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その二



「キャアァァァァァァ────……ッ」

「だ、だれかお助けを……っ」



 悲鳴と共に、逃げまどう住人たち。

 ちょうど屋敷を出たところだったメルファは、一般区のほうから聞こえてきた声に足を止めた。

 イーシスたちにも緊張が走る。


「何事だ」


 一般区から走り寄ってきた護衛神官見習いに鋭く問いただすイーシス。

 畏まった彼は、片膝をつき、深く頭を下げてから言った。


「守警団による反乱です」

「ふんっ、サリタニが捕らえられ、次は自分たちの番と(おのの)いたか。──小賢しい」

「すぐさま、鎮圧を。それとルオンの民に被害が及ばないよう避難させなさい」

「けれど、それでは手が足りません。今、動ける者は十にも満たないのです」


 サリタニたちの捕縛に人員を割いた結果だろう。

 黙って聞いていたメルファは、決然とした顔でリオスを見つめた。


「貧民区の仲間にも手伝ってもらう。逃がすくらいなら、できるよ」

「いえ、あなた方の手を煩わせるわけには……」

「バカッ! こんなときに遠慮なんかするな。ここはあたしたちの街なんだよ。あんたたちだけに迷惑かけるわけにはいかない。蔑まれる貧民区のヤツらだって、ちゃんとできるんだってとこ見せつけてやるんだ」


 不敵に笑んだメルファは、制止の声を振り切って駆けだした。


「……んのバカがっ」


 イーシスがなにか叫んでいるようだったが、メルファは構わず入り組んだ路地を走り続けた。だれか追いかけてきたようだったが、ルオンで生まれ育ったメルファのように道に詳しくなかったようで、しばらくすると気配は消えていた。

 雨は止んでいたが、土がむき出しの地面はところどころぬかるんでいた。メルファは綺麗な衣装が泥で汚れるのにも構わず、みんなが保護されている場所へと急いだ。

 幸いにも守警団員と出くわすことはなかった。


 街の外れにある屋敷へとたどり着いたメルファは、息を整える間もなく乱暴に重厚な扉を開けた。

 護衛神官見習いはみんな出払っているようで、中はシンッと静まり返っていた。

 みんな守警団を恐れて身を潜めているのだろう。

 少し古びた外観に違わず、中も蜘蛛の巣や埃だらけであった。人が生活しているとはだれも思わないだろう。


「みんな、どこにいるの──っ!? あたしだよ、メルファだよ!」


 メルファが大声で叫ぶと、奥からカタンッという物音がした。

 そちらへ駆け寄ると、見知った顔があった。

 元気そうな様子にホッと表情を緩ませたメルファは、次々と現れた仲間の姿に胸をなで下ろした。


「メルファ、いったいどこへ行ってたんだ」

「てっきり守警団員に捕まったと」

「なんだ、その格好は! どっかのお貴族さまの屋敷で働いてたのか」


 口々にわめく彼らに、呆れた顔をしたメルファは静かに、と叫んだ。


「捕まった子供たちなら無事だよ。主神殿の神官どもが保護してくれた」

「主神殿……?」

「保護だってよ」


 ざわめく彼らに、メルファは頭を下げた。


「ごめんっ。今回の件はあたしが原因なんだ。でも、今はそれを詳しく説明してる暇はない。みんなに力を貸して欲しいんだ!」


 突然の懇願に仲間の顔に困惑が広がった。互いに顔を見合わせ、メルファの言葉が理解できないというように首を捻る。


「街の中心部で守警団が暴れてる。主神殿の神官が沈めようとしているけど、人手が足りないんだ。このままだと守警団のヤツらにルオンを乗っ取られちゃうかもしれない」

「ルオンの神官はどうした?」

「──捕まったよ! 主神殿の連中はね、ルオンに巣くった闇を払いに来てくれたんだ」


 ワッと歓声があがる。


 彼らも神官の悪事を知っていたのだ。

 そんな彼らに向かってメルファは真摯に言葉を紡ぐ。


「ねえ、これは大きな転換期だよ。あたしたちの手で、ルオンに光を取り戻そうよ」

「しかし、守警団相手なんか……」

「あんたたちは無関係な住人を逃してくれるだけでいいんだ。守警団員が知らない裏道とかいっぱい知ってるでしょ? 主神殿の神官は、そこまで手が回らないから、それを手助けして欲しい。勝手なお願いなのはわかってる。けど、受けた恩は返したいんだ」


