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21.「蓮夜は必ず動く」

 突然、リビングの窓ガラスが轟音と共に内側へ向かって、完全に砕け散った。

 無数のガラスの破片が灯りを反射しながら、きらきらと空中に散らばる。その一粒一粒がまるで時間が止まったかのように、ゆっくりと視界の中を漂って見えた。


「きゃ……っ!」

「雛子!」


 蓮夜の声が、悲鳴のように響く。

 砕けた窓から濃密な闇が、まるで堤防を破った濁流のように室内に押し寄せてきた。

 それは単なる「気配」というレベルのものではなかった。空気そのものが黒く染まり、肺に入る息が急に重く、苦く感じられる。畳の上を這うように広がるそれは、まるで無数の蛇が絡まり合いながらこちらに向かって流れ込んでくるようだった。

 影月が咄嗟に私の前に、両手を広げて立つ。彼の身体から放たれた薄墨色の守りの糸が、結界のように私の周囲に広がった。

 けれど――。

 その糸は闇に触れた瞬間、まるで火に投げ込まれた紙のように一瞬で焼き切れた。


「影月さん……っ」

「瀬戸様、お逃げ……!」


 影月の声が途中で不自然に途切れた。

 闇の中から伸びた無数の黒い手のようなものが、彼の身体を四方からぐいと引き寄せる。彼の足が畳の上をずるずると引かれていく音が、はっきりと聞こえた。

 逃げようとした足がもつれた。何かに足首を絡め取られている。見下ろすと、闇そのものがまるで生きた縄のように私の足首に、ぴったりと巻きついていた。

 冷たい。

 氷を直接肌に押し当てられたような、痛みを伴う冷気。


「離して……!」


 もがいても、その縄は緩まない。むしろもがくほどに、さらに強く締まっていく。


「雛子!」


 蓮夜がこちらに飛びかかるように駆け寄ってくる。その手が私の手首に、ぎりぎりのところで触れた。

 指先と指先が確かに絡み合った瞬間――。

 蓮夜の足元の床に、見たこともない赤黒い紋様がぱっと爆発するように広がった。


「これは……っ」


 蓮夜の動きが唐突に止まった。

 まるで全身に見えない鉄の鎖が一瞬で巻きついたように、彼の身体がぴくりとも動かなくなる。掴んでいたはずの私の手首から、彼の指の力がすっと抜けていった。


「何だ……?」

「あらかじめ、仕掛けておいた」


 窓の外、闇の中から響く燃えるような声が、嘲るように笑った。


「お前が女に気を取られ力が緩む瞬間を狙って、神の力を封じる古い術を発動させてもらった。これで、お前はしばらく指一本動かせない」

「貴様……っ!」


 蓮夜が力を込めて抵抗しようとする。額に青筋が浮き、首筋に汗が一気に滲んだ。

 けれど彼の身体はまるで石化したように、その場からまったく動かない。


「蓮夜さん……!」


 その間にも闇の手は容赦なく、私の身体を室内の外へと引き寄せていく。

 畳から足が浮き、視界がぐるりと回転した。窓枠の砕けたガラスの破片が、すぐ近くを通り過ぎる。


「雛子!待て、待ってくれ……!」


 蓮夜の声が、これまでに聞いたことのない必死な響きを帯びていた。彼の伸ばした手が、わずか数センチの距離で私の手に届かない。その指先が空を切る。


「離して……!」


 必死にもがいたけれど、闇の力はあまりにも強く、抗うことができなかった。

 視界の端に、割れた窓の輪郭が急速に遠ざかっていくのが見える。光と闇の境界線が、まるで水面に飲み込まれるように急速に狭まっていった。


「蓮夜さん……!」


 最後に見えたのは、罠に縛られたまま必死に、もう一度手を伸ばそうとする蓮夜の姿だった。これまで絶対的な強さしか見せてこなかった彼が、今初めて何もできずに、ただ私の名前を呼んでいる。

