前を向いて逃げましょう(1)
グリム、とは……
『――でてこいぃぃ――!』
「な、なに、いまの……?」
森に、村にまで轟いた獣の叫びは、教会堂宿舎内にまで響いていた。
「遠吠え? でも、『声』みたいなのも混じって……」
『グリムに決まっている』
「――って、あんたの仕業?」
『そんなわけないだろう。ライラ、教えてやれ』
女はすでに格子窓に近づいて、空気に含まれる穢れに耳を傾けている。
静かに佇むその長い背中には、他を黙らせる効果があるらしい。
『……獣の群れ……ものすごい数……大きいのから小さいのまで、こっちに向かっている……』
『――つまり、グリムの群れってこと?』
『全部、かどうかは分からないけど……人間の村をまっすぐ目指しているということは、少なくともグリムが指揮しているということになるわね……』
『さっき聞こえたのが、ボスの声でしょうか?』
『多分……』
つぶやきながら、ライラは口元に指を当てる。
『……静かに。また聞こえてくる』
『――でてこい、くそネコォォォォォ――!』
「……今、猫って聞こえたような……」
「……聞こえましたけど……」
『……そうねぇ……』
視線がユアの胸元に集まる。
そこに何があるのか、おれも振り返って覗き込んでみる。
「ちょっと、何しらばっくれてるのよ!」
「ネロ様ぁ……」
『全く……奴隷よ、主人を疑うとは嘆かわしい。きさまはなぜおれを抱きしめている? おれを真っ先に保護したきさまの献身はどこへ行った?』
『そ、そうでした……じゃあ、今のは聞き違いか、猫違いということですね?』
『いや。おそらくおれのことだろう』
「やっぱり!」
『お、落ち着いてサラちゃん……ネロ様にも何か事情が……』
『でもこいつが原因なのは確かじゃない。一体どういうこと? 何が起きているの?』
『何が、どうして……きさまはそればかりだな』
聞き飽きて、あくびが出る。
『どういう意味よ!』
『ほら出た。ちょっとは自分で考えろ。少なくとも今、きさまの目はきさまを裏切ったりはしない』
「…………っ!」
『……とにかく、これはネロ様のいたずらではない、ということですね?』
『まぁ、そんなところだ』
角笛が鳴り響く。
続けて村のあちこちから太鼓や鳴子の音がする。
ようやく、危険を察知した連中が動き出したのだろう。
しかし、実際に何が起きているのかを知るにはまだ時間がかかるだろう。
『――サラ、このことを司祭様に』
警備の連中の声や音で、ライラもやつらが事態を把握していないことに気付いたらしい。
『でも、それは……』
『信じてもらえるとは思えないし、不審に思われるかもしれない。でも、黙っていたらどうなるかは、あなたが一番理解しているはずよ?』
サラはユアを一瞥する。
この奴隷がなぜグリムを前に置き去りにされたのか、その意味や理由を思い出したらしい。
「……分かったわ。説得できるとは思えないけど、やれるだけのことはする」
「サラちゃん、私も――」
「あんたはライラの護衛。だいたい、ネロ様はどうするのよ?」
「そ、それは、また尻尾に……」
「とにかく、交渉はあたしの仕事。いざとなったら、あんたにドアでも窓でもぶち破ってもらうんだから。ここで待ってなさい」
返す言葉が見つからないまま、奴隷は廊下の先に消えていくサラの背中を見送っていた。
……くそネコとは、どんな猫だ?




