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12.「元の生活」

 マンションに戻ると、まだ胸の奥がざわついていた。

 あの壁際での出来事も、鵺野に揺さぶられた言葉も、簡単に消化できるものじゃない。

 こういう時は、手を動かすに限る。


「キッチン、お借りしてもいいですか」

「好きにしろ。……何をする気だ」

「ご飯、作ります。コンビニのパンばかりじゃ、身体に悪いので」


 蓮夜は、少し意外そうな顔をしたけれど、特に止める様子もなく座卓のところで私の様子を眺めている。

 キッチンは、和の空間に不釣り合いなほど、最新式の設備が整っていた。

 最新型のIHコンロと、相変わらず律儀に動き回るロボット掃除機。冷蔵庫の中には、誰が買ってきたのか、人間界の食材が、それなりに揃っている。

 たぶん、影月の仕事だろう。ロボット掃除機も含めて。

 炊飯器に米をセットし、湯気を立てる鍋に味噌と出汁を溶かしていく。冷蔵庫にあった豆腐とわかめを刻んで入れ、卵焼きを焼き、ありあわせの野菜で簡単な煮物を作る。

 特別な料理じゃない。ごく普通の、家庭の夕食だ。


「……いい匂いがするな」


 いつの間にか、蓮夜がキッチンの入口に立っていた。何かを覗き込むように、鍋の中を見つめている。


「味噌汁ですよ。お吸い物みたいなものなんですけど、もっと、生活に密着した味です」

「人の作る飯の匂いは……」


 蓮夜は、何かを思い出すように、わずかに目を細めた。


「数百年ぶりだ」

「……そんなに、長く?」

「俺にとっては、栄養を取ること自体それほど重要ではない。霊力で十分に存在を維持できる。だから、人の作る飯を口にする機会など、滅多になかった」


 完成した料理を、座卓に並べる。炊き上がったご飯、味噌汁、卵焼き、煮物。

 豪華とは言えない、ごく普通の夕食だ。蓮夜は、それを見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……どうしたんですか」

「いや」


 蓮夜は、座卓に腰を下ろし、味噌汁の椀を手に取った。


「食べていいのか」

「どうぞ。冷めちゃいますし」


 蓮夜は、ゆっくりと椀に口をつける。一口飲んだ瞬間、彼の表情がわずかに、本当にわずかに緩んだ。


「……温かいな」

「味噌汁ですから」

「そういう意味じゃない」


 蓮夜は、椀を見つめながら、独り言のように呟いた。


「俺の力で出せる『温かさ』とは、違う種類の熱だ」


 その言葉に、何と返したらいいのかわからず、私は黙って自分の分の味噌汁を口にした。

 蓮夜は、卵焼きを箸でつまみ、口に運ぶ。一口、二口と、ゆっくり咀嚼する様子を私はなんとなく見つめていた。


「これも、お前が作ったのか」

「そうですよ。簡単なものですけど」

「……お前が、俺のために作った」


 その言い方に、なんだか変に強調された響きを感じる。けれど、蓮夜はそれ以上の言葉を続けることなく、また黙って食事を進めていく。

 ふと、その横顔を見て、私は気づいた。

 数百年を生きてきた、絶対的な力を持つ大妖が、目の前で、こんなにも静かに、ゆっくりと人間の作ったありふれた食事を味わっている。

 それは、彼の長い時間の中で、おそらく、ごく稀な瞬間なのだろう。


「美味しいですか?」

「悪くない」


 あくまで、素直に「美味しい」とは言わない。そういう不器用な部分も、最近は、少しだけ理解できるようになってきた気がする。


「……また、作ります」


 なんとなく、そう言ってしまった。蓮夜が、わずかに視線をこちらに向ける。


「そうか」


 短い返事だったけれど、その声には、これまで聞いたことのない、柔らかな響きが混じっていた。

 窓の外には、相変わらず東京の夜景が広がっている。提灯の灯りに照らされた座卓を挟んで、私たちは、しばらく静かに、ただ食事を続けていた。

 言葉は少なかったけれど、なぜか、その静寂が、思っていたよりも、心地よく感じられた。


 ☆


 食事を終えた後、片付けを済ませて座卓に戻ると、蓮夜は窓の外を眺めていた。夜景の灯りが、彼の横顔を、淡く照らしている。

 その静かな空気の中で、ふと、言葉が口からこぼれた。


「……いつか、元の生活に、戻りたいな」


 半分は、独り言だった。深く考えて言ったわけじゃない。ただ、満たされた今この瞬間に、少しだけ油断していたのかもしれない。


「定時で会社を出て、駅前で紅茶の葉を買って、家で推理小説の続きを読む。それだけの、何でもない毎日が、私には、ちょうどよかったんです」


 蓮夜は、しばらく黙ったまま、視線を窓の外に向けていた。何も言わない時間が、少しだけ長く感じられる。


「……それは、無理な話だ」


 ようやく口を開いた蓮夜の声は、いつものように、淡々としていた。


「契約は、一生のものだ。お前はもう、俺のいない『平穏』には戻れない」


 その言葉に、覚悟していたはずなのに、胸の奥が、ちりっと痛んだ。


「……わかってます。期待していたわけじゃないので」

「だが」


 蓮夜は、ふと、私の方に視線を戻した。


「お前が望む『平穏』を、無理だと言って終わらせるつもりはない」

「……どういう、意味ですか」

「お前が望んでいるのは、たぶん、平凡な毎日そのものではないだろう」


 蓮夜は、まるで、何かを見定めるような目で、私を見つめながら続けた。


「お前が本当に欲しいのは、誰かに脅かされず、自分の意志で、自分のペースで生きていける時間だ。違うか」


 その言葉に、思わず息を止めた。

 今まで、誰にも、そこまで深く考えてもらったことはなかった。

「平穏」という言葉の表面だけを見て、「それなら、人と関わらなければいい」と片付けられることが多かった。

 でも蓮夜の言葉は、その奥にあるもっと本質的な部分を的確に突いていた。


「それなら、契約を解くことはできなくても、その『平穏』を、俺が作り変えてやる」

「……作り変える、って」

「お前を脅かすものは、すべて俺が排除する。お前が望むペースで、お前が望む生き方を、この場所で続けられるように、俺が環境そのものを整える」


 あまりにも傲慢な言い方だった。それなのに――不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。

 むしろ、その傲慢さの裏に彼なりの、ひたむきな誠実さのようなものを、感じてしまっている自分がいた。


「……それは、なんだか、ものすごく一方的な『愛情表現』ですね」

「愛情、とは言っていない」


 蓮夜は、すぐに不機嫌そうに言葉を返した。その耳の先が、提灯の灯りのせいなのか、少しだけ赤く見えた気がした。


「お前は俺の番だ。お前の生活の質が落ちることは、俺にとっても不都合だ。それだけの話だ」

「はいはい、わかりました」


 わざと軽く返事をすると、蓮夜は、何かを言い返そうとして、結局、黙って視線を窓の外に戻した。

 言葉では、決して認めない。だけど、その不器用な態度の一つ一つに、彼の本音が確かに滲んでいる気がした。

 窓の外に広がる夜景を、二人で並んで眺める。


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