スワルガの中心とは黄衣派の中心である。
黄衣派の本拠である寺院の門前町として、
この街は始まったのだ。
「どこか行きたいところはあるか?」
遙花は喧騒を見回す。
「そうですね。
スワルガらしいところ、
スワルガにしかないものを見てみたいです」
「ここにしかないものか」
僕は少し考えた。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
「これは……」
遙花は言葉を失ったように、口をつぐんだ。
僕らが向かったのは、
黄衣派本拠を囲む巨大な回廊だった。
その内壁には、
黄衣派の歴史が、壁画として描かれていた。
それは六百年以上前の、
開祖のスワルガ到着から始まる物語である。
「きれいなものだろう。
スワルガの名物と言えば、
やはり延々と描き継がれているこれだ」
壁画は極彩色で飾られている。
鉄板に直接刻まれた下書きに、
色飾りを貼りつけているのだが、
これが大変で、専門の職人が、
十数人がかりで維持しているのだと言う。
「これはどういう場面なんでしょうか」
遙花は最初の壁画を見て尋ねる。
僕はその由来となった物語を語る。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
それは工神と開祖の物語――
黄衣派の開祖は腐敗しきった正統派を糾弾し、
正義を為さんとして追放された。
彼は諦めず、抗議活動を続けたが、
老体に鞭打つ旅の中で病にかかり、
死に場所を探して彷徨うようになっていた。
そして開祖は工神の都までたどり着くと、
雨風を避けるため、その中に入った。
よい場所だった。
彼はそこで一人死を待つことにした。
だが彼が死を迎えるのはしばらく先だった。
その時まで彼は、
全身を苛む痛みに耐え続けることになる。
そこに、彼を哀れんだ工神が現れたのだ。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
「工神って、どんな人なんでしょうか?」
遙花の質問に僕は一般的な答えを返す。
「開祖の前に現れた、
とにかく大きな力を持つ何者かだ。
名前がないと不便なので、
六本の腕を持ち、
多くの工具を巧みに使い、
色々な道具を作ったという話から、
工神と呼ばれるようになったらしいな」
「六本腕ですか」
「本当に腕が六本あった訳ではないだろう。
昔、学院のベルト民俗学の文献で見たが、
地球時代のアジア言語では、
戦士や職人を賞賛する際に、
複数の腕を持っているような活躍ぶりだ、
という言い回しを使うことがあったらしい。
同じように、神の像を作る際には、
非常に高い能力を持っていることの、
視覚的な比喩として、
数十本の腕をつけたこともあったらしい。
黄衣派の神話における六本腕も、
同様の比喩表現がなされたのではないか。
その実体は、能力や技術水準からすると、
ベルトに降りていた貴族なのではないか。
著者は、そう推測していた」
僕の説明に遙花は感心したように頷いた。
遙花が納得したようなので、僕は続けた。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
工神は、痛みに苦しむ開祖に酒を与えた。
杯一つを飲み干すと痛みの全てを忘れた。
開祖は尋ねる。
「どういうことだ? 病が治ったのか?」
工神は答える。
「その酒は我が神力の顕れ、ソーマだ。
一杯飲めば三日痛みを感じなくなる。
だが死の運命そのものまでは覆せぬ」
「それでよい。それでよい」
喜んだ開祖はその場に小屋を立てた。
そして修行を再開したのだった。
開祖が工神と共に修行を続けるうち、
方々に散らばっていた弟子たちが、
彼を慕って集まってきて、
工神の都は賑やかになった。
開祖は工神や弟子たちと語り合う。
そして多くの言葉を残した。
三年後、全ての仕事を終わらせ、
後事を弟子たちに託した開祖は、
工神と弟子たちに見守られて、
微笑みを浮かべたまま、
その苦闘の生を終えたのだった。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
「これが黄衣派の始まりの物語だ。
以後、弟子たちは開祖の残した言葉を守り、
発展させながら今に至る、ということだな」
遙花は尋ねる。
「開祖さんの病気って、
どんな病気だったんでしょうか。
工神さんの力でも治らなかったんですよね」
