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22.「単なる固執」

 壁の向こう側から最初に聞こえたのは、低い軋むような音だった。

 まるで巨大な金属の塊が内側から無理やり引き裂かれていくような音。それが徐々に強く、速くなっていく。


「……まさか」


 赫々の表情が初めて明確に変わった。

 次の瞬間、その音が爆発的な轟音に変わった。

 炎の壁の一部が、内側からまるで紙を引きちぎるように四方に裂け散った。

 破れた裂け目の向こうから、一人の男が姿を現した。

 その姿はこれまでに見たことのない、ひどく傷ついた状態だった。和服の右袖は肩口から完全に裂け、剥き出しになった肩にはまるで鎖の痕のような赤黒い傷が幾重にも刻まれている。

 封じの術を力ずくで引きちぎった代償が、そのまま現れているのだろう。

 左の頬から額にかけて一筋の血がすでに乾きかけて、黒ずんでいた。

 足取りは明らかに重い。一歩踏み出すごとに、その身体がわずかに傾く。それでも彼の目だけは、これまでと変わらない強い金色の光を消していなかった。


「雛子……」


 その声は息も絶え絶えで掠れていた。それでも、私の名前を呼ぶ響きには確かな必死さが込められていた。


「蓮夜さん……!」

「雛子、無事か」

「はい……でも、蓮夜さん、その怪我……」

「問題ない」


 いつもの台詞を蓮夜は繰り返した。けれど今度はその言葉が、あまりにも嘘だとわかりすぎて、胸が痛いほど締めつけられた。

 彼が一歩足を進めるたびに、肩の傷から新しい血がにじみ、和服の生地をじわりと染めていく。


「神薙蓮夜。追ってくるとは思っていたが」


 赫々が面白そうに蓮夜を見据える。

 頬に走るひび割れたような亀裂の奥で、炎がちろちろと揺れている。腕をゆっくりと組むその動作だけで、纏った焦げ茶色の衣の裾から火花がぱちぱちと零れ落ちた。


「お前の力はすでに限界に近いはずだ。封じを力で破った今、もうまともに戦える状態ではないだろう」

「……それでも、来る理由がある」


 蓮夜はふらつく足をなんとか踏みしめながら、こちらに視線を向けた。額からまた一筋血が流れ、顎の先でしずくになって、炎に支配された異質な地面の上にぽたりと落ちた。


「雛子をここから連れて帰る」

「それなら、神としての存在をすべて捨てる覚悟があるのか?」


 赫々の問いに、蓮夜は一瞬目を伏せた。傷ついた肩が小さく震えていた。けれどすぐにまっすぐ前を見据える。


「捨てる」


 その一言に、私は息を呑んだ。


「俺の力など、雛子の命に比べればどうでもいい。神の座も守護者としての役目も――今この瞬間、すべて捨てても構わない」

「蓮夜さん……」

「俺は最初、お前を自分の力の継承先として見ていたのかもしれない」


 蓮夜は赫々の言葉が、すでに私の耳に入っていることを察していたのだろう。傷ついた身体のまま、それでも静かにまっすぐ私の方を見つめた。


「だが今は違う。お前を失うなら、力など何の意味もない。お前と共にいられない未来に、俺はもう価値を感じない」


 その言葉に、これまで抱えていた疑念と不安が少しずつ、静かに溶けていくのを感じた。

 最初の動機がどんなものだったとしても――今目の前にいる彼は、確かに私との未来を自分の存在以上に大切に思ってくれている。


「だから行くぞ、雛子」


 蓮夜が傷ついた手を、それでもまっすぐに私の方へ伸ばした。指先がわずかに震えている。それでもその手は、絶対に引かれることはなかった。


「絶対にお前をここに置いていかない」


 赫々の表情が苛立たしげに歪んだ。その輪郭の奥で炎がひときわ大きく、ゆらりと揺れる。


「貴様がそこまで人間一人に固執するとは、思わなかった」

「これは単なる固執などではない」


 蓮夜は傷ついた身体で、それでもまっすぐに赫々と向き合った。血の滲んだ肩を隠そうともせずに。


「これは愛だ」


 その一言が、辺りの炎の壁をわずかに揺らせたような気がした。


「お前には理解できない感情だろうな、俺は今ようやく自分のものとして理解した」


 赫々はしばらく無言で蓮夜を見つめていた。それから苛立たしげに低く笑う。その笑い声に合わせて周囲の炎がぼうっと一段、勢いを増した。


「ならばその『愛』とやら、がどこまでお前を支えられるか――見せてもらおう」


 その言葉と共に、辺り一面の炎が再び轟々と燃え上がった。熱気が肌を刺すように焼く。


 ☆