 彼の口の動きが、声にならない「雛子」という形を何度も繰り返していた。

 その光景を目の奥に焼き付けながら――。

 私の意識は完全に、闇の中へと引き込まれていった。


 ☆


 目を覚ますと、そこはこれまで見たどの場所とも違う、異質な空間だった。

 炎のような赤い光が四方の壁から絶えず揺らめいている。

 空気は焦げたような匂いを帯びて、肌をじりじりと焼くように熱い。手足には見えない力で縛られたような、重い感覚があった。


「目が覚めたか」


 声と共に、揺らめく赤い光の奥から一人の男の姿が、ゆっくりと歩み出てきた。

 背丈は蓮夜よりも頭一つ分高い。全身に黒く焦げたような色合いの衣を纏い、歩くたびにその衣の裾から小さな火花が零れ落ちる。

 髪は燃える炭のような深い赭色。風もないのに絶えずその先端だけが、ちろちろと炎のように揺れていた。

 そして何より、その双眸――瞳そのものが完全な、燃えるような赤だった。瞼を開けるたびに、まるで炉の蓋を開けたように、熱気がこちらの肌までじりじりと伝わってくる。

 蓮夜と同じく一見人間に近い姿をしているけれど、その輪郭の奥には絶えず炎そのものの気配が、ちらちらと揺れ続けていた。人の形を無理やり内側から、燃え上がる力で押さえ込んでいるような、そんな印象だった。


「……私をどうするつもりですか」

「どうもしない。お前はただ、ここにいてくれればいい」


 赫々と名乗ったその男は、面白がるような表情で私を見下ろした。


「お前を人質に取れば、蓮夜は必ず動く。それだけで十分だ」

「蓮夜さんはあなたに、何をしたんですか」


 思わず尋ねた。これだけの憎悪を向けるからには、何かしらの深い理由があるはずだった。


「……知らないのか。お前の番が何者であるか」


 赫々は嘲るように、笑みを浮かべた。


「かつてこの地には、複数の守護神がいた。俺もその一人だった。だが蓮夜は、より強い力で俺たちの『座』を次々と奪っていった。今のあいつの地位は、奪い取ったものに過ぎない」

「それは……」


 赫々の声に、わずかな苦みが混じった。


「お前は知っているか。蓮夜がお前を、どういう存在として扱おうとしていたか」

「……どういう意味ですか」

「お前を自身の力を継ぐための『器』にする計画だ」


 その一言に、頭が真っ白になった。


「神の力というのは、永遠に保てるものではない。蓮夜の力も徐々に、その根源を消耗している。あいつはいつか、自身の存在そのものを誰かに『継承』しなければならない」

「……そんな」

「お前という、極上の霊力体質を持つ人間が、その『器』として最適だったのだろう。お前に自分の力をすべて注ぎ込み、お前を新しい守護神としてこの地に残す。そして――あいつ自身は消える」


 その瞬間、これまでの蓮夜の言葉がすべて別の意味を持って、頭の中で繋がり始めた。

『お前が望む「平穏」を、この俺が作り変えてやる』

 あの言葉は、自分が一緒に未来を作るという意味ではなく――自分が消えた後も、私が「平穏に」生きていけるよう、力の継承先として私を整えようとしていた、ということだったのか。


「……嘘だ」


 声が震えた。


「蓮夜さんは私を、対等な番だって言ってくれました」

「それは最近の話だろう」


 赫々は容赦なく、その動揺を突いてきた。


「お前を見つけた当初、蓮夜の本当の目的は自分の消滅と、後継者の育成だったはずだ。それが途中で感情に変わったのかもしれない。だが、最初の計画自体がそれだったことは変わらない」


 信じたくなかった。

 けれど、これまでの蓮夜の不器用な言葉や時折見せた深い孤独の色――それらがすべて一つの仮説に、嫌な説得力を持って繋がっていく。


「もしお前が、奴の力を引き継ぐことになれば――それは人間としての生を完全に終わらせることと、同義だ」


 赫々の声が低く、決定的な響きで告げた。


「お前はそれでも、あいつを選ぶか」


 その問いに、私はすぐには答えられなかった。

 胸の奥で、これまで積み重ねてきた彼との時間の温かさと、今聞かされた残酷な真実が、激しくせめぎ合っていた。

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