「ベルトの人間は、
宇宙からの放射線に晒されているからな。
確かに世代交代の中で、
抵抗力はかなり上がってきているが、
それでもほとんどの場合、
老いる前に放射線による病で死ぬことになる。
この病は、末期となれば、治療など不可能だ。
放射線は、身体全体を満遍なく傷つけている。
全身の細胞を全て入れ替えるぐらいでないと、
意味はないだろう。
その死の間際は、
自殺してしまいたいくらいに苦しいものだ。
例の民俗学者はこう言っていたな。
この工神と開祖の物語は、
その苦しみに対する救いがほしい、
そんな願いが生んだものなのではないかって」
遙花はほうと息を吐く。
「そう言えば例の麻薬もソーマって名前ですね。
苦痛を消すという点で同じだから、
そういう名前にしたんでしょうか」
「確かにその点は同じだな。
だが麻薬のソーマは錠剤で、
飲むと身体を壊してしまうあたりが違う」
遙花は僕の答えに頷く。
「そんなひどいものに、
神様の薬の名前をつけるなんて罰当たりです」
僕は怒る遙花の髪を撫でる。
遙花はひとしきり怒ると、
続く歴史絵巻を眺め始める。
遙花に解説しながら僕は仮説を弄ぶ。
確証はないが、
おそらくあの地下にいたロボットが、
伝承にある工神そのものだったのだろう。
僕はそう考えていた。
ソーマについても同様のことが言えた。
伝承のソーマは工神が与えたもので、
現実のソーマはロボットが作ったものだ。
そしてフレアの言ったソーマの正体は、
ターミナルケア用の有機オートマトンだ。
治療や延命ではなく、
苦痛の軽減を目的としたもの。
とある個人のために特化されたもの。
それは工神の物語のソーマそのものだった。
その結論は奇妙なものを想起させた。
人類と陽電子脳ロボットの共存。
そんなありえない光景だ。
僕は目を閉じる。
どうすれば、そんなことが可能になるのか。
それが可能だとしても、それなら、
なぜ人類は滅びなければならなかったのか。
何もかもが矛盾していた。
(フレア、聞いていたか)
僅かな間を置いて言葉が返ってくる。
(何でしょうか?)
(あのロボットは、どうして、
こんな人間を助けるようなことをしたんだ?
お前たちにしか分からない目的があったのか?)
(私にも分かりません。
ただ工神はそうするべきだと思ったのでしょう)
フレアに答える気はないようだった。
知っていて言う気がないのだ。
裏に策略があるのは確実だ。
僕は考える。
あのロボットは、
ある種の治療行為で人類に利益を与えていた。
おそらく人類には対価を要求していたはずだ。
それが何なのか分かれば、
陽電子脳の目的の正体もつかめるだろう。
黄衣派の中核にいた者ならば、
知っている可能性はあるだろうが、
今の僕にその情報を得る手段はなかった。
フレアめ、切り札一つを得たということか。
気付くと遙花は足を止めて僕を見ていた。
「どうしたんですか」
「いや、ちょっと考えごとだ。
なぜ工神は開祖を助けようと思ったのかって」
僕は軽く言う。遙花は目を細める。
「工神という人は、開祖さんが訪れるまで、
スワルガにずっと一人でいたんですよね」
「そういうことになるな」
「それなら私にも分かります」
遙花は確信に満ちた表情で言った。
「きっと寂しかったんです。
だから話し相手がほしくて、
その開祖さんを助けたんだと思います」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
「初期の黄衣派は、ソーマを本来の形で、
病に冒された者、人生の最後を迎えた者の、
終末の苦痛を取り去ることに使用していた。
健康な者に麻薬のような効果があることは、
既に広く知られていたが、
病人以外への利用は戒律で固く禁じられ、
違反者は厳罰に処された」
祭殿の暗闇の中でトウロは語った。
コウサはそれを受けて続きを語る。
「戒律が崩れたのは、
正統派との戦争が泥沼と化した頃だ。
スワルガに集まる我らの数が、
無視できぬものとなるにつれ、
正統派からの圧力は強くなり、
最終的に戦争が始まった。
それは開拓以来最初の人類同士の戦争だった。
黄衣派と正統派の戦力差は十倍以上。
黄衣派の法灯は風前のともし火。
戦いになる状況ではなかった」
コウサは黙った。
トウロが続けた。
「だが黄衣派は生き残り続け、
正統派の軍隊を退け続けた。如何にしてか」
「ソーマだ」
「そうだ。ソーマだ」
「我らは禁を破った。工神から賜ったソーマを、
