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26.「ただの秘書」

「今月の経営会議で、一つ報告事項がある」


 月例の社内会議の冒頭、蓮夜が静かにそう切り出した。社員たちが何の話だろうと少しざわつきながら、彼に注目する。


「特別秘書の瀬戸雛子を、今後、俺の伴侶として社内外に正式に紹介する」


 会議室が一瞬、静まり返った。


「……は、社長の伴侶、ですか?」


 驚いた声を上げたのは人事部の社員だった。以前、鵺野を撃退した時の壁際の出来事を目撃した、あの社員に違いない。


「そうだ。今後、正式な場では瀬戸を俺のパートナーとして扱ってもらいたい」


 あくまで淡々とした口調だったけれど、その内容は十分に衝撃的だった。社員たちの間に、わずかな興奮の空気が広がっていく。


「あの……瀬戸さんって、確か……」

「ええ、前にオフィスで社長と壁に……」

「やっぱり……!!」


 社員たちの間で密かに広まっていた噂が、ようやくはっきりとした形で確認された瞬間だったらしい。私は頬が熱くなるのを感じながら、視線をテーブルに落とした。


「蓮夜さん、いきなりこんな大々的に言わなくても……」


 会議が終わった後、私は小さく抗議した。


「何か問題があるのか?事実を隠す必要がない」

「それはわかってますけど」

「むしろ、はっきりとさせておく方がお前にとっても都合がいいはずだ」


 蓮夜の言い分には、確かに一理ある。これまでのような曖昧な関係のままでは、社内での私の立場も不安定なままだった。

 その日、オフィスを歩いていると、これまで以上に社員たちの視線が私に向けられているのを感じた。

 その視線は、以前のような戸惑いや面白がるような色合いではなく――もっと温かい、祝福のような色が混じっている気がした。


「瀬戸さん、おめでとうございます」


 すれ違った同僚の一人が、にこやかに声をかけてきた。


「ありがとうございます。なんだか恥ずかしいですけど……」

「いえ、瀬戸さんの仕事ぶり、本当にずっとすごいと思ってましたから。あの混沌としていた書類管理が瀬戸さんが来てから本当に整理されたって、みんな言ってるんですよ」


 その言葉に思わず目頭が熱くなった。これまで地味な事務職として目立たず、ただ「業務をこなす」だけだった私が、こんな風に自分の働きをちゃんと評価されている。

 午後、応接室ではあやかし界からの陳情を取り扱う調整係たちが、いつものように訪れていた。


「瀬戸様が蓮夜様の正式な伴侶になられたと伺いました」


 ある中堅の妖が丁寧に頭を下げてくる。


「これからは瀬戸様への対応も、より一層丁重に行わせていただきます」

「いえ、そんな丁重にしなくても大丈夫です」

「いえ、そうはいきません。これは礼儀の問題でございますので」


 その態度の変化に少し面映ゆさを感じながらも、なんとなく誇らしい気持ちが胸の奥に湧いてくる。

 夕方、社長室に戻ると蓮夜がデスクで書類に目を通していた。


「蓮夜さん、今日はなんだかいつもより丁寧に扱われた気がします」

「当然だ。お前はもう、ただの秘書じゃない」


 蓮夜は書類から顔を上げ、私を見つめた。


「俺の、正式な伴侶だ。それを誰にも軽んじさせるつもりはない」


 その言葉に、これまで積み重ねてきた苦労や努力がようやくきちんとした形で報われているのだと、改めて実感する。


「ありがとうございます」

「礼を言うことではない。お前が自分の力で、この立場を勝ち取ったんだ」


 蓮夜の言葉に、私は静かに頷いた。

 夕暮れの東京の街が、いつも以上に優しい光に包まれて広がっている。


 ☆


「本日、龍宮様がご挨拶にお見えになります」


 影月からその知らせを受けたのは、ある晴れた日の午後だった。


「龍宮様……って、確か」

「水域を守護する古の龍神です。あやかし界では調停役としても広く知られている、大変高位の存在ですよ」


 影月の口調がいつもよりわずかに緊張を帯びている。それだけでこの来客が、どれほど重要な存在なのか察することができた。


「失礼のないように対応しなければいけませんね」

「ええ。ですが瀬戸様なら心配ないでしょう」


 応接室を整えしばらく待っていると、扉が静かに開かれた。

 現れたのは上品な白髪の老紳士だった。仕立てのいい着物を纏い、その立ち姿には年齢を超えた深い威厳が漂っている。けれどその表情には敵意の欠片もなく、ただ穏やかな礼儀正しい雰囲気が滲んでいた。


「神薙殿、瀬戸殿。本日は突然の訪問、失礼いたす」

「いえ、ようこそお越しくださいました」


 蓮夜が丁寧に命じた。私もできる限り礼儀正しく頭を下げる。


「龍宮様、本日はどのようなご用件でしょうか」

「先日の一件、噂はすでに常世全体に届いておる」


 龍宮はゆったりとした口調で語り始めた。


「神薙殿が強大な敵を退け、人間との絆をより深いものとした、とな。これはあやかし界にとっても、決して小さな出来事ではない」

「……それは」

「人と妖が対立する関係を超えて、こうして深く結びつくことができるという一つの証だ。これをあやかし界の長として公的に認め、祝福しに来た」


 龍宮は持参していた木箱を丁寧に座卓の上に置いた。


「これは常世と現世を繋ぐ貴重な花だ。滅多に手に入らない品だが、この機会に献上したい」


 木箱を開けると、中には淡い青白い光を放つ見たことのない花が丁寧に納められていた。香りはなんとも形容しがたい、清涼な、それでいてどこか懐かしい匂いがする。


「ありがとうございます。とても丁寧に……お礼を申し上げます」


 私はその品の重要性をすぐに理解し、両手で丁寧に受け取った。


「うむ。しっかりとした礼儀作法だ」


 龍宮は感心したように頷いた。


「瀬戸殿の評判はすでにこちらにも届いておる。神薙殿の業務を見事に立て直した、と」

「それは大げさですよ。ただ事務処理が性に合っていただけです」

「いや、それこそが重要なのだ」


 龍宮はまっすぐに私を見据えた。


「神薙殿の傍にはこれまで、力ある存在はいくらでもいた。だが力では解決できぬことが世の中には多くある。瀬戸殿のような――地道に、誠実に物事を整える存在こそが、本当に必要だったのだろう」


 その言葉に、不思議な感慨が胸に湧いてくる。


「蓮夜殿の傍には、力ではなく『器』が必要だったのだな」


 その「器」という言葉に、一瞬心臓が跳ねた。けれどその響きは、かつて赫々から告げられたあの残酷な「器」とはまったく違う意味を持っていた。

 誰かに利用される空っぽの容器ではない。

 むしろ誰かをしっかりと支え、受け止めることができる――そういう確かな「器」としての評価。


「ありがとうございます。その言葉、誇りに思います」


 心からの感謝を込めて、私は深く頭を下げた。

 龍宮は満足げに頷くと、丁寧に蓮夜と私にそれぞれ祝いの言葉を残し、応接室を後にした。

 彼が去った後の部屋には、あの花の清涼な香りだけが静かに残っていた。


「これであやかし界にも、お前との繋がりが公に認められたことになる」


 蓮夜が隣で静かにそう言った。


「人間としてもあやかしとしても、お前の立場はもう誰にも揺るがされることはない」


 その言葉に、私は深く安堵の息を吐いた。

 長く険しい道を二人でようやく歩き終えたような――そんな確かな実感が、胸の奥に静かに広がっていた。

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