20.「物理的な空間」
「蓮夜様!」
扉を蹴破るように、影月がリビングに駆け込んできた。その顔には、これまで見たことのないはっきりとした焦りが浮かんでいる。
「結界の外側を完全に塞がれました。現世への出入りがすべて断たれています」
「……何だと」
蓮夜が窓際から、鋭い視線を影月に向けた。
「敵はどの規模だ」
「正確な数はまだ掴めておりません。ですが、感じる気配の質からして……古参の大妖クラスが複数、関わっているものと思われます」
その報告を聞きながら、私は窓の外に広がる光景を改めて見つめた。
先ほどまでは街の灯りの上に、不気味な黒い雲のような気配が覆いかぶさっているだけだった。
それが今、その様相はまったく違う。建物の周囲全体が、目に見える濃い闇に完全に取り囲まれている。窓の外に見えるはずの夜景の光が、今はほとんど見えなくなっていた。
「現世の景色が……」
「見えなくなっているな」
蓮夜が低く呟いた。
「敵はこの建物と、現世との繋がりそのものを断ち切るつもりだ。物理的な空間としてはまだここは東京の一角にある。だが結界の上では、もうここは『常世の深部』に近い場所になっている」
「それって……」
「逃げ場がないということです」
影月の声が、これまでにないほど深刻な響きを帯びていた。
ふと建物全体が、低く重く軋むような音を立てた。窓ガラスが内側からじわじわと何かに圧されているように、わずかに歪んでいるのが見える。
「結界が押されてます……」
「ああ。これまでの『探り』とは規模が違う」
蓮夜は窓の方へ歩み寄り、外を覆う闇をじっと見据えた。
「俺がこの都市を守るために張ってきた結界の、根本的な強度を真正面から試そうとしている。生半可な力では、この攻めを長くは支えきれない」
その言葉に、背筋がすっと冷たくなった。これまで蓮夜の力は絶対的なものだと思っていた。
それが今、初めて「支えきれない可能性」として語られている。
「蓮夜さん、私に何ができますか」
声を出すと、思っていたよりも震えていた。
「今は何もしなくていい」
蓮夜は私の方を振り返ると、これまでにないほどはっきりとした強い意志を込めた目で、私を見つめた。
「お前はただ、ここにいてくれ。俺がこの結界を支える限り、お前は安全だ」
「でも……」
「頼む」
その一言に、いつもの傲慢な命令とは違う、確かな懇願の響きが混じっていた。
「今だけは、俺の言うことを聞いてほしい」
蓮夜の声に、これまで聞いたことのないわずかな焦りと不安が滲んでいるのを、はっきりと感じた。
窓の外の闇が、さらにじわじわと濃くなっていく。
建物を取り囲む圧力は、もう誰の目にも明らかな、本格的な「侵攻」の形をとり始めていた。
先ほどまで二人だけの温かな時間が流れていたはずのこの部屋が、今、確かに――戦場へと変わり始めていた。
☆
「下がっていろ」
蓮夜が両手を肩の高さまで上げた。
その瞬間、彼の足元から墨を流したような黒い文様が畳の上に放射状に広がっていく。
文様は見たことのない古い文字の連なりのようで、触れた畳の表面がじわりと焦げたような跡を残しながら、淡く発光し始めた。
和服の袖が内側から吹き上げる風に煽られてはためく。
彼の長い黒髪――いつもは結ばれているそれがほどけて、まるで意志を持つように逆立つように浮き上がった。
瞳の色はすでに深い金色に染まりきっている。けれどその金色は、これまで私が見てきた余裕のある輝きとは違う。瞳孔の奥に、もっと白く激しい光がちらちらと点滅していた。
「影月、雛子を頼む」
「承知しました」
影月が私の前に回り込み、両手を交差させる。彼の指先から伸びた薄墨色の糸のようなものが私を包むように、すうっと空中に広がっていった。
次の瞬間――。
窓の外を覆っていた闇の壁が一斉に爆ぜた。
ガラスの破片が飛び散るより先に結界そのものが、まるで分厚いゴムの膜を内側から殴られたようにぐにゃりと内側に向かって歪んだ。
空気が肺の中まで圧し潰されるような重い圧力で、一瞬震えた。
「来るぞ」
蓮夜が低く呟いた直後、闇の中から無数の黒い「爪」のようなものが突き出された。
一本一本が人の腕ほどの太さを持つ、鋭利な影の槍。それが十、二十と結界の表面を、ガラスを引っ掻くような耳障りな音を立てながら何度も何度も突き刺してくる。
蓮夜が両手を扇のように広げた。彼の手のひらから放たれた銀色の光の帯が空中で無数の弧を描き、迫りくる影の槍を片端から切り裂いていく。
切られた影は断面から煙のような飛沫を上げて霧散していった。けれどその数は減ったように見えない。むしろ切られた一本の影から二本、三本と増殖するように、新しい槍が生まれていく。
