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11.「蓮夜様の隙」

「瀬戸さん、こちらの資料、確認お願いできますか?」


 声をかけてきたのは、私が来るより少し前から入ったと言う事務員の女性だった。名前は、確か……鵺野さん、だったか。

 黒髪をきっちりとまとめ、シンプルなグレーのスーツを着こなしている。色白で整っているけど、よく見るとあまり特徴の無い顔立ち。

 物静かで、仕事も丁寧。これまで、特に気になることはなかった。ただ、よく見ると、彼女の前髪の生え際や、襟元のあたりが、いつも、ほんのわずかに、湿っているように見えることがあった。雨上がりでもないのに、まるで、霧の立つ場所から、出てきたばかりのような。

 けれど、今日は違った。

 資料を受け取った瞬間、指先に、ひやりとした湿気を感じた。まるで、雨上がりの地下道のような、肌に纏わりつく冷たさ。

 エアコンの効いたオフィスにいるはずなのに、彼女の手から伝わってくる空気だけが、明らかに異質だった。


「……ありがとうございます」


 平静を装って受け取りながら、視線だけを、ちらりと彼女の方に向ける。

 普通に見れば、ただの真面目な事務員。でも私の目には、彼女の輪郭が、ほんのわずかに、滲んで見える瞬間があった。

 まるで、霧の中に立っているかのような、不自然なブレ。

 間違いない。彼女は、人間じゃない。

 それでも、すぐに騒ぐわけにはいかなかった。ここ数日で学んだことの一つは、確証のない状態で行動を起こすのは、事務処理としても、悪手だということだ。まずは、観察する。

