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6.「これから着る」

 目を覚ました瞬間、見慣れない天井が視界に映って、私は数秒、自分がどこにいるのかわからなかった。

 高い天井に、ゆらゆらと灯る提灯。畳の匂い。そして、肌に触れる寝具は、ホテルのスイートルームかと思うほど上質な絹の感触だった。

 ……ああ、そうだ。私は、もう自分の部屋にいない。

 ゆっくりと起き上がると、昨日の出来事が一気に押し寄せてくる。

 廃墟カフェ、影たちの群れ、そして、すべてを一瞥で消し去った男――神薙蓮夜。

 首筋に手を当てると、ちりっとした熱の名残が、まだそこに刻まれているのを感じる。

 悪い夢じゃなかった。

 全部、現実だった。

 そして――背後から抱きしめられた、あの瞬間。


「……っ」


 思い出すだけで、なぜか頬が熱くなる。慌てて両手で顔を覆って、その熱を振り払うように頭を振った。今は、そんなことを気にしている状況じゃない。


「……はあ」


 ため息をつきながら、布団から起き上がる。

 窓の外には、もう朝の光に照らされた東京の街並みが広がっていた。高層ビルの隙間から差し込む日差しは、どこまでも「現世」らしい、ありふれた朝の光景だ。それなのに、室内は依然として、提灯と畳の異界そのもの。

 和の空間は、夜よりも幾分、現実的な落ち着きを纏っているけれど、やっぱり、ここは「普通」の部屋じゃない。香炉の薄い煙の匂いが、まだかすかに漂っている。窓の内と外で、世界がまるごと食い違っている感覚に、まだ慣れない。

 とりあえず、着替えたい。だけど、着替えなんて持ってきていない。

 そう思いながら部屋の隅を見ると、見覚えのない紙袋がいくつか置かれていた。中を覗くと、新品の私服や、下着、洗面用具まで、一式そろっている。サイズも、なぜか私にぴたりと合っていた。


「何で……」


 考えても答えは出ない。今後、こういうことには、慣れなければいけないのかもしれない。

 簡単に身支度を整えてから、襖を開けて、部屋の外に出る。

 喉が渇いた。こんな不可思議な家だけどキッチンくらいどこかにあるだろう。とりあえず、お水でも飲んで、頭をはっきりさせよう――そんな、何でもないことを考えながら、廊下の角を曲がった、その瞬間。

 目の前の引き戸が、すっと、開いた。


「……あ」


 声にならない声が、喉の奥で引っかかった。出てきたのは、お風呂上がりらしい、蓮夜だった。

 肩には、まだ薄っすらと湯気が立っている。長い黒髪は、しっとりと濡れたまま無造作に首筋に絡みついていた。一筋の水滴が、こめかみから頬を伝い、首の付け根――鎖骨の窪みに、すっと、流れ落ちていく。

 羽織られた浴衣は、腰のあたりで、緩く帯が結ばれているだけで、襟元が大きく開いている。引き寄せられた鎖骨の線と、逞しく無駄のない、しなやかな筋肉の線が、湯上がりのわずかに上気した肌の上に、はっきりと浮き出ている。


「……起きたか」


 気怠そうな声で、蓮夜が片手で濡れた髪を無造作にかき上げた。その動作だけで、緩んだ浴衣の襟が、さらに肩の方へずるりと、滑り落ちる。


「お、お、おはようございます……っ!」


 声が、完全に、裏返った。視線を、どこに置けばいいのかわからない。慌てて目を逸らそうとしたけれど、逸らした先の壁に、思いきり肩をぶつけてしまった。


「いっ……た」

「どうした。そんなに、慌てて」

「な、なんで、そんな、開けっ広げな格好で出てくるんですか……っ」

「風呂の温度が、ちょうど良くてな」

「質問の答えになってません!」

「お前が、見て騒いでいるだけだろう」


 蓮夜は、不思議そうに首を傾げる。その動作でまた髪の先から水滴が一粒、ぽたりと肩を伝って鎖骨の窪みに落ちた。

 もう、限界だった。


「ちゃ、ちゃんと、服、着てください……っ」


 蓮夜は、自分の格好を、今、初めて気にしたように見下ろした。


「これから着る」

「今すぐ着てください!」


 半分、叫ぶように訴える。蓮夜は、しばらく不思議そうな顔をしていたけれど、やがて何かに気づいたように、ふっと口角を上げた。


「……お前、もしかして、照れているのか」

「て、照れてません!」

「赤くなっているが」

「これは、寝起きで、血行が良くなってるだけです!」


 苦しすぎる言い訳に、自分でも呆れる。蓮夜は、それを見て明らかに面白がっている顔をしていた。

 これまでの、傲慢で人間離れした「大妖」としての顔とは別に、こういう人をからかうような表情もするのか。


「そんなに動揺するなら、これからも毎朝こうして出てくるか」

「やめてください、絶対に!心臓に悪いです!」


 涙目になりながら、両手で自分の視界を覆う。指の隙間から、ちらりと見える彼の背中――水滴を纏った肩から、緩やかに続く線がまた目に焼きついて、私は結局何の役にも立たない防御を、続けるしかなかった。

 朝からこんなことで、こんなに疲れるなんて――これから毎日この調子で心臓が保つのか、本当に不安になってくる。

 そんなことを考えながら、私はようやくキッチンへの道を、再び歩き出した。

 

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