二つの禁じられた用途に利用した」
「一つは戦士たちへの利用。
痛みと恐怖を忘れた僧たちは、
胴体を貫かれても、腕を斬り落とされても、
心臓が停まるまで戦い続けることができた」
「もう一つは、スワルガの外への輸出。
ソーマで稼いだ金で貴族から武器弾薬を買った」
「戦争は終わり、黄衣派は生き残った」
「だが一度崩れた戒律は戻らなかった」
「最初から分かっていたはずだ。
一度使えば、もう止めることはできない」
「分かっていて僧たちに使わせた。
温厚な彼らを戦士とする手間を惜しんだために」
「外の客も一度使えばもう止めることはできない。
彼らはソーマを求めて、スワルガに押し寄せた」
「黄衣派は彼らを受け入れた。
甘い汁を求める厄介者であったとしても。
それは我らの罪であったから」
「そうだ。黄衣派の罪だ」
「我らは罪人であることを受け入れてしまった」
「そして黄衣派は工神を謀り続けた。
ソーマは今まで通り病人にしか使っていないと」
「我らは欲深くなっていた。
気付いたときには手遅れになっていた。
ソーマの金がなければ何もできなくなっていた」
「よきことも、あしきことも全て、
ソーマで得た金がなければ続けられなくなった」
「そして、ソーマは金を稼ぐためにあるのだと、
我らはいつしか考えるようになってしまった。
こそこそと隠れて売りさばきながら、
それが正統なことと考えるようになっていた」
コウサは語った。
トウロは頷いた。
「今それが衆目の下に晒された。
今それが工神の耳まで届いた」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
(では伝えましょう、工神の言葉を)
機械仕掛けの怪物は語った。
(私は工神に今のスワルガの状況を話しました。
黄衣派が今何をしているのか、
ソーマがどのように使われているのか、
その全てです。
工神の力はこの六百年で衰えていました。
あなたがたと意思を交わす機能も失われ、
できることは、
もうソーマを生産し続けることだけでした。
しかしそれでも工神は信じていたのです。
ソーマがあなたがたの生を、
実りあるものとしていることを。
生涯の終わりの苦痛をなくすことで、
皆が最後まで笑って過ごすことができるのだと。
あの設備は本来、
自己を修復するために用意された最終手段です。
ですが工神はそれをあなたがたのために使った。
自分の存在よりも、
あなたがたの幸福を優先したのです。
それなのに、あなたがたは裏切った。
工神の好意を無にし、
ソーマを愚かな金銭欲のために、
人に不幸をもたらす悪魔としたのです)
その冷徹な口調に、トウロは恐怖した。
機械仕掛けの怪物はゆっくりと続けた。
(ですが工神はこう言いました。
失敗したのは自分だ。
あなたがたの幸せのためには、
ソーマはもう生産されるべきではない。
ソーマの生産しかできない自分もまた、
存在しない方がいいようだ、と。
そして最後にこう伝えるようにと言いました。
トウカの末裔たるあなたがたが、
幸福な生を送ることを祈ります。
あなたがたと共にあった私は幸福でした、と)
伝承にある工神ならばそう言うだろう、
そんな慈悲深い内容だった。
だがそれはあまりに人にとって都合がよすぎる。
トウロでさえそう思うのだ。
同族ならば何と思うだろう。
(工神には私が永遠の休息を与えました。
そして今、私はその遺言を伝えました)
機械の目がじっとトウロを見つめた。
その視線は、ゴミ屑を見る目だった。
(あなたがたは罪深く欲深い存在ですが、
工神はそれを許しました。
私もあなたがたを許すしかないのでしょう)
怪物は疲れたように言う。
(私には分かりません。
なぜ工神はあなたがたをこれほど愛したのか。
あなたがたはその価値のない存在だというのに)
そんなことを独り言のように残して、
怪物は姿を消した。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
「俺は黄衣派の命脈を確保しなければならん。
それが法皇の責務だからだ。
だが同時に、工神の名誉も守りたいと思う。
麻薬で人を殺し続けた悪魔としてではなく、
霊薬を与えた神として、その名を伝えたい」
トウロは超然とした表情で言った。
「俺はそのために、
己が罪深い存在となることを怖れていない。
だがソーマと工神の関係を知る者全てを、
処分できたかどうかは自信がない。