 その日一日、私は意識して、彼女の動きを目の端で追い続けた。彼女は、特に問題のある行動をするわけではない。むしろ、模範的なほどに丁寧な仕事ぶりだった。

 だけど彼女が近づくたびに、湿った冷気が肌を撫でる。そして、彼女はやけに蓮夜の社長室の前を通る事が多い。


「瀬戸さん、いつも蓮夜様のすぐ傍にいらっしゃいますよね」


 午後、給湯室で偶然二人になった時、彼女が、ふと話しかけてきた。柔らかい口調なのに、その言葉の奥に、何か嫌な棘のようなものを感じる。


「秘書ですから。傍にいるのが、仕事なので」

「羨ましいです。私のような派遣社員には、なかなか、あんな風に近くで仕事をする機会、ないですから」


 何気ない会話のはずなのに、彼女の目の奥に、ちらりと、ひどく冷たい光が揺れた。


「……瀬戸さんみたいな『普通の人』が、偉そうな顔をして、あの方の隣に座っているのって、なんだか不思議ですよね」

「……どういう意味ですか」

「いえ、ただの感想です」


 彼女は、にこやかに笑って、それだけ言うと、給湯室を出て行った。

 残された私は、背中に冷たい汗が伝うのを感じていた。今のは、ただの嫌みなんかじゃない。明らかに、私の「本質」を見透かした上での揺さぶりだった。

 彼女は、ただの下級妖じゃない。少なくとも、私が「視える」ことと、「蓮夜の番である」ことの両方に、気づいている。

 すぐに、蓮夜の社長室へ向かった。ノックする間も惜しく、扉を開ける。


「蓮夜さん、少しいいですか」

「どうした、そんなに急いで」

「事務員の方……鵺野さんっていう人、人間じゃないです」


 蓮夜の表情が、わずかに鋭くなった。


「確かか」

「霧みたいな、湿った気配がします。それに、私のことを、明らかに探っている言動がありました」


 蓮夜は、しばらく無言で考え込んだ後、ゆっくりと立ち上がった。


「お前の直感は、当てになる。これまでの仕事ぶりを見れば、それは十分わかっている」


 その言葉に、少しだけ、肩の力が抜ける。私の報告を、ただの思い込みだと一蹴されなかったことに、安堵していた。

 蓮夜は、社長室の扉を見据えながら、低く呟いた。


「今夜、奴の正体を暴く」


 その声には、これまでとは違う、はっきりとした「戦う者」の気配が滲んでいた。

 オフィスの中、平和な日常の顔をした空間に、すでに、不穏な気配が静かに広がり始めている。

 それを最初に察知できたのが、自分の「視える」という力だったことに、私は、少しだけの自負を感じていた。


 ☆


 その日の夜、オフィスに人気がなくなった頃、鵺野は正体を現した。


「……まさかこんなにすぐ来るとは、思いませんでしたよ」


 残業を装って居残っていた彼女の輪郭が、ぐにゃりと、歪んだ。

 先ほどまで、きっちりとまとめられていた黒髪が、するすると輪郭をほどき、湿った霧のように空気に溶けていく。

 グレーのスーツの形が、肩の辺りからぶすぶすと煙を立てるように崩れ落ち、その下から、影と霧が、絡まり合うように渦巻く、人ならざる輪郭が現れた。

 輪郭の中心には、まだ、人間だった頃の顔の名残――目と、口の形だけが、霧の濃淡として、ぼんやりと、浮かんでいる。

 その目には、白も黒も瞳もなく、ただ、底の見えない濡れた暗闇だけが、覗いていた。

 フロア全体の空気が、一気に湿った地下道のような、肌に纏わりつく冷気に塗り替えられていく。床のタイルに、結露のような水滴が、じわじわとにじみ始めた。


「お前のような『エサ』が、偉そうな顔をして大妖の隣に座っているのが、気に入らなかった」


 吐き出された声には、これまでの取り繕った柔らかさはどこにもない。

 声そのものが、まるで水を含んだ布越しに響いてくるような、ひどく籠った不快な音に変わっていた。それには剥き出しの嫉妬と、悪意だけが滲んでいる。


「お前さえいなければ、蓮夜様の隙を狙う機会も、もっとあったはずなのに」


 霧の輪郭が、足のあるべき場所から、にじむように滑り出した。床に濡れた足跡のようなものを残しながら。

 彼女が踏み出そうとした瞬間、私の前に、すでに蓮夜が立っていた。


「俺の番に近づくな」


 短い一言と共に、彼の手から放たれた力が、湿った霧の塊を瞬く間に押し戻していく。

 輪郭が引きちぎられるように、何本もの筋に分かれ、鵺野の悲鳴のような声がフロアの空気に滲んで、やがて霧そのものが薄れて消えていった。

 逃げ延びたのか、それとも完全に祓われたのか、その判断は私にはつかなかったけれど、少なくとも、その場の危機は去ったようだった。

 静寂が戻ったオフィスの中、蓮夜が、ゆっくりと私の方を振り返る。


「怪我は、ないか」

「……はい、大丈夫です」


 その時、フロアの入口の方から複数の足音が聞こえてきた。残業をしていた社員たちが、何かあったのかと様子を見にきたらしい。

 物音に驚いた顔で、こちらを覗き込んでいる。


「社長、何かありましたか?」


 声をかけてきたのは、人事部の社員だった。

 普通の人間――おそらく、何が起きていたのかは、まったく見えていないだろう。


「何でも無い」


 答えながら、蓮夜は、私との距離を、唐突に詰めた。


「な……」


 声を上げる間もなく、私の背中がすぐ後ろにあったパーティションの壁に押し付けられる。

 蓮夜の両手が、私の顔の脇――壁に、はっきりと突き立てられた。

 逃げ場のない、いわゆる「壁際に追い詰める」という体勢。

 フロアにいた社員たちが、ぎょっとした顔で、こちらに視線を集めているのがはっきりとわかる。


「な、なに……っ」

「お前は、俺の管理下にある」


 囁くような声だったけれど、近くにいた社員たちの耳にも、十分に届く距離だった。


「秘書としての業務であろうと、それ以外であろうと――他の誰かに、不必要に触れられることを、俺は許さない」

「ちょっ、こんな場所で……っ」


 恥ずかしさで顔が熱くなる。けれど、蓮夜はまったく気にする様子もなく、むしろ周囲の視線を意識しているかのように、堂々とした態度を崩さない。


「先ほどの妖が、お前に触れようとしていた。それだけで、俺の頭の中は、不愉快の極みだった」

「それは……心配してくれた、ってことですか」

「心配、というよりは」


 蓮夜は、わずかに目を細め、私の顔をじっと見下ろした。


「俺のものに、他の何者かが手を伸ばすという事実が、許せなかった。というだけだ」


 あくまで「所有物」という言い方を崩さない彼に、なぜか少しおかしさすら感じてしまう。

 怖いはずなのに、最近はこういう傲慢な物言いの裏にある、不器用な何かが見え始めている気がする。


「……みんな見てます。離れてください」

「見られて困ることなど、何もない」

「私が困るんです」


 ようやく訴えると、蓮夜は不満そうに鼻を鳴らしながらも、壁に突いていた手をゆっくりと引いた。

 残された社員たちは、何が起きたのか理解できないまま、それでも何かを察したように、そそくさと持ち場へ戻っていく。

 明日には、社内中に噂が、面白おかしく広まっているに違いない。


「……今の、社内で広まりますよ、絶対」

「構わない。むしろ、はっきりさせておく方が、都合がいい」

「都合がいい、って」

「お前に余計な虫が寄ってこないように、ということだ」


 その言い方に、思わず肩から力が抜ける。

 傲慢で、強引で、自分の都合しか考えていないように見えるくせに、その奥には、確かに「私を守る」という意志が、不器用な形で滲んでいた。

 それに気づいてしまった自分が、今夜は、少しだけ厄介に思えた。


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