 メルファがそう締めくくると、最初は不安そうだった仲間の顔もしだいに力が入っていくようだった。


「……そうだな、俺たちもアイツらに助けてもらったんだ」

「恩知らずって思われたくないな」

「やるか──!」

「おうっ、守警団のやつらの悔しそうな顔を拝んでやろうぜっ」


 盛り上がる彼らに、メルファの顔も輝いていく。


「あたしたちを苦しめてきたヤツらに、一泡吹かしてやろうじゃない!」


 メルファが威勢よく叫ぶと、賛同する声が続いた。









 仲間たちが何人かに分かれて散らばっていくのを見送ったメルファも、走りにくい格好のまま地面を蹴った。

 心ばかりが焦っていた。


(無事でいて──っ)


 どうかイーシスたちが無傷でありますようにと、そればかり祈っていた。

 街中へと近づくと、怒号が聞こえてきた。

 争う人の声。

 逃げまどう人々。


「うぇ~ん……、ひっ……く、…おか、さ……っ」


 ふと泣き叫ぶ子供の声を耳にしたメルファはとっさに方向を転換させた。


「うるせぇ!」


 そこには、泣きじゃくる子供相手に剣を抜いた守警団員がいた。風に乗って、血のようなマントがひらめく。


「危ないっ!」


 とっさに守警団員に体当たりをしたメルファは、幼い子供を抱えた。


「この──……っ」


 まさかメルファのような小さな子供に倒されるとは思っていなかったのだろう。顔を真っ赤にしながら立ち上がった彼の顔は、荒ぶる神が乗り移ったかのようだった。

 しかし、その顔はすぐに慌て出す。下衣を留めていた帯紐が緩み、ずり落ちたのだ。

 ハラハラと事の展開を見守っていた周囲から失笑が漏れる。


「んふふ、か弱いあたしだってね、やるときゃやるのよ」


 メルファがにやぁっとほくそ笑む。体当たりをしたときに、帯紐を緩めたのだ。


「バァーニャ!」


 母親らしき人物が涙を浮かべて駆け寄ってきた。彼女に子供を引き渡すと、何度もお辞儀をして去っていった。


「ほら、みんなもぼさっとしてないで逃げて!」


 メルファが声を荒げたそのとき、体が引っ張られた。


「油断するな、バカ者」


 懐から短剣を取り出したイーシスは、怒りに顔を紅潮とさせた守警団員の剣を受け止めた。メルファがほかに気を取られているうちに帯紐を結びなおしたようだ。

 胸元にメルファを引き寄せながら、イーシスは短剣を鮮やかに操っていく。キンッと金属のぶつかり合う音が何度も繰り返される。


「柔いな」


 鼻で笑ったイーシスは、不利なはずの短剣で剣先をはねのけた。守警団員の手から離れた剣は空中で弧を描きながら石畳に突き刺さった。


「くっ」


 降参といいたげに片膝をついた彼に、イーシスが、そばにいた護衛神官見習いに連れて行くよう命じた。


「ふぅん、やるじゃん」


 メルファの賛辞にほんの少しだけ白皙の美貌に朱を走らせたイーシスは、そっぽを向いた。


「貴様らの尽力のおかげで、住人は混乱なく郊外へ避難している。怪我人は多少出ているが問題ない」

「そっかぁ」


 思わず笑顔になったメルファだったが、どこかで聞いたことのある声に耳を澄ませた。


「……んだ! このままではワシは身の破滅だっ」


 ドゥオーラクがだれかに向かって叫んでいる。

 どうやらサリタニが捕まったときにはすでに屋敷を出ていたらしい。まんまと逃げおおせたのだろう。

 近づいたメルファは、そこにドゥオーラクと守警団長の姿を認めた。

 内輪もめだろうか。吠えるドゥオーラクに、守警団長のほうも苛立たしそうに応酬していた。その周囲を百人以上の守警団員が囲み、辺りをしきりに警戒していた。


「イーシス様」


 すっとイーシスの隣に、いつの間にか姿を現したリオスが膝をついた。


「分散した守衛団員はあらかた捕らえました。残るは、あそこにいる者たちだけです」

「そうか、ご苦労だった」

「こっちも片付けたよ~。弱すぎて、準備体操にもなんないや」


 屋根を伝ってきたらしいアークが、空から降ってくると、優雅に着地した。

 会話を聞いていたメルファは驚きを隠せなかった。守警団員は総勢で五百人余りいる。あそこにいる者たちを差し引けば、四百人程度をたった数十人で相手をしたというのだろうか。


