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2.「めっちゃ雰囲気いいね」

「ほら、ここだよ!めちゃ可愛くない?」


 土曜日の午後三時。遥に連れられてやってきたのは、住宅街の外れにひっそりと建つ、二階建ての洋館風カフェだった。

 外壁には意図的に塗装を剥がしたようなムラがあり、窓には蔦が這っている。古い洋館をそのままリノベーションしたという話に違わず、外観は確かに「廃墟感」と「おしゃれ」のバランスが絶妙だった。SNSでバズるのもわかる。

 けれど――。

 扉の前に立った瞬間、私の足が、ぴたりと止まった。


「ひなこ?どうしたの?」

「……ううん、なんでもない」


 なんでもない、なんかじゃない。扉の隙間から漏れる空気が、明らかに「冷たい」。

 これは気温の問題じゃない。肌で感じる、何かの「気」の濃度の問題だ。


「いらっしゃいませー」


 扉を開けると、店員の明るい声が出迎えてくれた。

 内装は写真の通り、アンティークな家具とドライフラワー、レトロな照明が並ぶ、女性受けする可愛らしい空間。普通のお客さんたちが、普通にスイーツを写真に撮って、普通に笑っている。

 ――普通、に見える。

 けど、私の目には、その「普通」の隙間に、別のものが映り込んでいた。

 壁にかけられた古い絵画の枠の中で、ゆらりと揺れる黒い影。天井の隅、シャンデリアの陰に張り付くように丸まっている、煙のような塊。カウンターの奥、誰も気づいていない暗がりに、じっとこちらを見つめる、たくさんの小さな鈍い光――。


「うわ、あの窓際の席、めっちゃ雰囲気いいね!行こう行こう!」


 遥は何も気づかず、私の手を引いて窓際のテーブルへと進んでいく。

 私は引っ張られるまま歩きながら、必死で視線をスマホの画面に固定しようとしたけど、いつもの「見ないフリ」が、今日はうまく機能しない。

 数が、多すぎる。

 普通のオフィス街や電車の中なら、せいぜい数体。ぼんやりとした、害のないあやふやな存在ばかり。でも、ここは違う。十、二十……数えるのをやめた方がいい数の「気配」が、この建物の中に、まるで吸い込まれるように集まっている。

 席に着いた瞬間、ふと、空気が変わった。

 壁の隙間から、すうっと、何かが滲み出すように現れる。輪郭のはっきりしない、人の形をした影が、テーブルの間をすり抜けるように動き始めた。それも、一つ、二つ――気づけば、店内のあちこちで、同じような気配がざわざわと揺れ始めている。


「ひなこ、メニュー見て見て!この『常夜のパフェ』ってやつ、写真映え系で人気らしいよ」

「……うん、いいね」


 うわの空で返事をしながら、私は冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。

 影たちは、まだ私たちのテーブルに近づいてはこない。だが、その「視線」のようなものは、明らかに一点――私の方へと、じわじわと集まり始めている。

 まるで、甘い匂いに誘われる虫のように。

 ぞわり、と全身の肌が粟立った。これは、まずい。今までに感じたことのない種類の「気づかれ方」だ。


「あの、遥――」


 声をかけようとした瞬間、店内の照明が、ふっと一瞬、明滅した。

 誰も気づいていない。けれど私には、はっきりとわかった。

 この店全体が、すでに「あやかしの溜まり場」として出来上がっている。そして今、その全員の意識が、ゆっくりと、確実に、私という存在に向けられ始めているのだと。


「ひなこ、私ちょっとお手洗い行ってくるー」

「あ……うん」


 遥が席を立つのを、私はうまく止められなかった。引き留める理由がない。「行かないで」なんて、まともな説明もできずに言えるわけがない。

 彼女の背中が、奥のお手洗いの方へ消えていく。

 その瞬間だった。

 ふっ、と店内の音が遠ざかった。

 他のお客さんたちの笑い声、カップを置く音、BGMの軽やかなジャズ――それら全部が、まるで水の中に沈んだみたいに、くぐもって聞こえなくなる。

 代わりに聞こえてきたのは、サラサラと砂が落ちるような音と、何かが擦れ合うような、低い、低い、囁き声だった。


「……っ」


 顔を上げると、店内の空気そのものが、揺らいでいた。

 窓の外の景色が、まるで水面に映る景色のように歪み、ガラスを通して見える街並みが、いつの間にか見覚えのない、薄暗い景色に変わっている。

 ここは、もう「現世」じゃない。

 壁際に貼り付いていた影たちが、ゆっくりと、テーブルの間を這うように動き出した。

 一つではない。次々と、店の暗がりという暗がりから染み出すように、輪郭のあやふやな「何か」たちが姿を見せ始める。

 立ち上がろうとした瞬間、足元がもつれた。椅子を蹴るようにして、私は出入口に向かって歩き出す。けれど――。

 扉の前に、いつの間にか、人の形をした影が立っていた。

 大きく口を開けるように、影の中心がぽっかりと暗く裂ける。そこから漏れる声は、人の言葉になっていない、ただの「飢え」のような響きだった。


「あまい」

「あまい、あまい」

「ちょうだい」


 ひとつの声じゃない。複数の、重なり合った声が、店内のあちこちから、私の名前も知らないくせに親しげに囲い込むように響いてくる。

 いつの間にか、私の周りには、人間が一人も見えなくなっていた。さっきまで談笑していたお客さんたちの姿も、店員の声も、もうどこにもない。

 代わりに、ぼんやりとした輪郭の塊たちが、輪を作るように、じわじわと私との距離を詰めてくる。

 逃げなきゃ。

 頭ではわかっている。なのに、足が動かない。何年も「見ないフリ」を続けてきた理性が、初めて、完全に機能を停止していた。

 幼い頃から、ずっと耐えてきた。見えても見ない。気づいても気づかない。それで、私は「普通」を守ってきたはずだった。

 でも、これは。

 数が違う。圧が違う。この量の「飢え」を、私一人で受け止めるなんて、無理だ。


「い……」


 喉の奥から、自分の意志とは関係なく、悲鳴の前触れのような音が漏れる。

 影の輪が、さらに一歩、私との距離を詰めた。冷たい指のようなものが、肩に触れる感覚――その瞬間、私はようやく、声にならない叫びを上げようとした。


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