27.「心配したんだから」
龍宮の訪問から数日後、私はいつものように応接室で陳情書の整理をしていた。手伝いに来てくれていた影月が、ふと作業の手を止めて窓の外を眺めた。
「……瀬戸様」
「はい?」
「近頃は、蓮夜様の纏う気配が随分と変わられました」
影月の声には、感慨深い色が滲んでいた。
「以前はいつもどこか張りつめた、冷たい気配を纏っていらっしゃいました。それが今は……穏やかで安定した気配を感じます」
「私が何かしたわけじゃないですけど」
「いえ、瀬戸様だからこそできたことです」
影月は書類を整理する手を再び動かしながら、淡々と続けた。
「私はもう何百年も、蓮夜様の傍にお仕えしてきました。長い時間の中で、あの方がこんなに人間らしい表情を見せるようになるとは、正直思っていませんでした」
「影月さんも、蓮夜さんのこと心から大切に思ってるんですね」
「ええ、もちろんです」
影月はふと、少し苦笑するような表情を浮かべた。
「正直に申し上げると、少しだけ羨ましいと思う気持ちもあります」
「羨ましい、ですか」
「私は影から生まれた妖です。仕えること、支えることが私の存在の在り方そのものです。ですが瀬戸様のように、誰かと『対等な絆』を結ぶということは、私には想像もできない別の世界の話のように思えます」
その言葉には嫉妬や悪意ではなく、ただ静かな、純粋な感慨が込められている気がした。
「影月さんにもいつか、そういう相手が見つかるかもしれません」
「……そうかもしれませんね。気が長い話ですが」
影月は小さく笑って、それからふと、私の方をまっすぐに見つめた。
「瀬戸様」
「はい」
「これからも蓮夜様を、よろしくお願いいたします」
その言葉には、これまで何百年も蓮夜の傍で彼を支え続けてきた、影月自身の深い忠誠と愛情が確かに込められていた。
「あの方は長く孤独を当たり前のものとして生きてこられました。瀬戸様が現れたことでようやくそこから解放されたのだと、私は思っております」
「私もこれからもずっと、蓮夜さんの傍にいます。約束します」
はっきりと私は、その言葉を口にした。
「それを聞けて安心いたしました」
影月は深く頭を下げた。それからふと、いつもの少し生意気な笑みを浮かべる。
「ただし瀬戸様。蓮夜様があまりにも瀬戸様にばかり気を取られて業務をおろそかにされた時は、私が容赦なくお叱りいたしますので」
「それはお願いします」
その会話に、二人で思わず小さく笑い合った。
窓の外には穏やかな午後の光が、静かに降り注いでいる。
主従の関係を超えて影月との間にもこうして、確かな信頼が少しずつ育まれていく。
この新しい日々の中で私は、たくさんの温かい繋がりをこれからもっと丁寧に積み重ねていきたいと、心から思っていた。
☆
「ひなこー!久しぶりー!」
待ち合わせのカフェに入ると、遥が満面の笑みで手を振っていた。
あの廃墟カフェの一件以来ずいぶん長く、ゆっくり会う時間が取れなかったから、本当に久しぶりの再会だった。
「久しぶり。元気だった?」
「元気元気!それよりひなこ、突然会社辞めて転職するって聞いた時、ものすごく驚いたんだから!」
遥は頬を膨らませながら、椅子に腰を下ろした。
「ちゃんと説明できなくて、ごめんね」
「全然連絡も取れなかったし心配したんだからね!でもまあ、新しい職場、大手のホールディングスなんでしょ?すごい出世じゃん。それに……」
遥はメニューを見ながら、ふと私の方に視線を戻した。その視線がしばらく、私の顔をじっと見つめている。
「……ねえ、ひなこ。なんか雰囲気変わった?」
「え、そう?」
「うん、なんか……前はいつもどこか肩肘張ってるみたいな感じだったけど、今はすごく自然な感じがする。あと、なんか顔色もいつもより明るく見える」
その鋭い指摘に、思わず苦笑する。さすが、長年の友人だ。
「実は最近、ちょっと色々あって。でも今はすごく充実してるんだ」
「ふーん、なんか隠してるなー」
遥はにやにやと笑いながら、メニューを指でくるくる回した。
「あれ、もしかして彼氏できた?」
あまりにも直球な問いに、思わず頬が熱くなる。
「ん……まぁ、そんな感じ」
「ほら、やっぱり!顔に出てるよ!」
遥は嬉しそうにはしゃいだ声を上げた。
「どんな人?写真ある?」
「写真は、ちょっと……」
「えー、見せてよ!」
残念ながら、蓮夜の存在を写真で説明できる気がしなかった。あやかしは人間のカメラに、うまく映らないことが多いらしい。
「とにかくすごく優しい人だよ。最初はちょっと強引で、傲慢なところもあったけど」
「強引って、なんかドラマみたいな出会いじゃん」
「うん、本当にドラマみたいだった」
苦笑しながら、私はあの夜の出会いをぼんやりと思い出していた。あの一件をまさか、こんな普通のランチの席で明るく話せる日が来るとは、あの時の私には想像もつかなかった。
「でも、本当に良かった」
遥は突然、優しい声でそう呟いた。
「前から思ってたんだ。ひなこってすごく優秀なのに、いつもなんか自分から誰かと深い関係を作るのを避けてる感じがあった。だからちゃんと誰かに心を開けるようになったんだなって思うと、すごく嬉しい」
その言葉に、思わず目頭が熱くなった。
遥は私のことをずっとこんな風に見守ってくれていたのだと、初めてはっきりと気づかされた。
「ありがとう、遥」
「いいよ。それよりお祝いにデザートも頼もうよ!今日は私が奢ってあげるから!」
その明るい声に、思わず笑いがこぼれる。
「ありがと。じゃあ遠慮なく」
窓から差し込む午後の優しい光の中、私たちは久しぶりの、何でもないけれど何よりも大切な時間をゆっくりと過ごしていた。
誰かとこんな風に肩の力を抜いて、自分の幸せを率直に話せる時間。
それもまた、私がようやく手に入れた新しい「平穏」の一つの形だった。