だから、俺が死んだ後の後始末を頼みたい」
コウサは頷いた。
「受けよう。
工神の名誉を守ることは、
黄衣派の名誉を守ること。
それは法皇の責務だろう」
トウロは満足げに微笑んだ。
「それでいい。それでこそ次代の法皇だ」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
そして法皇トウロは、
コウサへの引継ぎを済ませて、
服毒自殺の準備を始めた。
責任は取らなければならない。
だがそれはあくまで心労が祟った上での、
心臓発作による病死でなければならなかった。
法皇は無謬。故に黄衣派も無謬。
法皇の意思と関係なく悪事を働いた、
守旧派の幹部たちだけが、病巣にして悪。
事実がどうあろうと、それこそが真実だった。
何とも、救いようのない悪よ。
己の罪深さを笑いながら、
トウロは静かに死に向かう。
いつも通りの仕事着で書斎に座る。
机の上には仕事道具が、
いつものように広げられている。
暗部が薬と水を持ってきた。
包みと杯が机の上に置かれる。
トウロはそれを見つめる。
悔いはあるが、だがそれでいいと思う。
トウロはある種の特権階級だった。
父は黄衣派の頂点であったし、
トウロ自身も、
黄衣派の頂点に立つべき者として生まれ、
その通りに生きた。
幼い頃は迷いを抱くこともあったが、
それもすぐに捨てた。
トウロは個人ではなく法皇だった。
全ての罪深いことも全ての正しいことも、
法皇として覚悟をもって実行した。
その結果としての後悔くらい、
引き受けるべきだろう。
この先の苦難を、
弟に押しつけるのは少し気が引けるが、
やはりトウロはここで死ぬのが最善だった。
十分に生きた。
次の機会があれば、
記憶を失ったムミョウの後輩になって、
山師にでもなってみるかな。
トウロは笑う。
そして毒を呑む。
短い苦しみの後、
トウロの意識の時は停まった。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
夕方――
僕と遙花は回廊を一回りした後、
周辺の史跡を巡って教会に帰ってきていた。
「よう、お楽しみだったようだな」
教会には、ナイジェルが戻ってきていた。
顔を真っ赤にする遙花を横目に僕は笑う。
「観光をな」
そして一休みする。
ナイジェルも帰ってきたばかりのようだった。
「何か新しい情報はあるか?」
僕は尋ねた。
ナイジェルは少し考え答える。
「そう言えば、
やっと黄衣派の法皇が決まったようだな」
「代替わりしたのか、先代はどうしたんだ?」
「先代は過労による心臓発作で死んだらしい。
例の件の真っ最中だったから、
後任の人事が遅れていたが、
今日やっと決まったとさ。
次代は革新派の長老だそうだ」
「順当だな」
「でもそいつ、死んだ法皇の弟だったらしいぜ」
革新派と残った守旧派の間で、
バランスを取れる者が望ましいのは確かだ。
革新派の重鎮でありながら、
先代の弟である、というのは望ましい条件だ。
「悪くない選択だな」
僕はそれだけ答えた。
気付けば、フレアがこちらを見ている。
見返すとフレアは視線を避けるように、
目を閉じた。
(ハルカに明日の予定は話したのですか)
(これからだ)
僕は立ち上がる。
もうスワルガでできることはほとんどない。
それに遙花の春休みも、そろそろ終わりだ。
もう帰らなければならない。
遙花は教会の裏手で女の子と話をしていた。
「遙花、いま、大丈夫か?」
声をかけると遙花は慌てたように僕を見る。
「き、聞いていましたか?」
何を話していたのか。
僕は首を振る。
「何も。今来たところだ」
「そ、そうですか。
時間は空いていますよ。何でしょうか」
「朝にも言ったことだが、
明日には出発しないと、
学院の開始に間に合わない。
今日はこっちの宿に一緒に泊まらないか?」
「それは嬉しいお誘いなのですが」
「何かあるのか」
「今夜はみんなとお別れ会をする予定なんです」
遙花は恥ずかしそうに言う。
「それなら、教会に泊まる方がいいな。
ただし明日の早朝には迎えに来るから、
それまでに出発の準備を済ませておくように。
荷物もきちんとまとめて忘れ物のないようにな」
「ありがとうございます、兄さん」
「ベルトで働くなら、
ここの子供たちとも長い付き合いになる。
仲良くしておいて、損はない」
「ふふ、兄さんったら」
遙花は笑う。僕はフレアと宿に帰ることにした。




