18.「聞こえていた」
祭りの夜から数日後、私は影月と一緒に近くの神社の境内を歩いていた。蓮夜の指示で、近隣の結界を点検するためだ。
「影月さん、少しあちらのベンチで休んでもいいですか」
「ええ、構いません。私はその間に向こうの祠を見てきます」
影月が少し離れた場所へ向かうのを見送り、私は境内の隅にあるベンチに腰を下ろした。秋の気配が少しずつ近づいているのか、足元には早くも色づいた葉がぽつぽつと落ちている。
ふと、風が強く吹いた。
季節外れの強さで辺り一面の枯れ葉を巻き上げながら、その風はまるで何かの意志を持つように、私の周りを巡る。
「……驚かせたか」
風が収まると同時に、ベンチの隣に一人の人物がいつの間にか腰を下ろしていた。
その姿は不思議だった。
老人のような深い皺の刻まれた顔をしているようにも見えるし、視点を変えると、まるで若者のような滑らかな肌を持つようにも見える。常にその周囲には、はらはらと枯れ葉が舞い続けていた。
「あなたは……」
「禍風という。お前の番――蓮夜のことを長く知る者だ」
その名前を聞いた瞬間、警戒心が湧いたけれど、彼の纏う気配には、これまでに会った悪意ある妖たちとはまったく違う種類の落ち着きがあった。
「蓮夜さんの知り合いの方……ですか」
「知り合いというよりは。彼がまだ『守護神』としてこの地を守っていた頃を知っているだけだ」
禍風は視線を遠くの空に向けたまま、静かに続けた。
「お前のことは聞いている。蓮夜の番として」
「……何か御用ですか」
「忠告をしに来た」
禍風の声には敵意も悪意も感じられなかった。むしろ達観したような、ひどく中立的な響きだった。
「蓮夜はいつか、お前を壊す」
その一言に、思わず息を呑む。
「……どういう意味ですか」
「神の力というのは、人にとって毒だ。彼の傍に長くいればいるほど、お前の魂は人としての形を保てなくなっていく」
「でも、蓮夜さんは私を守ってくれて……」
「守るというのは、表向きの言葉だ」
禍風はゆっくりと、私の方に視線を移した。その瞳の奥には、長い時間を生きてきた者だけが持つ深く静かな憂いが揺れていた。
「あやつは、お前の魂が放つ甘さにすでに依存している。その依存は年月を経るごとに、お前の存在そのものを彼の都合の良いように変質させていくだろう。お前が人として生きていく上で必要な部分――孤独や迷いや揺らぎ――それらを、彼は恐らく無意識に削ぎ取っていく」
「そんな……」
「悪意があってのことではない。あやつ自身、それに自覚的でないだろう。だが神という存在は、ただ傍にいるだけで人を変質させる。それは自身の意志とは別の次元の話だ」
風が再び静かに辺りを舞った。落ち葉が足元に、はらはらと積もっていく。
「お前が奴と一緒にいるということは――いずれ、人間としての生を捨てることと同義だ」
その言葉は優しい口調で語られていたからこそ、なおさら重く胸に刺さった。
「……それでも、私は」
声が震えそうになったけれど、私は何とか言葉を続けた。
「それでも今、私は彼の傍にいることを選びたいと思ってます」
禍風はしばらく何も言わずに、私を見つめていた。
「……今はそう思うかもしれない」
彼はゆっくりと立ち上がり、再び辺りに風を纏わせた。
「だがいつか、選ばなければならない時が来る。その時お前が本当に何を選ぶのか――それを私は、ただ見届けたいと思っている」
言い終えると、禍風の姿は巻き上がる枯れ葉と共に、ふっと空気に溶けるように消えていった。
残された私はしばらくベンチに座ったまま、動けなかった。
胸の奥に初めての種類の、重い不安が静かに根を張り始めていた。
彼との未来は、本当に幸福なだけのものなのだろうか。
その問いに、まだ私は明確な答えを持てていなかった。
☆
マンションに戻ってからも、禍風の言葉が頭の中で繰り返し響いていた。
「人としての生を、捨てることと同義だ」
その言葉の重さをどう処理すればいいのか、まだうまく整理できていない。事務職として何でも仕分けて優先順位をつけることが得意だったはずの私が、この感情だけはどうしても、きちんと「分類」することができなかった。
夜、蓮夜がまだ書斎で仕事をしている間に、私は一人、リビングの窓際に立っていた。窓の外にはいつもと変わらない、東京の夜景が広がっている。
「……壊れるなら、それでもいい」
声に出すつもりはなかった。自分の中で渦巻いていた答えが思わず口からこぼれ出てしまった。
人間として平凡な毎日を続けるはずだった私が今、こんなに揺れているのは……たぶん、もう答えが決まっているから。
禍風の警告は確かに重く、本物の不安として胸に残っている。けれど、それでも――。
「壊れるとしても、私は蓮夜さんと一緒にいる道を選びたい」
それが、自分の中でようやく固まった答えだった。彼の傍にいることでいつか人間としての何かを失うのだとしても。今、この瞬間に感じている彼との時間の温度を、私は手放したくないと思った。
「……それは、本気の言葉か」
唐突に響いた声に心臓が跳ねた。
振り返ると書斎の方から出てきたらしい蓮夜が、いつの間にかすぐ後ろに立っていた。その表情には、これまでに見たことのない緊張のようなものが滲んでいる。
「……聞いてたんですか」
「聞こえていた」
蓮夜は隠す様子もなく、はっきりとそう告げた。
「禍風がお前に接触したことは、影月から報告を受けていた。あの男が何を言うかも、おおよそ想像はついていた」
「……それなら、なんで止めてくれなかったんですか」
「お前が自分の意志で答えを出す機会を、奪いたくなかった」
蓮夜の声には、これまでの傲慢な余裕とは明らかに違う、繊細な緊張が混じっていた。
「お前がもし人としての生を望むなら――俺はその願いを、尊重するつもりだった」
その言葉に、思わず息を呑む。これまで契約は一生だと有無を言わせず宣告してきた蓮夜が、今初めて、私の選択そのものを「尊重する」と言っている。
「……でも、私の答えはもう決まりました」
私はまっすぐに、蓮夜の目を見つめた。
「壊れるとしても、私はあなたの傍にいたいです。これは契約だからとか、逃げられないからとか、そういう理由じゃありません」
声が震えそうになったけれど、最後まで、はっきりと言い切った。
「私が、自分の意志で選びたいんです」
蓮夜はしばらく言葉を失ったように、私を見つめていた。その瞳の奥に、これまで見たことのないひどく脆そうな光が揺れているのが見えた。
「……お前は」
絞り出すような声で、蓮夜はようやく言葉を続けた。
「俺にとって、もうただの『道具』でも、『所有物』でもない」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「お前は、俺が対等に並び立ちたいと願う――唯一の存在だ」
蓮夜の手がゆっくりと伸びてきて、私の頬に触れた。これまでの支配的な触れ方とはまったく違う、慎重で繊細な動作だった。
「これは命令ではない。だから、お前が嫌だと言うなら、今退く」
その言葉に、私は首を横に振った。
「嫌じゃ、ないです」
窓の外の夜景の灯りが、二人の間の距離を淡く照らしていた。
その瞬間、これまでの「強制された関係」という前提が静かに、確かに別の何かへと変わっていくのを、私ははっきりと感じていた。