 炎が再び燃え上がった瞬間、赫々の姿が一気に膨張した。人の形を保っていた輪郭が崩れ、巨大な炎そのもののような存在へと変わっていく。


「終わらせてやる」


 その声と共に、巨大な火柱がまっすぐに蓮夜へと放たれた。


「蓮夜さん!」


 蓮夜が咄嗟に私を庇うように、自分の身体を火柱の正面に置いた。

 すでに限界に近かった身体は、その一撃をまともに受け止める力など残っていなかったはずだ。それでも彼は、一歩も退かなかった。


「……っ、ぐ……!」


 灼熱の光が蓮夜の身体を容赦なく包み込む。彼の口から苦悶の声が漏れた。


「蓮夜さん!」


 火柱が収まった後、蓮夜の身体がゆっくりと崩れるようにその場に倒れ込んだ。


「蓮夜さん!」


 駆け寄って彼の身体を抱き支える。

 その姿はこれまでの、絶対的な強さを誇っていた大妖とは似ても似つかない、ひどく脆く頼りない姿だった。


「……雛子……」


 かすれた声で、蓮夜が私の名前を呼ぶ。けれどその目はもう、半分しか開いていない。


「蓮夜さん、目を開けて……お願い……!」


 肩を揺すっても反応が徐々に薄れていく。これまで感じてきた彼の霊力の存在感が急速に弱まっていくのが、はっきりとわかった。


「……これで終わりだ」


 赫々の声が満足げに響いた。


「もう其奴の魂は生死の境を漂っている。あとは時間の問題だ」


 その言葉に絶望が胸の奥に広がっていく。けれど――。

 その瞬間、自分の胸の奥、刻印が刻まれた首筋の辺りから、奇妙な感覚が湧き上がってきた。

 まるで彼の魂と自分の魂がまだ繋がっているという感覚。これまで何度も淹れてきた、あの茶の儀式の感覚に近い。あの時、彼の乱れた力を自分の霊力が調律していた。それと同じ繋がりが今、もっと深い場所で確かにまだ機能している。


「……蓮夜さんを、まだ助けられる」


 声に出して自分に言い聞かせる。意識を集中させ、彼の額に自分の額をそっと合わせた。

 その瞬間――視界が一気に暗転した。

 目を開けると、そこはこれまでに見たことのない不思議な空間だった。

 星のない深い闇の中に、ぼんやりとした光が点々と浮かんでいる。まるで誰かの「内側」に迷い込んでしまったような感覚があった。

 近くに浮かぶ光の一つに何気なく視線を向けた瞬間――。

 その光がふわりと像を結んだ。

 江戸の町並みが見えた。瓦屋根の連なる低い建物の群れ。提灯の灯りがぽつぽつと夜道を照らしている。その町の一角に、まだ若い――いや、若い姿をした蓮夜が社の前にただ一人、座っている姿があった。誰も彼に近づかない。誰も彼に言葉をかけない。ただ彼はその場所で、長い長い夜をひたすらに見守り続けていた。

 光景は移り変わっていく。

 町並みが少しずつ姿を変えていった。瓦屋根が煉瓦造りの建物に変わり、提灯の灯りがガス灯の光に変わり、やがてネオンの輝きへと変わっていく。けれどその変遷の中で、ずっと変わらないものが一つだけあった。

 社の前に一人座る蓮夜の姿だけは、何百年経っても変わらずそこにあった。


「……これが、蓮夜さんの見てきた時間」


 別の光に視線を向ける。そこには地震で崩れていく町並みが見えた。蓮夜が両手を広げ、崩れる建物の下から必死に人々を守ろうとしている姿。煙と瓦礫の中で彼は誰にも気づかれず、ただ力を使い続けていた。

 また別の光。炎に包まれる夜の町。蓮夜が燃える街の中心に立ち、結界を張り続けている。その表情には絶望に近い深い疲労が浮かんでいた。それでも彼は最後までその場を離れなかった。

 光景の一つ一つが、彼の孤独な歴史そのものだった。

 どれだけ多くの人々を守ってきても、彼自身を誰かが守ったことは一度もなかった。どれだけ長くこの都市の安寧を願っても、誰も彼に「ありがとう」と言わなかった。

 胸がぎゅっと締めつけられる。


「……雛子?」


 声が聞こえた。振り返ると、少し離れた場所に蓮夜の姿があった。

 だがこれまでの彼とはまったく違う。傷もなく強大な力の気配もない、ただの孤独な一人の存在のような姿だった。記憶の中で見たあの社の前に座る姿と、今ここに立つ姿が不思議なほど重なって見える。


「蓮夜さん。ここはどこですか」

「俺の、内側の世界なのだろうな」


 蓮夜はひどく静かな声で答えた。


「お前の繋がりが、俺の意識の最も深い場所まで届いたのかもしれない」

「それって……」

「ここでお前と話せるなら――伝えなければならないことがある」


 蓮夜の声がこれまでにないほどはっきりと、真摯な響きを帯びていた。


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