「面倒な増え方をする」
蓮夜が舌打ちのような声を上げた瞬間、結界の右側面にひときわ大きな衝撃が走った。建物全体が軋み、私の足元の畳がはっきりと振動した。
「結界が削られてます……!」
影月の声が緊迫した響きを帯びる。
蓮夜は右手をその方向に向けた。手のひらの中心に急速に光の粒子が収束していく。まるで極小の太陽が彼の手の中に生まれるような、眩い輝きだった。
「散れ」
短い一言と共にその光が放射状に爆ぜるように解放された。
光は結界の右側を圧迫していた巨大な影の塊――おそらく上位の妖の一体――を直接撃ち抜いた。
けたたましい悲鳴のような音が空気そのものを震わせながら響き渡る。影は断末魔の声を上げながら、急速にその輪郭を崩していった。
一体、減った。
けれど蓮夜の額にはすでに、はっきりとした汗の粒が浮いていた。
彼の呼吸はわずかに乱れ始めている。これだけの規模の力を絶え間なく解放し続けることが彼にとっても決して容易ではないということが、その息遣いだけで痛いほど伝わってきた。
「これは……数が多すぎます」
「影月、お前の見立ては?」
「最低でも十体以上の上位の妖が結界を取り囲んでいます。蓮夜様一人ですべてを相手にするのは……」
「やるしかない」
蓮夜は迷いなくそう言い切ると、再び両手を前方に押し出した。
戦いは何分にも、何十分にも感じられる時間続いた。
結界の外側から押し寄せる影は波のように一度引いては、またより強い圧力で押し返してくる。
蓮夜はその都度、光の刃を放ち結界の歪みを力で押し戻していった。攻撃を一つ防ぐたびに彼の動きはわずかに、確実に鈍くなっていく。
最初は流れるように繋がっていた一連の動作が徐々に一つ一つ、区切れるようになっていった。光を放つ間隔が長くなる。手のひらに収束する光の粒子も最初の眩さに比べて、少しずつ輝きを失っていく。
「蓮夜さん、大丈夫ですか……!」
「問題ない」
その言葉が嘘だということは、もう一目見ればわかった。彼の足がわずかによろめいた。膝がほんの一瞬折れそうになる。それでも彼はすぐに姿勢を立て直し、再び両手を構える。
その時、闇の奥からひときわ強い気配がこちらに向かって響いてきた。
空気の温度が急激に上昇する。
窓の外を覆っていた黒い闇のちょうど中心あたりに、二つの燃えるような赤い光がゆっくりと浮かび上がった。
それは瞬きをするように一度すっと細くなり、また大きく見開かれる。まるで闇そのものに巨大な瞳が埋め込まれているようだった。
その光が動くたび、結界のガラスの表面はじわりと熱を持って薄く曇っていく。
「神薙蓮夜。久しいな」
声だけがまず届く。低く燃えるような熱を帯びたその声に、これまで結界の外側で蠢いていた影たちの動きが一瞬ぴたりと止まった。
まるでその声の持ち主がすべての指揮を執っているのだと、はっきり示すかのように。
「……お前が首謀者か」
蓮夜の表情がこれまでとは違う、はっきりとした険しさで固まった。
「そうだとも」
窓の外の闇の中、その赤い光が二つ揺れる。まるで業火の中で何かが瞬きをしているような不気味な動きだった。
「お前から神の座を奪われた者の名誉を、ようやく返してもらう時が来た」
「下らない、過去の話だ」
「お前にとっては下らないだろうな。だが俺にとってはすべてだった」
その声には蓮夜への明確な憎悪が滲んでいた。
「お前の力の根源がたかが人間一人だと知った時、これほど愉快なことはなかった。その人間をこちらが手にすれば――お前はどう動く?」
その言葉にぞくりと背筋が冷えた。
「貴様の狙いは……」
「お前に神としての力をすべて捨てさせることだ」
炎のような声がはっきりと宣言した。
「番に気を取られ、力を解放できなくなったお前など、もう俺の敵ではない」
蓮夜の表情に初めて明確な苦悩の色が浮かんだ。両手はまだ構えられたままだったけれど、その指先がわずかに震えているのが見える。
敵の狙いは単純な力の衝突ではなかった。私という存在そのものを彼の最大の弱点として利用しようとしている。
「雛子は渡さない」
蓮夜がはっきりと声を上げた。その声にはこれまでにない強い焦りが滲んでいた。
その瞬間、結界の外側を覆う闇全体が一斉に息を吸い込むように密度を増していく。何か、もっと大きな一手がこれから放たれようとしているのが肌で感じ取れた。
守るべき存在がいるということは強さであると同時に――今、確かに彼にとって最大の枷にもなっていた。
窓の外の闇がさらに圧を増していく。
この戦いの行方がまだまったく見えなかった。