 しかも、こんな短時間の間に。


 気づけば周りに住人たちの姿はなく、残っているのはメルファたちとあそこにいるドゥオーラクたちだけとなっていた。


「ルオンの闇を根絶やしにしてやれ」


 イーシスが命じると、御意と頭を下げたふたりが、跳躍した。


「護衛神官見習いが揃うの待ったほうが……」


 護衛神官の実力を知らないメルファは不安な顔でアークたちを見つめた。

 しかし、イーシスは余裕の顔で唇の端を持ち上げた。


「いいか、よく見ておけ。なぜ主神殿をたった十人の護衛神官に護らせているのか。護衛神官に選ばれた者には、女神の加護がある」

「加護……」

「その力、非凡にて──無敵」


 敵陣に真正面から突っ込んでいったアークとリオスは、武器を持っている守警団員相手に、素手で立ち向かった。


「はやい……」


 メルファは思わず目を疑った。

 一瞬で数十人が倒れたのだ。

 多分、倒された人たちも何が起こったのかわかっていないだろう。呻きながら地に伏していたのだから。

 一瞬の動きも見逃すまいと注視したメルファは、アークたちが素手でないことに気づいた。


「光る……糸?」


 リオスが流れるような動作で操っているのは透明な糸であった。

 対して、アークは針のようなものを投げつけていた。


「ふんっ、目ざといな」

「……加護じゃないじゃん」


 愉快そうに呟いたイーシスを、メルファは白けた目で一瞥した。


「なにをしているっ! 怯むな」


 異変に気づいた守警団長が叱咤する。

 しかし、たったふたりの護衛神官によって百人余りの守警団員が倒れるまでそう時間はかからなかった。

 守警団長まであと少しというそのとき、メルファはドゥオーラクの姿が見えないことに気づいた。

 どこへ、と視線をさまよわせた刹那、突然腕を引っ張られた。


「メルファっ」


 イーシスが手を伸ばすが、一歩遅かった。

 気配には敏感なはずのイーシスも目の前の戦いに気を取られるあまり、ドゥオーラクが近づいてきたことに気がつかなかったのだろう。


「おお、これは麗しの女神レウリアーナ様。このような場で再びお目にかかれて光栄です」


 メルファの首に短剣を突きつけた状態でよくも賛美できたものだ。

 見え透いた世辞に、メルファの顔が引きつった。


「おっと、少しでもそこを動いたらこの方の命はありませんぞ」


 イーシスたちを牽制したドゥオーラクの双眸はぎらついていた。


「よくやった、ドゥオーラク」


 メルファを人質にとられては手も足も出ないアークとリオスの様子に、守警団長は形勢逆転を悟ったようだ。無事だった守警団員にふたりを捕らえるよう命じ、悠然とメルファたちのほうへ歩いてきた。


「サリタニ様もまだまだだなぁ。実の息子に裏切られるとは爪が甘い」


 ちらりとアークを蔑視した守警団長は、そう吐き捨てた。

 守警団長はもともとがっしりとした体躯に深紅の短髪の理知的な男だったが、今は憔悴して頬がそげていた。メルファが団員を仕切っている彼を街で見かけたときはもっと表情も柔らかかったはず。サリタニが逮捕されたせいで、顔つきも変わってしまったようだ。

 どこか狂気じみた眼が、イーシスを捕らえる。


「悪いが、ルオンをあんたらの手に渡すわけにはいかねぇな。ここは俺の城だ。なに、ここから出て行って、二度と関わらなきゃなにもしやしないさ」

「新たな神官長と神官を派遣しなければ、神殿は機能しないぞ」


 イーシスが冷静に告げると、守警団長はおかしげに笑った。


「はっ、それがどうした! 元から俺は神官どものことを好いてなかったんだ。きたねぇ仕事ばかり押しつけやがって、あいつらは優雅に暮らしてやがる。住民どもに畏怖される俺らの気持ちがわかるか? こんなに一生懸命、街の平和に尽力してやってるってぇのによぉ」

