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16.「ずっと楽しい」

「……身体の手当て、させてください」


 蓮夜が、座卓の脇にどさりと座り込んだ後、私は意を決してそう申し出た。


「いい。すぐに治る」

「治るまでの間、しんどいのは嫌ですよね。それに、放っておくのも不安なので」


 食い下がると、蓮夜は少し意外そうな顔をしたあと、渋々といった様子で頷いた。

 影月に頼んで、人間界の救急箱と清潔な布、それからお湯を入れた桶を、用意してもらう。

 蓮夜は着物の上半身を、肩からするりと滑らせるように脱いだ。


「……っ」


 思わず、息を呑んだ。

 露わになった肩から脇腹のあたりにかけて、赤黒い傷の痣が、いくつか刻まれている。

 そして、それ以上に目を引いたのは――その傷の周りに広がる彫刻のように無駄なく、引き締まった体つきだった。

 長く伸びた首筋から、鎖骨、肩、そしてその下に続く、しなやかでありながら、確かな厚みを持つ胸元。

 提灯の灯りに照らされたその肌は、なめらかで、まるで長い時間をかけて、丁寧に磨き上げられた一本の刀のような印象を、私に与えた。


「……何を、見ている」

「いっ、いえ、何も……!」


 慌てて視線を逸らしたけれど、湿らせた布を手に取った瞬間、また視界の端に、その体つきがちらりと映り込んでしまう。


「手が、止まっているぞ」

「止まってません!今、やります!」


 動揺を隠すように、勢いだけで、布を彼の肩の傷に押し当てた。


「……っ」


 蓮夜が、小さく、声を漏らす。


「す、すみません、痛かったですか?」

「いや。少し、冷たかっただけだ」


 その短い返事に、なぜかこちらの方が余計に落ち着かなくなる。傷に触れるたび、すぐ近くで彼の体温が、はっきりと伝わってくる。

 湯気の立つ布から、薄く彼の肌の匂いが漂ってくるのもなんだか、落ち着かない原因の一つだった。


「お前は、本当に、わかりやすいな」


 蓮夜が、ふと面白そうに、こちらを見下ろした。


「な、なにがですか」

「耳まで、赤くなっている」

「これは、お湯の、湯気のせいです!」


 苦しい言い訳をしながら、私はなんとか、手当ての作業を続けようとした。

 なのに布を持つ手が、わずかに震えているのが、自分でもはっきりとわかる。


「やりやすいようにもっと脱いでやろうか、と言いたいところだが――お前にそれを言うと、余計に緊張させてしまうかもしれないな」

「そういうこと、わざわざ、口に出さないでください……!」


 涙目になりながら抗議すると、蓮夜は堪えきれないように声を出して笑った。傷を負っているはずなのに、その笑い方だけはいつも以上に楽しそうだった。


「お前を揶揄うのは、思っていたよりずっと楽しい」

「楽しまないでください、今、手当て中です!」


 それでも、なんとか丁寧に、傷の周りを清め、軟膏を塗り、包帯を巻いていく。作業に集中しているうちに、ようやく少しだけ、平常心を取り戻すことができた。


「……これで、終わりです」


 巻き終えた包帯を、最後に軽く整える。


「ありがとう」


 蓮夜の声に、これまでの揶揄うような色は消え、代わりに静かな確かな感謝の響きだけが、残っていた。

 着物の袖を再び肩に通す蓮夜の姿を見ながら、私は密かに安堵の息を吐いた。

 手当ては無事に終わった。それなのに自分の中のまだ騒がしい心臓の音だけは、しばらく収まる気配がなかった。


 ☆


「瀬戸様。お探しのものが見つかりました」


 影月が古びた木箱を抱えて、私の机にやってきた。あの夜から数日、私は仕事の合間を見つけて、霊力に関する古い資料を探し続けていた。


「これは……」

「瀬戸様の家系に伝わる『霊視の眼』に関する記録です。蓮夜様の許可を得て、常世の書庫から取り寄せました」


 木箱を開けると、中には古い和紙に書かれた巻物が、いくつも収められていた。判読しづらい古語に苦労しながらも、私は、一枚一枚に目を通していく。

 多くは、霊視の力そのものについての記述だったけれど、ある一冊の中に、私の目を引く一文があった。

『霊視の血を継ぐ者の茶は、乱れた魂の波を鎮める。古来、神の依り代となる者は、この茶を以て、神を地に留めたという』


「……これ」

「何か、見つかりましたか」

「霊視の血筋の人間が淹れたお茶には、霊力を鎮める効果があるって、書いてあります」


 思わず声が上ずった。これが、私が探していたものかもしれない。


「ただの言い伝えではなく、ですか」

「わかりません。でも、試してみる価値はあると思います」


 その夜、蓮夜はまた別の小さな攻撃を受けて、霊力を消耗して帰ってきた。

 表面上は平然としていたけれど、座卓に座る彼の輪郭がわずかに、ぼやけて見える瞬間があった。霊力が乱れている時、私の目にはそういう「揺らぎ」が映るらしい。


「蓮夜さん。お茶、淹れますね」

「……いつもの、緑茶か」

「いえ、今日は、違うものです」


 巻物に書かれていた手順に従い、私は特別な茎茶と、家にあった数種の薬草――蓮夜が「常世から取り寄せたものだ」と言っていた乾燥した花弁を少しだけ加えて、ゆっくりと茶を淹れていく。

 湯気が立ち上るたび、自分の中に流れる何か特別な力のようなものが、お湯に溶け出していく感覚があった。


「これを、飲んでみてください」


 茶碗を差し出すと、蓮夜は少し怪訝な顔をしながらも、それを受け取った。


「妙な匂いがするな」

「効くかどうか、わからないので、無理しなくていいですけど」

「お前が淹れたものを、無下にするつもりはない」


 蓮夜は、ゆっくりと、茶を口に含んだ。

 その瞬間――。

 彼の輪郭の「揺らぎ」が、すうっと静かに収まっていくのがはっきりと見えた。乱れていた霊力の波が、まるで荒れた水面が静まっていくように、滑らかに整っていく。


「……これは」


 蓮夜が、自分の手のひらを見つめながら、驚いたように呟いた。


「霊力が、急速に安定している。これまで、霊薬の類いを使っても、こうはならなかった」

「効いてる、ってことですか」

「ああ」


 蓮夜は、もう一口、茶を口にする。それから、しばらく静かに目を閉じて、自分の内側の感覚を確かめているようだった。


「お前の霊力そのものが、俺の乱れた力を調律しているような感覚だ」

「……すごい。本当に、効果あったんですね」


 思わず笑みが溢れた。自分にも戦うこと以外で、彼の力を支えられる方法があった――それを確かめられたことが、なんだか、これまでで一番嬉しい瞬間だった。


「これからも、こうやって、霊力が乱れた時には、お茶を淹れます」

「……お前は本当に、俺にとって、ますます手放せない存在になっていくな」


 蓮夜の声にはこれまでのような、所有物を確認するような響きとは少し違う、もっと深く、根本的な依存の色が混じっていた。

 その変化に、私自身も、戸惑いながらも――どこかで、確かな喜びを感じてしまっていた。

 戦いの力はなくても、私には、これがある。

 彼の傍に、必要な存在として、立ち続けられる方法が確かにあった。


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