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1.「変わってるよね」

「ちょっと、待ってください!」


 声を上げても、男の手は止まらない。白く長い指が、私の首筋に、そっと、かざされる。


「いっ……熱い……っ!」

「動くな」


 短い命令だった。声に縫い付けられたように、動けなくなる。

 熱の感触が、首筋の上を這っていく。皮膚の下、もっと深い所に、何かを書き込むように。


「な……何を、してるんですか……っ」

「契約だ。お前の霊力は、今日から俺のものだ」

「そんな、勝手な……」

「そうだな」


 男の声に、わずかに笑いの色が混じった。


「教えてやろう。お前が俺から離れれば――その瞬間から、お前は、この世のすべてのあやかしにとって、極上の餌になる」


 心臓が、ひゅっと縮んだ。


「逃げられるとでも思ったか?お前はもう、俺の結界の中にいる」


 ☆


 月曜日の朝、七時四十二分。これが、私――瀬戸雛子の「平穏」を保つための、もっとも重要な数字だ。

 この時間の電車に乗れば、座席に座れる確率は体感で七割ほど。そして何より、車両の混み具合が「ちょうどいい」。

 人が多すぎると視界の隙間からよく見えてしまうし、少なすぎても、なぜか「視られている」と気づかれやすい。

 イヤホンを両耳にしっかりと差し込む。再生するのは、いつもの雨音のプレイリスト。ザーザーという無機質な音が、頭の中の余計な情報を洗い流してくれる――気がする。実際には何も解決していないのだけれど、これは私なりの結界だ。

 スマホの画面に視線を固定する。

 ニュースアプリをスクロールしながら、目だけは決して、窓の外や、ホームの端や、車両の連結部に向けない。

 なぜか。

 そこに、いるからだ。

 今日も、改札の柱の陰に、ぼんやりと黒い影のようなものが揺れているのが、視界の端に映った。

 輪郭がはっきりしない、煙みたいなそれは、たぶん人間には見えていない。見えているのは私だけ。


「……見ない、見ない」


 声には出さず、心の中だけで呟く。これは口癖というより、もはや呪文だ。

 視線を逸らし、スマホの画面の文字を意味もなく目で追う。スポーツ欄の見出しが「東京ワイバーンズ泥沼9連敗!監督の采配迷走中」。

 どうでもいい。今はそれでいい。

 肌身離さず持っている小さなお守りを、コートのポケットの中でそっと握る。

 表面はもう擦れて文字が読みにくくなっているけれど、これは大学時代にお世話になった霊感の強い先輩からもらった、ちょっとした護符だ。効果のほどは正直よくわからない。

 けど、無いとなんとなく不安だから持っている。お守りなんて、たぶん全部そういうものだ。

 電車が動き出す。

 窓の外を流れる景色の中に、時々、人間ではない「何か」が混じっているのが見える。電線の上を歩く小さな影。ビルの隙間に佇む、人の形をした白い霧。

 知らない。

 見ない。

 見えていない。

 私は、ただの二十四歳の事務職員。あやかしなんて、漫画やアニメの中だけの存在。そう自分に言い聞かせながら、私はイヤホンの音量を一段階上げた。

 幼い頃、これが見えると人に話して、どうなったか。私はよく知っている。

 最初は驚かれ、次に気味悪がられ、最後には誰もいなくなった。だから、いつからか決めたのだ。

 見えても、見ない。聞こえても、聞かない。それが、私が「普通」でいられる唯一の方法だった。

 電車が次の駅に着く。ドアが開く音と共に、ホームのアナウンスがイヤホンの隙間から滲んでくる。私はスマホをバッグにしまい、降りる準備をする。

 今日も、何も見えなかった一日にする。

 オフィスに着いたら、いつも通り定時で仕事を終わらせて、帰りに駅前のティーショップで紅茶の葉を買って、それから――そう、先週買ったまま読みかけの推理小説の続きを読むのだ。