「ルオンが孤立すれば、いずれ災いが降り注ぐぞ。女神の加護を失えば、どのような運命が待ち受けているのかわかっていないようだな。神官長は伝え広めなかったのか」

「……っ、うるせぇ!」


 青筋を立てた守警団長がイーシスの胸ぐらを掴んだ。

 けれどイーシスの顔に恐怖の色は浮かばなかった。冷たい灰色の双眸が、守警団長の醜い心を見透かすように貫いた。


「口を閉じるのは貴様だ。神殿の重要性を知らないようだな。なぜ街ごとに神殿が設けられていると思

う。神殿はいわば護符のようなものだ。神官の祈りが神殿を満たし、女神の御力を受け取る器となる。そこから街へ広がり、災厄や疫病から護っているんだ。神殿がその効力を失えば、自然の猛威はこの街に襲いかかり、一昼夜も持たずに塵へと成りはてるだろう」

「戯れ言だっ! だまれっ」

「神官を厭うのは勝手だが、ここは女神レウリアーナの加護を受ける慈雨の地ファーゼ。女神すら軽んじるなら、貴様を異端者とみなし断罪する」

「こンのォォォォォォ──ッ」


 キレた守警団長がイーシスの体を突き飛ばし、剣を振り上げた。


「イーシス様!」


 リオスたちが悲鳴をあげる。すぐに駆けつけたいようだったが、人質となっているメルファに気づくと苦しげに拳を握った。

 メルファが足手まといとなっていたのだ。もしメルファが捕まっていなかったら、彼らは一瞬で拘束している者たちを倒し、イーシスを救出しただろう。


(あたしのせいで……)


 お荷物なんかなりたくなかった。

 ただ、イーシスたちの手助けをしたかったのだ。


「くっ」


 間一髪のところでイーシスが剣先を避ける。

 それに安堵したメルファだったが、まだ守警団長の攻撃は緩んでいない。


「あのお嬢ちゃんがどうなってもいいのかな」

「!」


 短剣を構えたイーシスとメルファの視線が合った。


「あたしの命なんかどうでもいい! だから死なないでよっ」


 メルファは訴えるが、ふっと微笑んだイーシスの手から短剣がすり抜けて、地面に落ちた。覚悟を決めたような顔に、メルファの胸がぎゅっと締めつけられる。

 彼は死んではいけない人だ。


「そう、それでいい」


 舌なめずりした守警団長は、剣を振り上げた。


「イーシス────ッ!」


 メルファはとっさに自分の首に巻き付くドゥオーラクの腕を噛んだ。ぎゃっと叫んで手が緩む。それを振り払った刹那、短剣の先が首に触れ、ちりっとした痛みが走ったがメルファは構わなかった。

