5.「俺以外使えない」
車の中では、誰も何も話さなかった。
運転席には、黒いスーツを着た若い男性が座っている。バックミラー越しに一度だけ視線が合ったけれど、彼は何も言わず、ただ静かにハンドルを握っていた。たぶん、彼も「普通の人間」ではないのだろう。今となっては、誰を見ても、そう思わずにはいられなかった。
窓の外を流れる景色は、見慣れた夜の街並みだった。
コンビニの灯り、信号待ちの車の列、駅前の人混み。さっきまで体験していたことが、まるで悪い夢のように思えるほど、ありふれたいつもの風景。
しかし、隣に座る神薙蓮夜の存在だけが、それが現実だったことを、否応なく証明していた。
車は、都心の一角にそびえる、超高層タワーマンションの地下駐車場へと入っていく。
エントランスを通る間、すれ違ったコンシェルジュらしき人が、蓮夜に深く頭を下げた。その様子から、彼がこの建物において、ただの「住人」ではないことが察せられる。
エレベーターに乗り込むと、表示されたボタンは、最上階の一つだけ。他の階数を示すボタンが、一切存在しない。
「……ここ、最上階しか行けないんですか」
「このエレベーターは俺以外使えない。だからこれでいい」
あっさりとした返答に、それ以上聞く気力も失せる。
静かに上昇していくエレベーターの中、ガラス張りの壁から、見渡す限りの東京の夜景が広がっていく。
ビルの灯りが、まるで星をひっくり返したみたいに、地上を埋め尽くしている。本当なら、感動するくらいの絶景のはずなのに、今の私には、ただ「これからどうなるんだろう」という不安、そして恐怖しか湧いてこなかった。
エレベーターが止まり、扉が開く。
蓮夜に促されるまま廊下を進み、彼が手をかざした瞬間、目の前の重厚な扉が、音もなく開いた。
一歩、足を踏み入れた瞬間――。
私は、思わず息を呑んだ。
窓の外には、確かに、さっきと同じ東京の夜景が広がっている。ビル群の灯りも、遠くの首都高の流れも、何も変わらない、現世の景色だ。
けれど、室内は、まったく違う世界だった。
高い天井からは、無数の提灯が、ゆらゆらと揺れながら、橙色の光を灯している。床は、磨き抜かれた黒檀のような板敷きで、その奥には、金箔の屏風や、古めかしい甲冑、そして香炉から立ち上る薄い紫の煙が、空間全体に幻想的な雰囲気を漂わせていた。
近代的な高層マンションの内装とは、明らかに違う。
まるで、時代の異なる二つの空間が、一つの部屋の中で無理やり重ね合わせられているような――そんな、奇妙な調和。
「これは……」
「常世の結界だ」
蓮夜は、コートを脱ぎながら、当然のように説明する。
「現世の建物の中に、俺の結界を張っている。窓の外は、確かに現世の景色を映しているが、この部屋の中だけは、俺の領域――俺の力が及ぶ場所だ」
「だから、和風の……」
「俺が、長く生きてきた時代の名残だ。文句があるか」
文句なんて、言える立場じゃない。それよりも、提灯の灯りに照らされたこの空間の異様な美しさに、私はただ、立ち尽くすしかなかった。
ろうそくの灯火が、壁に飾られた古い掛け軸の影を揺らす。畳敷きの一角には、低い座卓と、座布団が置かれている。窓の外の現代的な夜景と、室内の幻想的な和の空間――その二つが同時に視界に入る光景は、現実でありながら、どこか夢の中の出来事のようだった。
「お前は、今日からここで暮らす」
蓮夜の声が、静かな部屋の中に、はっきりと響いた。
「……ここで?私の家は……」
「お前の家は、ここだ」
反論の余地を与えない一言。
本当にもう後戻りできない場所まで連れて来られてしまったのだと、実感が湧いてくる。
「ここでは安全だ」
蓮夜は、座卓の脇に佇んだまま、静かにそう言った。
「俺の結界が及ぶ範囲には、下級の妖どもは入り込めない。お前を狙う輩がいたとしても、この部屋にいる限り、手出しはできない」
「……それは、ありがたいですけど」
「ただし」
蓮夜の声が、わずかに低くなる。
「俺に逆らうことは許さない。お前の安全を保証する代わりに、お前は俺の指示に従う。これは、契約だ」
一方的すぎる条件だった。
悔しいけれど今の私には、それを跳ね返すだけの力も、選択肢も残っていない。ただ小さく頷くことしか、できなかった。
「……今夜は、どうすればいいんですか」
「寝室を用意してある。案内する」
蓮夜に促されて進んだ先、襖を開けると、提灯の灯りに照らされた、広い和室があった。中央には、布団――いや、布団というより、まるで高級旅館にあるような、豪華な寝具が一式、すでに整えられている。
「ここで、休め」
「……ありがとう、ございます」
お礼を言うのも、なんだか変な気がした。でも、他にどう返せばいいのかわからない。混乱した頭のまま、私はぼんやりと部屋の中を見渡す。
窓の外には、変わらず東京の夜景が広がっている。普段なら、もうとっくに自分の部屋で、紅茶を片手に推理小説の続きを読んでいる時間だ。
それが、今は、見知らぬ男の作った異界の寝室に立っている。
現実感が、まだうまく追いついてこない。
「あの……蓮夜さん、は」
「俺は隣の部屋にいる」
答えながら、蓮夜は部屋を出ようとしたところで、ふと足を止め振り返る。
「逃げようとは、思わないことだ」
「……逃げません。逃げたら、危ないって、自分でもわかってますから」
「賢明だな」
蓮夜は、その言葉に小さく口角を上げた。それから、再び歩き出そうとして――けれど、その動きを、唐突に止めた。
次の瞬間、背後から、私の身体が、すっぽりと包み込まれていた。
「な……っ」
驚いて声を上げる間もなく、蓮夜の腕が、私の身体を背後から抱き込むように回される。広い胸の感触と、思いのほか体温の高い体が、すぐ後ろにある。
「な、なに……」
「確認しているだけだ」
耳元で、低い声が囁いた。
「お前の魂が、本当に俺の刻印を受け入れたか、どうかを」
その声に含まれる響きは、これまでの傲慢さとは少し違う、もっと根源的な――まるで、長く飢えていたものが、ようやく見つけた対象を確かめているような、そんな響きだった。
「……これで、お前は完全に、俺のものだ」
背中越しに伝わる、彼の体温と、低い声。
怖いはずなのに、不思議と、嫌悪感だけではない何かが、胸の奥に小さく灯った気がした。
その正体を考える余裕は、まだ私にはなかった。
ただ、確かなことは。今日という日を境に、私の「平穏な毎日」は、完全に終わりを告げたのだということ。
そして、これから始まるのは――終わりの見えない、長い長い夜の始まりなのだということ。
提灯の灯りが、静かに揺れる。
その光を見つめる私の心は、もう、昨日までとは、まったく違う場所に立っていた。




