10.「望むところです」
まず手をつけたのは、山積みになった書類を「人間界」と「常世」の二つに分けることだった。それだけでも、混沌としていたデスクの上が、少しは見通しが良くなる。
「影月さん、こちらの会議室、お借りできますか?床に書類を広げて、分類したいので」
「ええ、構いません。お手伝いしましょうか」
「お願いします。あと、付箋と、できればホワイトボードか、模造紙のようなものがあれば……」
「すぐにご用意します」
影月は、少し驚いたような顔をしながらも、すぐに動いてくれた。蓮夜は、隣の椅子に腰を下ろし、興味深そうに私の作業を見ている。
会議室に運び込んだ書類を、まずは「常世」関連のものから手に取る。古い字体に苦戦しながらも、一枚一枚に目を通し、内容をざっくりと三つの基準で振り分けていった。
「緊急性が高いもの。たとえば、人間界に直接被害が出そうな怪異の報告――これは赤の付箋にします」
言いながら、該当する巻物に、赤い付箋を貼っていく。
「次に、対応は必要だけど、緊急ではないもの。たとえば、縄張りの調整とかお祝いの儀式の出席依頼みたいなもの。これは黄色」
「ほう」
「最後に、現状報告だけで、特に対応が必要ないもの。これは青色にします。読んで把握するだけでいいので、優先度は一番低いです」
三十分ほどで、山積みだった巻物の半分ほどを、色別に分類し終えた。
残りの人間界の書類についても、同じように「即対応」「今週中」「保留可」の三段階に分けて、それぞれをファイルにまとめていく。
「これで、毎日この箱に入っているものから処理していけば、優先順位を見失わずに済むはずです」
完成したファイルの山を、蓮夜の前に並べる。色分けされた付箋と、整然と並んだ箱を見て、蓮夜はしばらく無言だった。
「……お前は、いつもこういうことを、人間界の会社でやっていたのか」
「特別なことはしてません。事務の基本です」
「基本、か」
蓮夜は、赤い付箋の貼られたファイルを一つ手に取り、内容に目を通す。それから小さく息を吐いた。
「これは、確かに今すぐ対応すべき内容だな。後回しにしていたら、人間界にも被害が出ていたかもしれない」
「でしょう?なんでも全部一気に『力で処理』しようとすると、こういう緊急のものが後回しになる危険があるんです。だから、まず仕分けが必要なんです」
「ふむ」
蓮夜が、珍しく感心したように頷くのを見て、隣にいた影月が、小さく笑った。
「蓮夜様が、こんなに素直に頷くところを、初めて見ました」
「うるさい」
蓮夜が、不機嫌そうに言い返す様子に、思わず私も笑いそうになる。けれど、すぐに気を引き締めた。今のは、ただの仕事の延長だ。気を許しすぎてはいけない。
「これからは、毎日こうやって仕分けをします。週ごとに、対応済みかどうかも記録していきますので、進捗が一目でわかるようになります」
「お前に任せる」
蓮夜は、あっさりとそう言って、私に色分けされたファイルの管理を一任した。
「それと」
と、続けて、彼は少し意味深な視線を私に向けてくる。
「これだけ仕事ができるなら、暇を持て余すこともなさそうだな」
「望むところです。暇な方が、むしろ落ち着かないので」
きっぱりと返すと、蓮夜は珍しく、声を出して小さく笑った。
「興味深い女だな、お前は」
その一言に、なぜか少しだけ、誇らしいような気持ちが湧いてくる自分に気づいて、私は内心、慌てて打ち消した。
これは、ただの「仕事」だ。それ以上の感情を、持つべきじゃない。
そう自分に言い聞かせながら、私は次のファイルへと手を伸ばした。
☆
そうして数日が経ったある日。仕分けのシステムが定着し始めた頃、最初の「来客」があった。
「失礼いたします……陳情書の件で、お伺いしたのですが」
応接室に現れたのは、人間の老婆の姿をした、小さな妖だった。