 もつれそうになる足を叱咤しながらイーシスの元へ走った。


 多分、それは瞬きの間のことだったかもしれない。


 けれどメルファにはずいぶんとゆっくりと感じられた。


 守警団長が、仰向けに倒れるイーシス目がけて剣を振り下ろした。


「ぁ…ぅ……っ」


 イーシスの上に体を滑り込ませたメルファの背中が、灼熱が走った。痛いというより、熱かった。


「ちっ、し損じたか。邪魔な小娘がっ」


 悔しげに呟いた守警団長がメルファを蹴りつけた。

 刹那、イーシスの顔色が変わった。


「貴様、その命を長らえられることができると思うなよ」


 短剣を掴んだイーシスは、剣を握る守警団長の右腕に放った。深々と突き刺さる短剣。


「うぅ、腕があぁぁぁぁぁぁっ」


 剣を落とし、悶絶する守警団長。


「ひ、ひいぃぃ」


 ドゥオーラクが悲鳴をあげて逃げだそうとするが、アークとリオスがそれを阻んだ。メルファが斬りつけられた瞬間、動きを封じる守警団員をのしていたのだ。

 いとも簡単にドゥオーラクを気絶させたふたりは、メルファの周りに集まった。

 自分の胸に倒れ込んだメルファの体をそっと退かしたイーシスは、上半身を起こすと斜めに走った線に目を細めた。血があふれ出し、見る間に衣服を汚した。


「イーシス様、いけません」


 メルファの血がイーシスに移る前にリオスが抱えようとしたが、イーシスが制した。


「よい」

「ですが、血は……」

「澱みのない血が穢れているものかっ」


 イーシスはぐっと奥歯を噛み、恐る恐るメルファの傷口に触れた。深く斬りつけられたようで、ぱっくりと開いていた。


「メルファ、返事をしろっ」


 痛みに呻いていたメルファがうっすらと目を開ける。だが、虚ろな目は、ほとんど光を宿していなかった。

 それでもイーシスの声に気づくと、微かに笑った。


「けが、ない?」

「なにを言っているんだ。怪我は貴様が……」

「あん……たが、だぃしん、かん、……なくなった……ら、だ、……」


 とぎれとぎれの言葉。

 息を吐き出すのも辛そうだった。

 メルファは言葉を続けようとしたが、ついにその口が音を発することはなかった。力を失った四肢がだらりと垂れる。


「うそ、でしょ? こんな結末ってないよ。オレは、……オレはこのためにメルファちゃんを選んだんじゃないっ」


 アークは、血の気を失った顔でぴくりとも動かないメルファの頬に触れた。


「まだ、あたたかいじゃん……。あはっ、きっと死んだふりしてるんだ。そうでしょ? きっと今に目を開けて、オレたちに、とっておきの笑顔を見せてくるはずだよ」


 リオスは沈痛な顔で顔を背けた。人の死など多く見てきた彼でも、この光景には耐えられなかったのだ。

 なぜ、なぜ、と疑問ばかりが膨らんでいく。

 どうして悪者ではなく、メルファが命を失わなければならないのだろう。

 未だ痛みにもがき苦しむ守警団長をリオスが容赦なく足蹴にした。


「あなたの、せいでっ。崇高なる魂をよくもっ」

「うがあぁぁぁぁっ」


 イーシスはリオスの過剰な暴行を咎めることなく、メルファに視線を落とした。顔だけみれば、まるで

眠っているようだった。


「女神よ──、なぜ。なぜ、この娘の命を万能なる神に捧げなければならなかったんだ!」


 イーシスは地面を叩いた。







 ──と、そのとき。





 灰色の空に閃光が走った。



 眩しさに目を細めたのは、イーシスだけではなかった。アークとリオスも手をかざした。


 次の瞬間。


「はぁ~い。イーシスちゃん」


 なんとも場違いな間延びした声が軽やかに響き渡った。

 辛気くさい雰囲気を払拭するような明るい声は、玲瓏とした美声であった。


「め、がみ……」


 呆然と呟いたのはだれだったか。

 光の中から現れた人物に、あわてて最上の礼をするアークとリオス。

 神気をまとい、この上なく高貴な容貌の持ち主は、ぐるりと周囲を見渡すと小首を傾げた。


「ルオンもずいぶんと(しょう)()に満ちたこと」

「女神、なぜ貴女が」

「ヴァーナントちゃんとの追いかけっこも楽しかったけどぉ~、ちょっと飽きちゃった。きゃはっ」


 いやん、あんまり見つめないで、と嘯く女神レウリアーナの後ろに、すっと空間を切って地味な色の外套に身を包んだ者が現れた。

 女神は、最初から彼が現れることを把握していたようで、一瞥することもなく命じた。


「ローレンちゃん、これはあなたの領域よ。女神レウリアーナの名において命じます。この娘の魂魄を引き戻しなさい」

「け、けれど、それは神規定に反して……」

「あらん?」


 渋るローレンに、くるりと振り返った女神が、縮こまる彼の鼻先をちょんと突いた。


「いくらイーシスちゃんの命令だったとしてもぉ、わたしの許可なく鎌をふるったのはだぁれ? 恐怖に屈したあなたが正論なんて吐けないわよねぇ。本来、巫女ではない民に鎌を向けるのは禁じられているはず」

「は、はいィィィィィ」


 ローレンの顔からだらだらと冷や汗が滴り落ちる。

 死神といえど、女神に逆らえる者などこの世には存在しないだろう。


「幸い、この娘は試練を乗り越えたようだけれどぉ、魂の定着がちょっと不安定だわねぇ。いい機会だから、しっかりと直してあげなさい」


 女神は、血まみれのメルファに近寄ると、すっと傷口に手をかざした。とたん、見る間に傷口が癒えていく。


「これでローレンちゃんが魂を連れ戻せば生き返るわ」

「な、ぜ……」


 イーシスが信じられないといいたげに呟いた。

 レウリアーナは豊穣と慈しみの女神であったが、そう人間界の諍いに関知することはなかった。降臨祭のとき以外は静観しているのが女神レウリアーナだったはず。


「そぉねぇ、この娘が定められた運命によって亡くなったならば、わたしは時の女神の反感を買ってまで、命を戻すなんて愚挙は犯さないわ。けれどこの子は違う。巻き込まれた運命によって無惨に奪われた命を、わたしには救う義務があるのよん」


