24.「不公平です」
光が辺り一面を静かに満たしていく。
赫々の炎の輪郭はもう、最初の激しさを失っていた。
憎しみに塗れていたはずのその気配は、今ひどく穏やかな、何かを諦めたような――いや、ようやく長い時間を経て解放されたような、静かな色合いを纏っていた。
「……蓮夜の傍にいるのがお前のような者とは、思わなかった」
赫々の声が最後に、低く響いた。
「もうこれ以上、お前たちに執着する理由はない気がする」
その言葉と共に彼の輪郭が、まるで夜明けの霧が朝日に溶けていくように、ゆっくりと薄れていった。憎しみも悲しみも、すべてをその光の中に静かに溶かし込みながら。
「……終わったんですか」
「ああ」
すぐ隣で、蓮夜の声がかすかに返ってきた。
気づけば周囲を覆っていたあの濃密な闇と炎の領域が、すうっと消え去っていた。視界が一気に開ける。
窓の外――というよりも、いつの間にか私たちは再び、あのマンションのリビングに戻っていた。割れていたはずの窓ガラスも、どういうわけかすでに修復されている。
そしてその窓の向こうには――。
穏やかな朝の光が、東京の街並みを静かに照らし始めていた。
「……朝、ですね」
「ああ」
長い夜がようやく終わったのだと、その光がはっきりと教えてくれていた。
「蓮夜さん、大丈夫ですか?」
慌てて彼の様子を確かめる。傷はまだいくつも残っていたけれど、先ほどまでのような生死の境にいる危うさはもう、感じられなかった。
「……問題ない」
そう言いながらも、蓮夜の身体から急速に力が抜けていくのがわかった。
「蓮夜さん……?」
「すまない。さすがに今回は……」
言葉を最後まで言い切ることなく、蓮夜の身体がゆっくりと私の方へ傾いていった。
「蓮夜さん!」
咄嗟に彼の身体を自分の膝の上で受け止める。
蓮夜は完全に意識を失っているようだった。けれどその表情は、これまでに見たことのないほど安らかだった。
ゆっくりと彼の額に流れる髪を、そっとかき上げる。
長く孤独に生きてきた強大な存在。今はただ一人の傷ついた、けれど確かに私の傍にいる存在として、その身体はここにある。
朝の光が窓から二人の上に、静かに降り注いでいた。
絶望の淵からここまで、帰ってこれた。
涙がふと、頬を伝った。
これは悲しみの涙じゃない。張りつめていた緊張がようやく解けたことによる、安堵の涙だった。
「……ありがとう、蓮夜さん」
眠ったままの彼に、私は小さくそう囁いた。
長い夜が終わりようやく訪れた朝の光の中、私たちは確かに、共に生き延びていた。
☆
あの戦いの後、蓮夜は丸一日、目を覚まさなかった。
「瀬戸様、こちらを」
影月が清潔な布と、お湯を入れた桶、それから新しい寝間着を運んできてくれた。
「傷の手当てと汗を拭いてあげた方がいいでしょう。霊力がまだ不安定な状態ですので」
「……はい、やります」
布団に横たわる蓮夜の姿を改めて見つめる。
あの戦いの最中、何度も見てきた傷ついた身体。今こうして静かに眠っている姿を間近で見ると、その印象はまた少し違って感じられた。
着物の合わせをそっと開く。露わになった上半身には、まだいくつもの傷の痕がはっきりと残っていた。
その傷の下に広がる肌は、相変わらず無駄のない引き締まった輪郭をしている。眠っているせいかいつもの隙のない緊張感が抜けて、その表情はどこかひどく無防備に見えた。
濡らした布をそっと彼の額に押し当てる。それから首筋、鎖骨、肩――丁寧に汗を拭き取っていく。
「……っ、ちょっと、これは」
布を持つ手が思わず止まった。
傷の手当てとは違う、こんな静かな状況でこんなにまじまじと彼の体に触れるのは、なんだか別の意味で緊張する。
眠っているのだから見られている心配はない。それでも頬が自然と熱くなる。
「……まったく。眠っていてもドキドキさせられるなんて、不公平です」
ぼやきながら、それでも丁寧に布を動かし続けた。
ふと、蓮夜の眉間にわずかな苦しげな皺が浮かんだ。
「……痛いんですか?」
返事はない。ただ眠ったまま、彼の手が私の手首を緩く握った。
「……っ」
