25.「これを見てくれ」
朝の光が寝室の障子を淡く染め始めた頃、私はゆっくりと目を覚ました。
天井には提灯。畳の匂い。窓の外には眼下に広がる東京の街並み。
この部屋で目覚めるのが当たり前になってから、どれくらい経つだろう。最初の朝、現実感のなさに茫然としていた自分を、今となっては遠い昔のことのように思い出す。
身支度を整えてリビングへ向かう。
蓮夜はすでに和服から、今日の仕事用の装いに着替えていた。深い黒のスーツに白いシャツ、深緑のタイ。いつもと同じ隙のない格好なのに、なぜか今朝はその姿が、朝の光の中でひどく鮮やかに見えた。
「起きたか」
「おはようございます」
コーヒーの香りが部屋に漂っている。最近、蓮夜が覚えた数少ない人間界の習慣の一つだ。
朝食を済ませエントランスに向かうと、すでにエレベーターホールの前に影月が待っていた。
「おはようございます、瀬戸様。本日もよい天気になりそうですね」
「おはようございます、影月さん」
一階に降りてマンションの玄関を抜けると、車寄せに黒塗りの車がすでに横付けされていた。艶のある漆黒のボディ。ドアに手をかけた運転手が深く頭を下げる。
以前の私の通勤といえば、混んだ電車に揺られながらイヤホンを両耳に差し込み、スマホの画面を凝視して、周囲のあやかしを「見ないフリ」するだけの時間だった。
それが今は、こうなっている。
「どうした、乗らないのか」
車のドアを開けたまま、蓮夜がこちらを振り返った。
「いえ、なんでもないです」
後部座席に乗り込むと、革のシートの落ち着いた感触が身体を包む。蓮夜が隣に座ると、車が静かに走り出した。
窓の外に朝の都心の景色が流れていく。
以前ならこの景色の中に、あやかしの気配を見つけるたびに視線を逸らし、息をひそめていた。でも、今の私は――。
信号待ちの交差点、街路樹の陰に小さな影がちらりと揺れた。古い電柱の守り神のような、小さな妖だろう。その影がこちらの車に気づいて、ふわりと揺れた。
私は窓越しにそっと手を振った。
影は驚いたようにぴたりと止まる。それからくるりと一回転して、木の陰に引っ込んでいった。
「……何をしている」
隣で蓮夜が低く問う。
「街路樹に小さい子がいたので、挨拶しました」
「ふん」
蓮夜は短く鼻を鳴らした。けれど、その口元にわずかな笑みが浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。
窓の外の景色がどんどん流れていく。
朝の光に照らされたビルの群れ。行き交う人々の中に、時折あやかしの気配が混じっている。以前は怖かったその視界が、今はただ豊かで賑やかに見える。
「あの、蓮夜さん」
「何だ」
「以前の私、毎朝電車で通勤してたんですよ。7時42分の電車に乗って、イヤホンして、スマホ見て、できるだけ何も見ないようにして、会社に行って」
「知っている」
「今は、こんな朝になってる」
そう言うと、蓮夜は少し間を置いてから私の方を向いた。
「後悔しているのか?」
「全然」
即答すると、蓮夜は静かに私の手を取った。スーツの袖から伸びた長い指が、私の指先と自然に絡まる。
「そうか」
それだけ言って、蓮夜はまた窓の外に視線を戻した。
車は都心の大通りを滑らかに進んでいく。やがて神薙ホールディングスのビルが前方にその威容を現し始めた。
朝の光を受けて、ガラスのファサードがまるで一枚の鏡のように輝いている。
エントランスに車が着くと、待ち構えていた社員たちが一斉に深く頭を下げた。以前の私ならこの光景に、ただ圧倒されるだけだった。
今はごく自然にその中を歩いていける気がした。
「行こう」
蓮夜が先に車を降り、こちらに手を差し伸べる。
その手を取って、私は車を降りた。
朝の光が二人の上に静かに降り注いでいる。
あの「7時42分の電車の朝」は、もうどこにもない。代わりにここにあるのは――誰かに怯えることも、自分を隠すこともない、私自身の確かな朝だった。
☆
「雛子、これを見てくれ」
休日の朝、リビングに入った瞬間、私は思わず固まった。
座卓の上に何冊もの雑誌や本が、山積みになっている。よく見るとすべて、人間界の「デートスポット特集」や「カップル向けグルメガイド」のような内容だった。
「……これ、どうしたんですか」
「影月に頼んで、取り寄せた」
蓮夜は和服姿のまま、真剣な表情で雑誌の一冊を私に向けて開いた。
「人間界の若い男女は、こういう場所でこういう時間を過ごすものらしい」
「えっと……それは、私とどこかに行こうとしてくれてる、ってことですか」
「そうだ」
あくまで真面目な顔で、蓮夜は答えた。
「お前との時間を、もっと人間らしい形で過ごしたいと思っている。そのためにはまず、人間界の『常識』を学ぶ必要がある」
その熱心すぎる態度に、なんだか思わず笑いがこぼれそうになる。
「そんなに構えなくても、いいですよ」
「いや、構う必要がある」
蓮夜は雑誌のページを指で示した。
「ここには『最近話題のカフェで写真を撮ること』が、デートの定番だと書いてある。お前はこういうことを、望むのか?」
「望むかどうかは、その時々ですけど……一緒に楽しめれば、それでいいんです」
「ではこれも、試す価値があるな」
蓮夜は別のページを開いた。今度は「最近の若者に人気のボードゲームカフェ」という見出しがあった。
「これは、何だ」
「ボードゲームを店で借りて、遊べる場所ですね」
「神としての勝負勘をこの遊戯で発揮すれば、お前を容易く負かせるだろうな」
「容易くは負かせないと思いますけど」
半分面白くなりながら、私は答えた。
その週末、私たちは実際に近くのボードゲームカフェに足を運んだ。
「これは、どうやって進めるんだ」
「サイコロを振って、出た数だけ進むんです。簡単ですよ」
蓮夜は初めてサイコロを手にした時、本当に不思議そうな顔をしていた。けれどルールを覚えるとすぐに、本気で勝負に取り組み始めた。
「……負けた」
数戦終えた後、蓮夜は信じられないという顔でボードを見下ろした。
「運の要素が強いゲームですから。神様の力じゃ、コントロールできないんですよ」
「悔しい」
その素直すぎる感想に、思わず笑ってしまった。これまでの傲慢で絶対的な強者だったはずの蓮夜が、こんな風に人間らしい遊びで悔しがる姿を見せるなんて、想像もしていなかった。
「次は、絶対に勝つ」
「楽しみにしてますね」
帰り道、夕暮れの街を二人で並んで歩く。
「……人間界の遊びは、思っていたよりも面白いものだな」
「そうですか?蓮夜さんが楽しんでくれてるなら、嬉しいです」
「いや」
蓮夜は少し言葉を選びながら、続けた。
「正確には――お前と一緒にいる時間そのものが面白い、ということだ」
その言葉に、頬が自然と緩んでしまう。
何百年も生きてきた絶対的な存在が、今こんなにも不器用に、けれどまっすぐに、私との時間を大切にしようとしている。
その姿がなんだか、とても愛おしく思えた。
夕焼けの光に染まる街並みを二人で歩きながら、私はこれからのたくさんの「初めての時間」を一緒に重ねていけることを、静かに楽しみに思っていた。




