8.「俺の傍にいれば」
ロボット掃除機を見送りながら、私たちは座卓に着いた。
といっても、テーブルの上に並ぶのは、和の空間にまったく似合わない、コンビニで買ってきたらしいパンと、湯気の立つ緑茶。蓮夜の自宅の妙な「和洋折衷」が、食卓にもしっかり反映されているらしい。
「それで」
蓮夜が、緑茶を一口含んでから、唐突に切り出した。
「お前を、ただこの部屋に閉じ込めておくつもりはない」
「……それは、ありがたいですけど」
「俺の傍にいれば安全だが、それだけでは、お前も暇を持て余すだろう」
蓮夜は、まるで決定事項を伝えるかのような口調で続けた。
「俺が経営している『神薙ホールディングス』で、お前を雇う」
「……は?」
パンを持ったまま、私は思わず固まった。
「俺の、専属特別秘書として、お前を指名する」
「ちょっと待ってください。私、普通の事務職員ですよ。秘書なんて、できるかどうかも……」
「お前の今の会社は、もうすでに辞めたことになっている」
あっさりとした一言に、頭が真っ白になる。
「え!?な、なんで……」
「昨日のうちに、手続きは済ませている。お前が元の会社に戻れば、また下級の妖に狙われる可能性が高い。俺の目が届く場所に置いておくのが、最も合理的な判断だ」
「合理的って……私の人生を、勝手に……」
「文句があるなら、聞いてやる、と言ったはずだが」
蓮夜は、まったく悪びれる様子もなく、平然とパンを一口かじっている。その姿が、あまりにも自然すぎて、怒りを向ける先すら見失ってしまいそうになる。
深呼吸をして、なんとか気持ちを立て直す。怒っても、今の状況は変わらない。
それなら、せめて自分の置かれた状況を、正確に把握しておくべきだ。これは、ずっと事務職として培ってきた、私なりの処理の仕方だった。
「……拒否権は、ないんですか」
「ない」
「給与の条件は?」
「お前の生活に困らない額を支給する。住居も、衣食も、俺がすべて保証する」
「業務内容は、具体的に?」
蓮夜は、私の質問の切り替わりに、わずかに目を見開いた。それから、何かに気づいたように、口元を緩める。
「秘書業務全般だ。俺のスケジュール管理、書類の整理、それから――あやかし絡みの陳情や報告書の処理もある」
「あやかし絡みの……」
「お前なら、視えるからこそ、適任だろう」
その言葉に、思わず黙り込んだ。確かに、視えるという特性は、これまで私の人生を縛ってきた呪いのようなものだった。それを、初めて「役に立つもの」として扱われた気がした。
「……わかりました」
「素直だな」
「素直になっているわけじゃありません。条件を理解した上で、現状、選択肢がないことを把握しただけです」
きっぱりと言い返すと、蓮夜は、なぜか面白そうに目を細めた。
「そういう、割り切り方をするのか」
「そうしないと、やっていけないので」
蓮夜は、しばらく私の顔を見つめていた。
その視線には、これまでのような、ただの「モノ」を見るような冷たさとは、少し違う何かが混じっている気がした。それが何なのか、確かめる余裕は、まだ今の私にはないけど。
「では、決まりだ。今日から、お前は神薙ホールディングスの俺付きの特別秘書だ」
「……はい」
返事をしながら、私は内心、小さく息を吐いた。
閉じ込められるだけの「籠の鳥」にされるよりは、まだいい。少なくとも、外の世界との接点を、完全に断たれるわけではないのだから。それが、せめてもの救いだった。
☆
神薙ホールディングスの本社ビルは、都心の一等地に、周囲のビル群を見下ろすようにそびえ立っていた。
地上四十二階。ガラスのファサードが、朝の光をまるで一枚の鏡のように反射し、見上げるだけで、目が眩むほどだった。
都市開発から、不動産、金融、近年は再生可能エネルギー事業にまで進出し、国内有数のコングロマリットへと、わずか十数年で成長を遂げた会社――それが、神薙ホールディングスだった。
エントランスをくぐると吹き抜けの広いロビーに、磨き抜かれた大理石の床が、足音を軽やかにどこまでも反響させた。
受付に並ぶ社員たちの胸元には、誰もが同じ洗練されたデザインの社章をつけている。
すれ違う社員たちは誰もが忙しそうに、引き締まった顔つきで、廊下を行き交っていた。洗練された空間の空気に、思わず気圧されそうになる。
エレベーターホールに向かう途中、すれ違った社員の何人かが、私たちの方――正確には、蓮夜の方を見て、すっと姿勢を正し、深く頭を下げた。蓮夜は、それにほとんど反応を見せず、ただ軽く頷くだけで通り過ぎていく。
誰もが、彼の存在に、絶対的な敬意を払っているのが、はっきりと、伝わってきた。
「……蓮夜さん、ものすごい会社の、ものすごい人だったんですね」
「今さら、気づいたのか」
「なんとなく予想していましたけど。実際に来てみると、規模が、ちょっと、想像以上で」
エレベーターに乗り込みながら、ふと表示パネルに目をやると、四十二階建てのビルのほとんどの階数に、グループ会社の名前がずらりと並んでいた。
場違いすぎる別世界に居心地の悪さを感じながら、エレベーターで最上階――蓮夜の社長室がある階に着いた瞬間、空気が一変した。
「……ここも、結界の中、ですか」
「ここは半分だけだ。表向きの執務は人間界の流儀で行うが、奥の応接室は、常世との取次の場になっている」
案内されながら、社長室の扉を開けた瞬間、私は思わず目を見開いた。
広々とした執務室の中央に、立派な重厚なデスクがある。
けれど、その上に置かれているのは、稟議書や決算資料だけではない。和紙に墨で書かれた古めかしい巻物、封蝋で閉じられた木箱、それから、何かの呪符らしき紙の束――それらが、人間界の書類と、ぐちゃぐちゃに混ざり合いながら、山のように積み上げられていた。
「これは……」
「常世からの陳情書と、怪異の報告書だ」
蓮夜は面倒そうに、それらの山の一つを手に取った。
「都内のあやかしどもの間で起きた揉め事の調停依頼、縄張り争いの仲裁、人間界に出すぎた怪異の処理依頼――それらが、全部ここに集まる」
「それを、全部一人で?」
「人間界の業務処理に加えて、こちらの対応も並行してやらねばならない。面倒だが、俺以外にできる仕事ではないからな」
その答えに、私は思わず、机の上の山をもう一度見つめた。あまりにも、量が多すぎる。これを一人で処理しているとしたら――それは、もはや管理体制とは呼べない。