長年、ある神社の裏手に棲んでいるという、土地の縄張りに関する陳情を持ってきたらしい。
以前なら、こうした来客にも蓮夜が直接対応し、力でその場をまとめてしまうのが常だったという。
「こちら、先日お預かりした陳情書ですね。確認させていただきます」
私は、色分けされたファイルの中から、該当する黄色の付箋付きの巻物を取り出した。
蓮夜が言っていた通り、緊急性は低いが対応が必要な案件だ。内容に目を通し、要点を整理しながら、老婆の妖に話を聞いていく。
「お隣の縄張りとの境界線の話、ですよね。図面で確認すると、ここの川の流れが、数十年前と変わってしまっているようなので……」
巻物に描かれた古い地図と、最近の地図を見比べながら、私は要点を整理していった。専門的な力での解決ではなく、あくまで「事実の整理」と「合意点の確認」。事務職として、何百回も繰り返してきた作業の延長だ。
「では、この境界線の修正案を、隣の縄張りの方にもお伝えして、ご了承いただければ、解決ということでよろしいでしょうか」
「ま、まあ……そうですね。そんな風に、すっと話が進むなんて……」
老婆の妖は、戸惑った様子で、何度も頷いていた。
その様子を、応接室の隅から、蓮夜は黙って見つめていた。
以前なら、こうした陳情も、彼が直接出向き、力を見せつけることで強引にまとめていたのだろう。それは、確かに「解決」ではあるけれど、相手にとっては、有無を言わせぬ服従に近いものだったに違いない。
今、目の前で行われているのは、まったく違う種類の「解決」だった。
力ではなく、対話と整理によって、双方が納得できる結論に導かれていく。
「……今までは、こういう場合、どうしていたんですか?」
老婆の妖が帰った後、私は気になって蓮夜に聞いてみた。
「俺が直接出向いて、力を示し、従わせていた」
「それだと、相手は納得してなかったんじゃないですか」
「納得など、必要ない。力の差を理解させれば、それで十分だと思っていた」
「でも、今の対応の方が、揉め事が再発しにくいと思いますよ。納得してない相手は、また同じトラブルを起こす可能性が高いですから」
蓮夜は、しばらく黙って、私の言葉を吟味するように考え込んでいた。
「……人間の知恵というのは、思っていたよりも、捨てたものではないらしいな」
その呟きには、これまでの傲慢さの中に、わずかな驚きと、認める色が混じっていた。
「俺は、力こそが解決の手段だと思っていた。だが、お前を見ていると別の方法もある、ということがわかる」
「事務職を見下しすぎですよ」
「見下していたわけではない。単に、知らなかっただけだ」
蓮夜は、しばらく何かを考えるように、私の方を見つめていた。
これまでの、値踏みするような視線とは少し違う。もっと、純粋な興味の色がその瞳に浮かんでいる気がした。
「お前という存在を、見誤っていたかもしれない」
「……それ、褒め言葉として受け取っていいんですか」
「褒めている。お前は思っていたよりも、ずっと有用な存在らしい」
その言い方には、まだどこか傲慢さが残っている。なのに、なぜか頬が熱くなる。慌てて、手元のファイルに視線を逃がした。
影月が、控えめにこちらを見ながら、わずかに笑みを浮かべていた。
「蓮夜様が、人間をこんなに評価する姿、何百年ぶりに見るでしょうか」
「お前は黙っていろ」
蓮夜が、不機嫌そうに影月をたしなめる。でもその横顔には、隠しきれない微かな変化が見えた。
私は、それに気づかないふりをして、次の書類に手を伸ばす。
内心では、小さな動揺が広がっていた。ただの「契約」のはずの関係に、少しずつ、何か別の感情が混ざり始めている気がする。それが何なのか。
この変化が、決して悪いものではないということだけは、なんとなく、わかってしまっていた。