 犯人はもう半分くらい予想がついているけれど、その答え合わせをするための時間が、何より愛おしい。

 平穏。

 私の欲しいものはそれだけ。


 ☆


「瀬戸さん、この見積書、もうできてます?」

「はい、さっき出しました。経理にも転送済みです」


 後輩の質問に即答すると、「さすが早いですね」と笑われた。それくらいの仕事は、私にとってはなんでもない。

 むしろ、目の前の業務に集中している時間こそが、私が一番「普通の人間」らしくいられる瞬間だ。

 書類の文字、エクセルのマス目、決まったフォーマット。そこには、影も、霧も、得体の知れない気配も存在しない。

 だから私は仕事が好きだ。正確には、仕事をしている状態の自分が好きだ。

 とはいえ、何もかも上手くいっているわけではない。


「瀬戸さんって、なんか……ちょっと変わってるよね」


 お昼休み、隣の席の先輩にぽろっと言われたことがある。

 悪気はないのだろう。ただ、誰よりも周りに気を配って、誰よりも周りと適切な距離を保とうとしている私は、傍から見ると、どこかソツがなさすぎて居心地が悪いらしい。

 仲良くなりすぎない。深い話をしない。プライベートに踏み込ませない。

 それが、私の「普通」を守るための、もう一つのルールだった。

 ――けれど、そのルールにいつも風穴を開けてくる人がいる。


「ひなこ!ランチ行こう!」


 元気よく手を振りながら駆け寄ってくるのは、同期の佐藤遥だ。

 同じ事務職なのに、なぜか彼女の周りだけ常に光が当たっているように見える。社交的で、明るくて、誰とでも距離をゼロにできる人。私と正反対の存在。


「今日はお弁当持ってきたから……」

「えー、じゃあ食べた後でいいから、ちょっと話聞いてよ!すごいとこ見つけたの!」


 遥は私の言い訳を華麗に無視して、スマホの画面を突き出してくる。

 そこに映っていたのは、古びた……いや、レトロな扉と蔦の絡まった外壁、廃墟のような雰囲気を漂わせたカフェの写真だった。


「『廃墟カフェ・ノクターン』。先週オープンしたばっかりなんだけど、もうSNSでめちゃバズってるの!今週末、一緒に行こうよ!」


 写真を見た瞬間、なぜか胃の奥がすっと冷たくなった。

 理由はわからない。ただの古い建物をリノベーションしただけの、ただのカフェ。

 そう思おうとするのに、画面の隅に映る、ひび割れた壁の暗がりが、妙に気になって仕方がない。


「……遥、私、そういう雰囲気のところ、あんまり得意じゃないんだよね」

「えー、なんで?写真めちゃ可愛いじゃん!オープン期間限定スイーツもあるんだって!」

「いや、そうじゃなくて……」


 うまく説明できない。「廃墟っぽい場所は、本物の何かが居着いていることがあるから怖い」なんて、まともな人間の言い訳にはならない。


「お願い!一人だと入りにくいカフェなの!ひなこと一緒じゃないと絶対行けないから!」


 一人で入れないくらいなら諦めて欲しい。

 遥は両手を合わせて、捨てられた子犬みたいな目で私を見つめてくる。これは、断れない時の彼女の必殺技だ。何度もこれにやられてきた。

 本当は、断るべきだ。理由は説明できなくても、直感が「行くな」と告げている。

 けれど、目の前で本気で困っている友人を見ると、私の中の「面倒に巻き込まれたくない自分」より、「困っている人を放っておけない自分」の方が、いつも一歩前に出てしまう。これは、たぶん私の唯一の弱点だ。


「……わかった。一回だけだから」

「やった!ありがとうひなこ、大好き!」


 飛びついてくる遥を軽くいなしながら、私は内心、小さなため息をついた。

 平穏第一主義のはずの自分が、今、自分の意志とは関係なく、何かに引き寄せられていく感覚――。

 それが何なのか、その時の私はまだ、知らなかった。


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