4.「もうそれは無理だ」
「待って……ちょっと、待ってください」
声を上げても、男の手が緩む様子はなかった。むしろ、顎を掴んでいた手が、するりと私の首筋に移動する。指先が、皮膚の薄いその場所をなぞるように触れた瞬間、ぞくりとした感覚が背筋を走った。
「待たない」
短く、それだけ言うと、男は私の首筋に、もう一方の手をかざした。
その手のひらから、じわりと熱が伝わってくる。最初は、まるで小さな火種をかざされているような、ちりちりとした感覚。
それはすぐに、皮膚の奥へ奥へと染み込むような、はっきりとした「熱」へと変わっていった。
「いっ……熱い……っ!」
「動くな」
短い命令だった。逆らう余地のない響き。私の身体は、まるでその声に縫い付けられたように、ぴたりと動きを止めてしまう。
熱の感触が、まるで何かの模様を描くように、首筋の上を這っていく。痛みというより、それは「刻まれている」という確かな実感だった。皮膚の下、もっと深い場所――魂と呼ばれる部分に、何かが、上書きされていく。
「な……何を、してるんですか……っ」
「契約だ」
男は淡々と、まるで業務連絡をするような口調で答えた。
「お前の霊力は、今日から俺のものだ。この刻印がある限り、お前は俺の力の範囲――俺の傍にいる限りは、他の妖から狙われることはない」
「そんな……、頼んでいません……勝手なことをしないでっ」
「そうだな」
男の声に、わずかに笑いの色が混じった。けれど、それは少しも安心できる種類の笑いではなかった。
「だから、教えてやろう。お前がこの刻印を持って俺から離れれば――その瞬間から、お前は、この世のすべてのあやかしにとって、極上の餌になる」
心臓が、ひゅっと縮んだ。
「逃げられるとでも思ったか?」
男は、刻印を刻み終えた指先を、私の首筋からゆっくりと離す。残された熱の余韻が、まるで焼き付けられた証のように、じくじくと脈打っていた。
「お前はもう、俺の結界の中にいる」
その言葉が、まるで鎖のように、私の身体に絡みついてくる。
逃げ場はない。離れれば、命に関わる。傍にいれば、この男に縛られる。どちらに進んでも、私の知っている「平穏な日常」は、もう、戻ってこない。
「な……んで、こんなこと……」
涙が出そうになった。けれど、それを見せたくないという、つまらない意地だけが、かろうじて私の中に残っていた。
男は、そんな私を、ただ静かに見下ろしている。その瞳の奥には、わずかな苛立ちと――それから、もっと別の、名前のつけられない何かが、ちらりと揺れていた気がした。
「文句があるなら、後で聞いてやる」
男は、私の手をそっと掴むと、当然のように歩き出した。
「今は、黙って俺についてこい」
逆らう力など、もう残っていなかった。
ただ、首筋に残る熱の痕だけが、これから始まる、終わりの見えない日々の始まりを、静かに告げていた。
☆
店の外に出ると、すでに辺りは夕暮れに差し掛かっていた。さっきまで異界のように歪んでいた景色は、いつの間にか元の、見慣れた住宅街の風景に戻っている。
かと言って、それで安心できるわけがない。
男に手を引かれるまま、私は黒い車――いつの間にか路肩に停められていた、ありえないほど高級そうな車の前まで連れて来られていた。
「待って、ください」
立ち止まり、思い切って、引かれていた手を振り払う。
振り払えたこと自体に、自分でも驚いた。それでも、それくらいの抵抗を見せないと自分の中の何かが完全に崩れてしまいそうだった。
「私は、普通の人間です」
男が、わずかに片眉を上げて、私を見る。
「事務職で働いていて、毎日定時で帰って、紅茶を飲んで、本を読んで――それだけの、普通の生活をしているんです。それを、いきなり知らない人に……契約とか、刻印とか、そんなものを押し付けられる理由が、どこにあるんですか」
声が震えていたけれど、最後まで言い切った。これだけは、絶対に伝えなければならないと思った。
男は、しばらく黙って私を見つめていた。それから、ふっと小さく、笑った。今度は、嘲笑のような響きの混じった笑いだった。
「普通、か」
「そうです」
「諦めろ、もうそれは無理だ」
あっさりとした口調で、男は私の主張を切り捨てた。
「お前は今、俺の刻印を持つ唯一の人間だ。先ほどの一件で、お前の存在はすでに、あやかし界に知れ渡っている。今のお前は、俺の『番』であり、同時に、俺の『守り下』にある存在だ。普通の人間に戻る、という選択肢自体が、もう存在しない」
「つ、番!?そんな……一方的すぎます」
「一方的で構わない」
男は、何の迷いもなく言い切った。
「俺がお前を助けなければ、お前はあのカフェでどうなっていたか。もう忘れたのか」
言葉に詰まる。確かに、その通りだ。あの時、彼が現れなければ、私は今、ここに立っていなかったかもしれない。けれど――。
「だからって、私の人生を、あなたの都合で決めていいわけじゃ……」
「いいわけがない、と思うなら」
男は、私の言葉を遮るように、一歩、距離を詰めた。
「俺の手を払いのけて、一人で生きてみるといい。ただし、その瞬間から、お前を狙う妖の数は、今までの比ではなくなるがな」
逃げ道を、一つ一つ、丁寧に塞がれていく感覚だった。
「選択肢などない」
男は、淡々と――けれど、確かな圧を伴ってそう告げた。
「お前は、今日から俺のものだ。逆らうことも、拒むことも、許さない」
あまりにも傲慢な物言いに、怒りすら湧いてくる。それなのに、その怒りの奥で、もっと冷静な部分の私が、すでに理解していた。
彼の言っていることは、間違っていない。
悔しいけれど、それが、今の私の置かれた現実だった。
「……名前くらい、教えてください」
精一杯の抵抗のつもりで、私はそれだけを口にした。せめて、自分を縛る相手の名前くらいは、知る権利があるはずだ。
男は、一瞬、意外そうに目を見開いた。それから、ゆっくりと口角を上げる。
「『大妖』神薙蓮夜だ」
その名を口にした瞬間、彼の纏う空気が、わずかに和らいだ気がした。けれど、それも一瞬のことで、すぐにまた、あの絶対的な支配者の気配が戻ってくる。
「さあ、行くぞ」
蓮夜は、再び私の手を取った。今度は、振り払う力すら、私には残っていなかった。




