7.「慣れてください」
昨夜は気が動転していて気づかなかったけれど、廊下を進むと和の空間から、すっと現代的でモダンな内装に切り替わる場所があった。
畳から、洗練されたフローリングへ。提灯の灯りから、無機質なダウンライトへ。まるで結界の境界線が、そこにくっきりと存在しているみたいだった。
ドアを開けた瞬間、私は思わず足を止めた。
先ほどの、あの開けっ広げな格好からいつの間に着替えたのか、蓮夜はもう、きちんと着物を纏っていた。
彼が纏っているのは、深い藍色の着物だった。
質の良い生地が、彼の長身に添うように流れ、襟元からは、相変わらず人間離れした端正な首筋が覗いている。思わず先刻の生々しい肌の光景がフラッシュバックしそうになった。
スーツの時の「現世の支配者」のような雰囲気とは違い、こちらはどこか、もっと古い時代から抜け出てきたような、本来の彼の姿に近いのだろう。
ついさっき、あんなに無防備な姿を見せられていたはずなのに、こうしてきっちりと着こなされた姿を見ると、また別の意味で、目が離せなくなる。私の心臓は、まだ忙しなく騒いでいた。
その姿だけなら、ただ見惚れていたかもしれない。でも、彼の視線の先にあるものを見て、私は思わず吹き出しそうになった。
蓮夜は、キッチンの床の上を静かに、しかし確実に動き回っている円盤状の機械――ロボット掃除機を、警戒したような目で見下ろしていたのだ。
「……何をしているんですか?」
「……これは、何だ」
蓮夜は、私の声に反応する余裕もないまま、ロボット掃除機の動きを目で追っていた。
機械は何も気にせず、ウィーンと小さな音を立てながら、キッチンの隅から彼の足元をするりとすり抜けていく。
その瞬間、蓮夜の手の先に、わずかに青白い光が灯った。
「ちょっ、待って、待ってください!何する気ですか」
慌てて駆け寄り、彼の手を両手で押さえる。光は、私が止めた瞬間にふっと消えた。あと少し遅かったら、健気な掃除機が、何かしらの方法で滅されていたかもしれない。危機一髪だ。
「これは、敵ではないのか」
至極真面目な顔で、彼はそう言った。その表情に、私は思わず脱力した。
昨夜、影たちを一瞥で消し去り、私に有無を言わせず刻印を刻み、絶対的な支配者として振る舞っていた、あの蓮夜が――今、目の前で、掃除機と睨み合っている。
その光景のギャップに、私は思わず、口元が緩むのを抑えられなかった。
「敵じゃないです。お掃除ロボットです。床のゴミを勝手に吸い取って掃除してくれるんですよ」
「……笑うことか?」
「すみません。でも、なんだか……」
蓮夜は、納得できないという顔で、床を這うように移動していくロボット掃除機を、なおも疑わしそうに目で追っている。自分の家に有る物なのにわからないのだろうか。
数百年を生きてきたはずの大妖が、家電一つにこれほど動揺している姿は、なんだか妙に間が抜けていて、少し――いや、結構、可愛い。
そう思ってしまった自分に、内心ぎょっとする。昨日まで、あれほど恐ろしく傲慢だったはずの相手なのに。
「人間の世界には、こういう道具がたくさんあるんです。慣れてください」
「ふん」
蓮夜は、不満げに鼻を鳴らしながらも、ようやく手の光を完全に収めた。それから、私の方に視線を移す。
「お前は、随分と、これらの『道具』に詳しいようだな」
「普通に生活していれば、当たり前にわかることです」
「ほう。普通、か」
その言い方に、昨日の「もう普通の人間には戻れない」という宣告が、嫌でも思い出される。蓮夜の方も、それを承知の上で言ったのだろう。口元に、微かな笑みが浮かんでいた。
窓の外では、相変わらず現世の朝が、変わらない顔で続いている。
私の朝は、もう昨日までとは、まったく違うものになってしまっていた。
それでも、これから始まる「同居生活」が想像していたよりも、もう少しだけ奇妙で賑やかなものになりそうな、そんな予感がした。




