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17.「質が悪い」

「今夜、付き合え」


 夕方、社長室に呼ばれた私に、蓮夜はいつものように、有無を言わせない口調でそう告げた。


「付き合うって、何にですか」

「視察だ。近くの神社で今夜、夏祭りが開かれている。人間界の祭りに不審な妖が紛れ込んでいないか、確認する必要がある」

 あくまで「業務」という体を崩さない言い方に、思わず苦笑してしまう。最近、こういう言い回しが彼の中で、何かを誘う時の常套句になっている気がする。


「視察、ですか」

「そうだ。お前も同行しろ。霊視の力があれば、結界の異常に気づきやすい」

「……はい、わかりました」


 完全に見抜いていたけれど、それを指摘するほど野暮なことはしたくなかった。

 蓮夜はまったく揺るがない様子でも、その目元にわずかな照れのようなものが、見え隠れしている気がした。

 その日の夜、私は影月から手渡された淡い水色の浴衣に袖を通した。涼やかな金魚の柄が裾にひらひらと揺れている。鏡に映った自分の姿が、いつものベージュやグレーの服とはまるで違って、少しだけ気恥ずかしかった。

 マンションのロビーで待っていた蓮夜はいつもの和服――今夜は深い紺色の浴衣に、銀糸の入った帯を締めている。長身に纏う浴衣姿は、いつもの着物以上に、どこか人間界に「紛れ込んでいる神様」という雰囲気を強めていた。


「……その格好、よく似合っている」


 蓮夜は私を見て、一瞬、目を見開いた。それから素直すぎる感想を口にしてから、自分の言葉に気づいたのか、すぐに視線を逸らした。


「あ、ありがとうございます。蓮夜さんも、すごく似合ってます」


 そんな何気ない会話だけで、なんだか胸の奥がふわりと温かくなる。

 神社へ向かう道はすでに提灯の灯りと、浴衣姿の人々で賑わっていた。屋台から漂う焼きとうもろこしや、りんご飴の甘い匂い。太鼓の音が夜の空気に響いている。


「すごい人ですね」

「離れるな」


 蓮夜がふと、私の手を取った。指先が絡まるように自然な動作で握られたその手に、思わず心臓が跳ねる。


「な……っ」

「視察中は、はぐれないようにするのが原則だ」

「視察、ですもんね。離れたら困りますよね」

「そうだ」


 あくまで「視察」という建前を崩さない蓮夜に少しおかしさを感じながらも、私はその手を握り返した。

 その手の温かさと、しっかりと絡められた指の感触に、抵抗する気はいつの間にかなくなっていた。

 人混みの中、二人で並んで歩く。蓮夜は屋台に並ぶ食べ物に、いちいち興味を示した。


「これは何だ」

「りんご飴ですよ。りんごに飴をかけてあるんです」

「こんな無駄に手の込んだ食べ物が、人間界にはあるのか」

「無駄って言わないでください。美味しいんですから」


 りんご飴を一つ買って、二人で分けながら歩く。

 蓮夜が最初は怪訝な顔で口にしたそれを、すぐに「悪くない」と呟いたのがなんだか可愛らしくて、思わず笑ってしまった。

 手を繋いだまま参道を歩く。提灯の灯りと出店の賑わいの中、私たちはまるで普通のカップルのように夜の祭りを歩いていた。

 ときおり蓮夜は足を止めて結界の状態を確かめるように、視線を巡らせた。私も自分の力で辺りの気配を探ってみる。確かにいくつかの軽い妖の気配はあったけれど、特に異常はなさそうだった。

