9.「ちょうどいいところに」
「これ、全部未処理なんですか?」
「おおむね、そうだ」
「……どういう順番で、処理しているんですか」
「順番?特にない。目についたものから、片付けている」
あっさりとした答えに、思わず眩暈がした。
「目についたものから、というのは……」
「目を通して、必要なら直接出向いて対応する。面倒なものは後回しにする」
「後回しにされた案件は、どうなるんですか」
「……その内やる」
蓮夜は、悪びれることなく、平然と答えた。机の脇に、明らかに「後回し」にされたとわかる、古びて埃をかぶった巻物の束が、別の山として存在しているのが見える。
山積みの巻物の一つを手に取ると、内容は古い字体で書かれていて、判読するのに少し時間がかかる。
それでも、ざっと目を通しただけで、内容の優先度がまるで整理されていないことがわかった。緊急性の高そうな苦情と、ただの定例報告が、無造作に同じ山に積まれている。
別の山に手を伸ばすとこちらは、どうやら人間界の取引先からの稟議書のようだった。
日付を見ると、すでに提出期限をとっくに過ぎているものが、何枚も混ざっている。
「これ、期限切れてます」
「期限が切れていても、誰も困っていないだろう」
「困ってますよ、たぶん。提出先の担当者が、今ものすごく困ってる顔をしてると思います」
蓮夜は、私の指摘に、わずかに眉を寄せた。
「人間の業務というのは、そんなに細かい期限まで気にするものなのか」
「気にしますよ、当たり前です」
深いため息が出そうになる。圧倒的な力を持つ大妖が、こんなにも杜撰な管理体制で会社を運営していたなんて、想像以上だった。
むしろ、これまで会社として崩壊していないことの方が、ある意味奇跡なのかもしれない。
そう思っていたところで、社長室の扉が、控えめにノックされた。
「失礼します。蓮夜様」
現れたのは、すっと背筋の伸びた、優秀そうな雰囲気の男性だった。
年齢は、二十代後半ほどに見える。すらりとした長身の体型に、ダークグレーのスーツが寸分の狂いもなく、馴染んでいる。
黒に近い、艶のある髪は几帳面に整えられ、色白の整った顔立ちは、どこか能面のような静かな美しさを纏っていた。
スーツの着こなしも、所作も、人間の秘書として申し分ないくらいに完璧だ。だけど、その目の奥には人間とは違う、もっと深い闇のような色がわずかに揺れている。
彼もまた、あやかしなのだろう。私には視える。
「影月、ちょうどいいところに来た」
蓮夜が、その男性――影月を呼ぶ。影月は、私の方に視線を移すと、すぐに何かを察したように、丁寧に頭を下げた。
「あなたが、蓮夜様の番でいらっしゃいますね。お話は伺っております」
番、という呼ばれ方がまだ全く飲み込めないが。
「……瀬戸雛子です。本日から、こちらでお世話になります」
「影月と申します。蓮夜様の秘書として、長くお仕えしております」
影月は、丁寧に頭を下げながらも、その視線で、ちらりと私を上から下まで観察するように見た。何かを見定められているような、少し落ち着かない視線だった。
「あの、何か?」
「いえ、なんでもありません。蓮夜様が一人の女性をここまで気に入るのは初めてのことですので、つい」
「気に入る、というのは違う」
蓮夜が、すぐに割って入る。その反応の早さに、影月は、いかにも面白がるような笑みを浮かべた。けれど、それ以上は突っ込まず、すっと話題を変える。
「それより、蓮夜様。本日の分の陳情書がまた溜まっております。先月は東のお社の境界争いが、結局こじれてしまったのですから早めにお願いします」
影月が、わざわざ追い打ちをかけるように、苦笑しながら補足する。
「あれは、相手側が悪い」
「蓮夜様が後回しにしているうちに、相手側の妖が業を煮やして、勝手に動いてしまったのですが」
「……うるさい」
蓮夜の眉間に、わずかに皺が寄った。どうやら、痛いところを突かれたらしい。
私は、その光景を見ながら、内心、ある種の確信を抱いていた。
この男は、圧倒的な力を持っている。でも、その力に見合うだけの「管理能力」は、まったく備わっていない。
むしろ、力があるからこそ面倒な調整や手続きを、力でねじ伏せて済ませてしまう癖がついているのだろう。
これは――もしかしたら。
事務職としての、私の出番が、ここにあるのかもしれない。
「ちょうどいい。お前の最初の業務だ」
蓮夜が、デスクの上の書類の山を、軽く手で示した。
「これをお前のやり方で、片付けてみせろ」
半分、試されているような言い方だった。
その瞬間、不思議と怖さよりも闘志のようなものが湧いてくるのを感じた。
書類整理。優先順位付け。これなら、私の得意分野だ。
「やってみます」
私は、山積みの書類に向かって、袖をまくった。