驚いて手を引こうとしたけれど、その力は思っていたよりもずっと強かった。眠っていてさえ彼の中の何かが私を求めているのかもしれない。そう思うと、なぜか胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「離さないですね、眠ってても」
苦笑しながら空いている方の手で、汗を拭く作業を続ける。新しい寝間着に着替えさせる段になって、また一つ試練が待っていた。
「……これ、一人でできるかな」
ぐったりと眠る彼の身体を起き上がらせ、袖を通すのは思っていたよりも力仕事だった。
何度も体勢を崩しそうになり、その度に必要以上に彼の体に身を寄せることになる。
肌の温度がすぐ近くで伝わってくる。規則的な寝息の音。
「……これはちょっと、心臓に悪いです」
なんとか着替えを終え、布団に丁寧に寝かせ直す。額に張りついた髪をそっとかき上げてあげると、その表情がますます安らかに見えた。
「早く目を覚ましてください。私一人じゃ揶揄ってくる相手もいなくて、つまらないので」
声には出さなかったけれど、心の中でそっとそう呟く。
桶を片付け、布団の傍に座り込む。これから彼が目覚めるまで、できるだけ傍にいよう。そう決めて私は静かに彼の寝顔を見つめ続けた。
窓の外には夜の街の灯りが変わらず、静かに広がっている。
長く孤独な時間を生きてきたこの人を今こうして看病することができる。それだけで私の中の何かが、確かに満たされていくのを感じていた。
☆
それから三日が過ぎた。
蓮夜は眠り続けていた。霊力の消耗が想像以上に深かったらしい。
影月が言うには「神としての力の根本を限界まで使い切った状態」だということだった。
その間、私は毎日彼の枕元で、あの霊力を鎮める茶を静かに淹れ続けた。効果があるかどうかはわからなかったけれど、何もせずにいることが何よりも不安だったから。
「……雛子」
三日目の朝、ようやく蓮夜の声がはっきりと私の名前を呼んだ。
「蓮夜さん!」
慌てて枕元に駆け寄る。蓮夜はゆっくりと目を開けた。その瞳は以前のような絶対的な力を纏った冷たい金色の輝きではなく――もっと柔らかく、人間味を帯びた色を確かに湛えていた。
「……どれくらい眠っていた」
「三日です。本当に心配しました」
声が思わず震えた。安堵と、これまで張り続けていた緊張の糸が一気に緩んでいくのを感じた。
蓮夜はゆっくりと身体を起こし、私の方を見つめた。
「お前はずっと、ここにいたのか」
「当たり前です。傍にいると決めましたから」
「……そうか」
蓮夜はふっと小さく笑った。これまでの傲慢さの中にあった笑みとはまったく違う、ひどく安らかな笑顔だった。
「お前はあの戦いの中で、本当にすごいことをしてくれた」
「私だけの力じゃないです。蓮夜さんと一緒だったから、できたことです」
「そうだな」
蓮夜は私の手をそっと取った。
「もうお前を力の継承先として見ることはない。お前は俺の、対等な番だ。それはこれからも絶対に変わらない」
その言葉に、胸の奥が温かく満たされていく。
「これからどうしますか?蓮夜さんの力も本来の状態に戻るんでしょうか」
「時間はかかるだろうが、戻る。お前との繋がりがあれば、これまでよりもずっと安定した力を保てるはずだ」
蓮夜はゆっくりと身体を起こしながら、まっすぐに私の方を見つめた。
「雛子」
「はい」
「お前は俺の隣以外に――どこへ行くつもりだ?」
その問いには確認のような、けれどどこか確信に満ちた不思議な響きがあった。
私はその問いにしばらく目を細めて彼を見つめた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「どこにも行きません」
はっきりと迷いなく、私は答えた。
「私の場所はもう、ここにあります。あなたの隣に」
その言葉に、蓮夜はこれまでに見たことのない、本当に柔らかな笑みを浮かべた。
神と人間――その関係から始まった強制された繋がりは、今確かに、もっと別の深い絆へと変わっていた。
窓の外には穏やかな朝の光が、静かに二人の上に降り注いでいる。
今はただ――この静かで温かな瞬間をしっかりと、二人で噛み締めていた。