 神社の境内に着くと、ちょうど花火が始まる時間だった。境内の外れ、少し人の少ない場所を見つけて二人で並んで腰を下ろす。


「視察の成果は?」

「……特に異常はないようだ」

「よかったです」


 夜空に大きな花火が、次々と咲いていく。色とりどりの光が瞬いて、消えていく。

 その光に照らされた蓮夜の横顔を、私はつい見つめてしまっていた。


「……なんだ」

「いえ、なんでもないです」

「言え」


 視線が逸らせなくて、私は思わず本当のことを口にしてしまった。


「花火の光に照らされた蓮夜さんが、すごく綺麗だなって思ってました」


 その言葉に、蓮夜は一瞬、息を止めたように動きを止めた。それからゆっくりと、私の方に向き直る。


「そうだな、美しい花火だ。だがそれ以上にお前の方が、よほど俺の目を惹きつける」


 花火の光を背に、蓮夜の手が私の頬にそっと触れた。


「霊力の輝きの話じゃない。今のお前そのものが、だ」


 心臓がいつもとは違う速さで、強く脈打つ。逃げ場のない距離で、蓮夜の瞳がまっすぐに私を見つめている。

 花火の音が夜空に響く。その光と音に包まれながら、私たちはしばらくお互いの視線を逸らせないまま、ただ静かに見つめ合っていた。

 これはただの「視察」のはずだった。

 けれど、今この瞬間だけは――誰がどう見ても間違いなく、二人だけの、ただの恋人同士の夜だった。


 ☆


 花火が終わった後、私たちは人混みの中をゆっくりと帰路についた。

 祭りの後の境内は、まだ多くの人で賑わっている。屋台の灯りと笑い声と、太鼓の余韻。普通ならただの賑やかな夜の風景だ。

 一瞬、人混みの隙間、提灯の灯りが届かない暗がりに、ふと見慣れた輪郭の揺らぎが見えた。

 古い祭りの場には、人の願いや祈りが長年積み重なっている。

 そういう場所には自然と小さなあやかしたちが、好んで集まってくるものらしい。今夜も何体かの人懐っこい下級の妖が、祭りの賑わいに紛れて楽しそうに浮かれているのが見える。

 以前ならこういう光景を目にした瞬間、反射的に視線を逸らし、緊張で身体が固まっていたはずだった。

 けれど今夜は不思議と、怖さを感じなかった。


「……見えてるな」


 蓮夜が私の視線の先を追って、すぐに察したようにそう呟いた。


「はい。でもなんでか今日は、全然怖くないです」

「俺が傍にいる限り、あいつらはお前に手出しできない。それをもう、お前自身が体感として理解しているんだろう」


 その言葉に、思わず自分の胸の中を確かめてみる。確かにこれまでのような、心臓を握りつぶされるような恐怖はもう感じない。代わりにあるのは、ただ不思議な存在を少し離れた場所から眺めているような、穏やかな感覚だった。


「お前の視界が変わった」


 蓮夜がふと私の隣に、より一層距離を詰めて立った。


「俺の隣にいれば、お前の視界は俺のものだ」


 言いながら蓮夜の手が、私の頭をふわりと自分の肩の方に寄せるように引いた。視線の端に映る彼の肩越しに、祭りの灯りとその奥に浮かぶあやかしたちの姿が見える。


「……どういう意味ですか」

「お前が何を見ても、それは俺の許す範囲でのことだ。お前が怖いものを見ることも、お前が綺麗なものを見ることも――すべて俺の支配の中で起こることだ」


 あまりにも独善的な言い方だった。普通なら反発したくなる物言いのはずなのに、今夜はなぜかその言葉に、強く拒絶する気持ちが湧いてこなかった。


「……それ、すごく傲慢な言い方ですね」

「自覚はある」

「でも」


 私は蓮夜の肩に寄りかかるように、もう少しだけ体重を預けた。


「悪い気はしません」


 その一言に蓮夜がわずかに息を呑んだのが、肩越しに伝わってきた。


「お前は本当に、俺を煽るのが得意だな」

「煽ってるつもりはないですけど」

「だから余計に質が悪い」


 蓮夜の手が私の腰に回り、人混みの中、より一層私を自分の側に引き寄せる。

 周囲の喧騒も灯りも、あやかしたちの気配も――すべてが彼の腕の中という、小さな世界の外側の出来事のように遠く感じられた。

 提灯の灯りに照らされた境内を、二人で並んで歩く。視界に映るものすべてが彼を通して見えているような、不思議な一体感が胸の奥に静かに広がっていく。

 以前なら見えるということは、ただの呪いだった。

 今は――この「視える力」のおかげで、彼とこんな風に特別な何かを共有できているのだと、初めて素直に思えた。

 祭りの夜はまだ、ゆっくりと深まっていく。

 その夜の終わりまで、私たちは互いの視界を確かに分け合っていた。

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