 それに、と続けた。


「一度でも資格を得た者をわたしが見逃すと思って?」


 ほほほっと高笑いをする女神に、知らず緊張していたイーシスが肩の力を抜いた。


「あなたの言葉もちゃぁんと届いていたわよ?」

「……っ」


 先ほどの言葉を指しているのだろうか。

 カッと顔を赤らめたイーシスを愉快そうに眺めた女神は、痛みに気絶した守警団長に近寄った。

 護衛神官の制止を振り払い彼の前へ立った女神は、それは慈愛深く微笑んだ。


「この子は、ちょぉ~っと、おいたが過ぎたよぉね? いつの日か更生してくれると一縷の望みを掛けていたのだけれど、無理だったよぉね」


 女神すべてを知っていた。

 守警団長の嘆きも苦しみもずっと聞こえていたのだ。

 彼は、当初神官を目指していた。だが、見習いから昇格できずに挫折したのだ。そこで守警団に入団し、影から神官を支えようとした。


 その心意気はとても好ましく女神の胸を打ったものだった。

 けれどこの者は、だんだん闇に染まっていってしまった。彼の魂が浸食されていくのを女神はただ黙って見守っていることしかできなかったのだ。


 きっと、ルオンに流れる澱んだ空気が陰の気を運んできてしまうのだろう。

 光に包まれた女神は、すっと手を挙げた。軽くその美しい手を振るうと、神気が灰色の空を流れるように舞っていく。


 きらきらと金粉のような神気が霧深きルオンの街を包んでいった。


「さあ、あなたの闇を払いましょう。あなたがまた、真っさらに戻れるように」


 そう言って彼の額に口づけた女神。


 顔を離した女神はまじまじと守警団長の顔を見つめ、ため息を吐いた。その顔に先ほどまでのすべてを慈しむような温かさは微塵もない。


「昔は可愛かったのにぃ~、こんなにゴツくなっちゃうなんて残念だわぁ」


 不服そうに唇を突き出す女神に、イーシスがひくりと頬を引きつらせた。

 またか、とばかりにアークとリオスも苦笑していた。


「まさか、こいつを覚えていた理由は……」

「もっちろぉん、好みの男だったからに決まってるじゃなぁい。きゃはっ。あ、でも今はぁ大好きな人がいるから、その人以外興味ないのよん」

「だからって降臨祭を放り出す女神がどこにいるっ」


 先ほどまで女神に敬意を払っていたイーシスは、茶番は終わりだとばかりに容赦なく彼女をなじった。


「いやぁん、ちゃんと戻ってきたからいいじゃなぁい。わたし、そこまで無責任じゃないわよ~だ。イーシスちゃんてば、ちゃっかりわたしの替え玉なんて用意しちゃってぇ。巫女であろうと、わたしから力を引き継がないと女神になんてなれないのにぃ。もともと彼女が神気なんてまとおうなんて無理があったのよん」


 舌打ちを呑み込んだイーシスは、ふっと腕の中のメルファに視線を落とした。

 女神が戻った今、これで彼女は用済みだ。どこか寂しい気もするのはきっと気のせいだろう。


 これから忙しくなるな、とイーシスは心中で呟いた。


 今回の事件で神官長と繋がっていたみられる神官は、すでにバルティンが取り調べたようだった。

 ローゼス主神官は完全に無関係であった。

 法神官と懇意にしているバハス従神官に内通者が近づき、ローゼス主神官が印章を借りたがっていると嘘をついたようだ。ローゼス主神官のためならばと、法神官から無理に借りたバハス従神官は、こんなに大ごとになっているとは知らなかったのだろう。

 勝手に名を悪用されたと知ったローゼス主神官は、酷く憤慨していたようだ。


 そこへ、死神のローレンが戻ってきた。その顔はげっそりとやつれ、目に涙が滲んでいた。よほど怖い目に遭ったようだ。

 メルファの体を差し出すと、ローレンは涙目で右手を心臓の上あたりに置いた。



「──こ、魂魄帰還ですゥゥゥゥ」



 とくん、と心臓が鳴った音がイーシスにも届くかのようだった。

 血の気を取り戻し、呼吸をはじめるメルファの姿に、イーシスだけではなくアークたちも喜色を浮かべた。





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