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14.「想定していたこと」

 あの夜から、半月が過ぎた。

 不思議なことに、蓮夜のマンションで暮らす日々に、少しずつ「慣れ」というものが生まれ始めていた。

 提灯の灯りに見慣れ、畳の匂いにも違和感を覚えなくなってきた。朝起きて着崩れた和服姿の蓮夜の肌はまだ直視出来ないけど。

 それよりも、もっと不思議な変化があった。

 以前は、あやかしを視認すること自体が、恐怖そのものだった。

 電車の中でも、街を歩いていても、視界の端に映る影や霧にいつも気を張り続けていた。

 けれど、蓮夜の傍にいる今、その恐怖が明らかに薄れている。

 彼の結界の範囲内――それはマンションの中だけでなく、彼自身が傍にいることでも、一定の効果を発揮するらしい――にいれば、下級の妖たちは、決して近づいてこない。

 視界に映ったとしても、それは、もう私を「狙っている」存在ではなく、ただの「景色」に近いものになっていた。

 代わりに、私の視線が向くようになったのは、別のものだった。

 たとえば、深夜、ふと目が覚めた時。隣で眠っているはずの蓮夜の姿が、見当たらないことがあった。

 その夜も、私は寝室を出てリビングの方へ向かった。

 窓際に、蓮夜が一人で立っていた。

 月明かりに照らされた彼の横顔は、いつものような傲慢さや支配的な雰囲気がすっかり消えていて、ただ静かに東京の夜景を見つめているだけだった。


「……蓮夜さん?」

「起こしたか」

「いえ、たまたま目が覚めて」


 彼の隣に立つと、窓の外には、変わらず街の灯りが広がっている。でも彼が見ているものは、その光景そのものではないような気がした。


「何を見てるんですか」

「……特に、何も」


 言葉とは裏腹に、その目には何百年分もの時間の重みのようなものが、静かに沈んでいる気がした。

 彼が、どれほど長く生きてきたのか。

 私には想像もつかないその長い時間の中で、彼が「孤独」というものと、ずっと向き合ってきたのではないか――そんな予感が、ふと胸をよぎった。

 以前なら、こんなことを考えることはなかった。蓮夜は、ただ恐ろしい、強大な存在。

 それ以上の感情を彼に向けることはなかった私の中に今、芽生えているのは、明らかに、別の種類の感情だった。


「蓮夜さんは、いつも一人で、こうして夜を過ごしてたんですか」

「……そうだな。誰かが、傍にいることなど、滅多になかった」

「寂しい、とか、思ったことは?」


 蓮夜は、少し意外そうな顔で、私を見た。それから、ふっと、小さく笑う。


「お前に、そんなことを聞かれるとは思わなかった」

「……答えてください」

「寂しい、という感情を、自分の中で把握したことはなかったな」


 その答え方が、何よりも、その答えそのものだった。

 長く生きてきた強大な存在が、自分の感情を理解する機会すら、これまで持てなかったということ。

 それを知った瞬間、私の中で、何かが、はっきりと変わった気がした。

 もう、あやかしを視ることに、怯えているだけの自分じゃない。

 私が今、本当に見ているのは――誰よりも強く、誰よりも孤独な、一人の存在だった。

 窓の外の夜景を、もう一度、蓮夜と並んで見つめる。

 その時、私は自分の中の「平穏」の定義が、いつの間にか静かに、書き換えられ始めていることに、気づいた。


 ☆


「蓮夜様。よろしいでしょうか」


 朝、社長室に入ってきた影月の表情は、いつもより、はっきりと硬かった。


「どうした」

「常世の方で、噂が広がっております。蓮夜様が、ついに『番』を見つけられた、と」


 その一言に、私は手を止めた。書類を整理していた手が、思わず止まる。


「広まるのは、想定していたことだろう」


 蓮夜は、落ち着いた様子で応じたが、影月の表情は、まだ晴れない。


「ただ、広まり方が少々、よろしくありません。蓮夜様の力の根源が、瀬戸様という一人の人間に集約されている――そう解釈する向きが、すでに出てきております」

「つまり」

「瀬戸様を排除すれば、蓮夜様の力を大きく削ぐことができる。そう考える者たちが、出てきているということです」


 空気が、一気に冷たくなった気がした。


「具体的に、動いている者はいるか」

「まだ、噛みついてくる規模ではありません。ですが、いくつかの古い大妖の勢力が、すでに瀬戸様の存在を注視していると、報告が入っております」


 影月の言葉に、蓮夜の表情が、はっきりと険しくなった。


「……どの勢力だ」

「現時点では、まだ特定はできておりません。が、念のため瀬戸様の単独行動は、今後できるだけ控えていただいた方がよろしいかと」


 影月の視線が、ちらりと、私の方に向いた。これまでのような、少し試すような視線ではなく、純粋に心配しているような色が混じっている気がした。


「……私が、狙われる側になるってことですか」

「すでに、その対象になっている可能性が高いです」


 影月は、はっきりとそう告げた。


「蓮夜様の力は、長年、この都市の守護として機能してきました。それを快く思わない勢力も、当然存在します。その力の弱点として、瀬戸様を利用しようと考える者が出てくるのは、ある意味、自然な流れです」


 頭では理解できる。けれど、自分が「弱点」として、はっきりと狙われる立場になったという事実は、思っていたよりも重く胸にのしかかった。


「……蓮夜さん」

「心配するな」


 蓮夜は、こちらに視線を移し静かに、しかし確信を持った声で言った。


「お前に、指一本触れさせるつもりはない」

「でも、私のせいで、蓮夜さんが弱くなるなら……」

「お前のせいではない」


 蓮夜の声に、わずかに苛立ちが混じった。


「お前という存在自体が、俺にとっての弱点になるという事実を、敵が利用しようとしているだけだ。それは、お前が何かをした結果ではない」


 その言い方は少し荒っぽかったけれど、その奥に私を責めるつもりがないという、確かな配慮が感じられた。


「影月、引き続き情報の収集を続けてくれ。それから、コイツの周辺の警護も、今まで以上に強化する」

「承知いたしました」


 影月は、丁寧に頭を下げると、社長室を出ていった。

 残された静寂の中、私は自分の指先がわずかに冷えていることに気づいた。

 今までの脅威はいわば、無秩序な「下級妖の群れ」だった。

 でも、これから対峙するかもしれない相手は、もっと明確な意志を持って計算高く、私と蓮夜の関係を「弱点」として狙ってくる――そういう種類の存在だ。

 平穏とは、もっと遠ざかってしまったのに、不思議なことに以前のようなただ怯えるだけの感情は、もう湧いてこなかった。

 守られるだけの存在でいたくない。

 その思いだけが胸の奥で、静かに、確かに、強くなっていくのを感じていた。


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