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19.「本格的に」

「……礼を言わせてくれ」


 頬に触れていた蓮夜の手が、そのまま私の輪郭をそっとなぞるように動いた。


「礼、ですか」

「お前が俺の傍にいることを選んでくれたことに、感謝の言葉を伝えるべきだと思った」


 蓮夜の声には、いつものような傲慢さも支配的な響きも、まったく感じられない。ただ不器用で、まっすぐな声だった。


「俺はこれまで、長い時間を一人で生きてきた。誰かに何かを与えられることに、慣れていなかった」

「……蓮夜さん」

「お前が淹れる茶も、お前が作る飯も、お前が傍にいるというただそれだけのことも――俺にとっては、すべてが初めて知る種類の温かさだった」


 その言葉の一つ一つが、まるで長く凍りついていた何かがゆっくりと溶けていくように、静かに伝わってくる。


「ありがとう、雛子」


 名前を呼ばれたのは初めてだった。

 これまで彼は、私のことをただ「お前」とだけ呼んでいた。その呼び方の変化だけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられるように熱くなる。


「……どういたしまして」


 うまく言葉が出てこなくて、それだけしか返せなかった。けれど蓮夜はそれで十分だというように、小さく笑った。

 蓮夜の手が再び、私の頬に触れる。今度は確かな意志を持って、私の顔をゆっくりと上向かせた。

 近づいてくる距離。提灯の灯りに照らされた彼の瞳が、すぐ目の前にある。


「お前の魂は、本当に甘い」


 囁くような声。彼の顔がゆっくりと近づいてくる。


「今は俺自身が、お前を欲している」


 その言葉を最後に、二人の唇が静かに触れ合った。

 柔らかく、けれど確かな熱を伴った感触。

 その瞬間、私の中に流れる霊力が彼の唇を通して、わずかに彼の方へと流れていくのを感じた。

 それは奪われるという感覚ではなく――まるで互いの何かを自然に交換し合っているような、不思議な一体感だった。

 ゆっくりと唇が離れる。

 近すぎる距離で、見つめ合う二人の間に、これまでにない深い静寂が流れていた。


「……雛子」

「はい」

「お前を、本当に手放したくない」


 その言葉に応えるように、私はもう一度彼の方に身を寄せようとした。

 けれど――。

 次の瞬間、マンション全体が激しく揺れた。


「な……っ」

「これは……!」


 蓮夜の表情が一瞬で、鋭く張りつめる。

 窓の外を見ると、これまでに見たことのない規模の巨大な妖気が、まるで黒い雲のようにマンション全体を包囲し始めていた。空気がずん、と重く沈み込み、結界そのものが軋むような音を立てている。


「これ、前までのとは……」

「違う。本気だ」


 蓮夜の声が、これまでにないほど緊張を帯びていた。


「奴ら、本格的に動き出した。お前を狙う敵が今、ここに総力を挙げて押し寄せてきている」


 先ほどまでの温かく満たされた時間が、まるで嘘だったかのように、一瞬で緊迫した空気に塗り替えられていく。

 窓の外、夜景の灯りを覆い隠すように広がっていく黒い妖気を見つめながら、私はようやく理解した。

 幸福だったはずのこの静かな時間は――もう終わりを迎えようとしているのだと。


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