3.「運がいい」
悲鳴が、喉から出る前に、止まった。
止めたのは、私自身じゃない。
一瞬――本当に一瞬、世界そのものが静止したような感覚があった。
風も、囁き声も、肩に触れていたあの冷たい指の感触も、全部がぴたりと凍りついて、音という音が消える。
次に聞こえたのは、靴音だった。
硬い床を叩く、規則正しい、迷いのない足音。
顔を上げると、いつの間にか開いていた扉の向こうから、一人の男が店内へと足を踏み入れてくるところだった。
黒いスーツ。見上げる長身。歩くたびに揺れる、上質な布の流れるような艶。
逆光になっているせいで、最初はその表情がよく見えなかった。けれど、近づいてくるにつれて、輪郭がはっきりとしてくる。
涼やかな目元。意志の強そうにすっと通った鼻筋。唇は、薄く、どこか酷薄な印象を纏っている。
年齢を一目で判断するのが難しい、整いすぎた美貌。人間離れしている、という言葉がしっくりくる――いや、違う。「人間離れ」なんて生易しい表現じゃない異質さ。
彼が一歩、また一歩と歩くたびに、店内を埋め尽くしていたあの「飢え」に満ちた影たちが、まるで波が引くように、その動きを止めていく。
「……っ」
影たちの輪の中心、私の目の前まで来たところで、男は足を止めた。そして、ゆっくりと視線を巡らせ、店内に蠢く影たちを、ただ「見た」。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
彼の瞳の色が、一瞬、深い金色に変わる。それを目にした次の瞬間、私を取り囲んでいたはずの影たちが、まるで強い光に当てられた霧のように、悲鳴のような声を上げる間もなく、次々と霧散していった。
爪を立てるような音も、抵抗の気配も、何もない。ただ、存在そのものが「許されなかった」というように、消えていく。
数十はいたはずの気配が、十数秒のうちに、店内から完全に姿を消した。
静寂が戻る。だけど、それは安心できる静寂じゃない。むしろ、先ほどまでの「飢えた気配」よりも、今、目の前に立つこの男の方が、何倍も――何百倍も、底知れない「圧」を纏っている。
力の差、というものを、こんなにもわかりやすく見せられたのは初めてだった。
彼は、私の方には目もくれず、まるで虫を払うようなついでの動作で、私を脅かしていたものたちを消し去った。それだけのことのはずなのに、私の足は、いまだに震えが止まらない。
ようやく、男の視線が、私の方に向く。
その瞳が、私を映した瞬間――私は、なぜか息をするのを忘れた。
「……運がいい。それとも、悪い、か」
低く、よく通る声だった。感情の起伏が、ほとんど感じられない。それなのに、その一言だけで、私という存在の「価値」を、すでに見定められているような気がした。
男は、ゆっくりと、私との距離を詰めてくる。
逃げなければ、と思う。けれど、足が動かない。先ほどまでの影達に対する恐怖とは、また別の種類の緊張感が、私の全身を縛り付けていた。
「あの、私――」
なんとか声を出そうとした。「ありがとうございます」でも、「すみません」でも、何か当たり障りのない言葉を口にして、この場をやり過ごそうとした。
いつものように。
いつものように、「私は何も見えていません」というふりをして、見知らぬ他人として通り過ぎようとした。
けれど、それを許してくれるはずがなかった。
男の指が、私の顎に触れる。
骨ばった、長い指。それが、有無を言わせない力で私の顎をすくい上げ、強引に視線を合わせさせる。
「っ……」
近すぎる距離に、息が止まった。逆光で見えにくかった瞳の色が、今は痛いほどはっきりと見える。
金と黒が混ざり合った、深い色。人間には決して存在しない色だ。
「逃げる気か」
囁くような声。その声には、抗うことを最初から許さない圧があった。
「な、なにを……私、何も――」
「とぼけるな」
言葉を遮るように、彼の唇が、私の耳元に寄せられる。低い声が、肌を直接撫でるように響いた。
「お前、見えているのだろう?」
「……っ」
「先ほどまで、お前を囲んでいた連中。あれが、ただの虫の知らせだとでも言うつもりか」
反論の言葉が出てこなかった。出てくるはずがない。今、この瞬間、私の目はしっかりと彼の瞳を見てしまっている。「見えていない」というふりを続けるための、最後の砦――視線を逸らすという防御術が、彼の指に固定された顎のせいで、完全に封じられていた。
「隠したつもりだろうが、無駄だ」
彼の顔が、わずかに近づく。
「お前のその、甘ったるい霊力。隠したところで、隠しきれるものか」
甘ったるい霊力――その言葉の意味を理解するより先に、彼が、まるで匂いを確かめるように、私の首筋にすっと視線を落とした。背筋に、ぞくりとしたものが走る。
「数百年生きてきたが……こんな匂いをさせる人間に会ったのは、初めてだ」
「な……っ、何の話ですか。私は、ただの――」
「ただの、人間?」
くすり、と。彼の唇の端が、初めてわずかに上がった。それは笑顔と呼ぶには冷たすぎる、「愉しんでいる」ことを示す表情だった。
「ただの人間が、あの数の妖を呼び寄せ、なおも喰われずに済んでいるとでも?」
返す言葉がなかった。
ずっと、ずっと隠してきたのに。
幼い頃から、誰にも気づかれないように、誰の視界にも入らないように、息を潜めて生きてきたのに。
目の前のこの男は、私が何年もかけて積み上げてきた「見えないフリ」という壁を、たった数十秒で、いとも簡単に崩してしまった。
「お前は、自分が何を持っているか、わかっていないようだな」
彼は、顎を掴んでいた指に、わずかに力を込めた。逃げ場のない視線が、私の奥の奥まで見透かしてくるようだった。
「いい。教えてやろう」
その声には、もう、笑みの気配はなかった。ただ、絶対的な――何かを「決定」したものの、静かな確信だけがあった。
「お前は今、俺の前にいる。それがどういう意味を持つか、これから知ることになる」




