第四話 刺繍がなくとも
終わらなかった。
殿下は、翌日も手紙をよこした。
一週間後も来た。
「刺繍がなくとも、あなたに会いたいのですが」
まっすぐにそう言われて、私は返事に詰まった。
一ヶ月経っても、変わらない。
むしろ、刺繍という用事がなくなったことで、殿下は別の方法で時間を作ってきた。庭の散歩に誘われた。読書の感想を語り合った。私が前世の価値観で「それはどうかと思いますよ」と反論したら、殿下は目を丸くしてから、楽しそうに笑った。
「あなたは面白い人ですね、本当に」
「……失礼なことを申し上げました」
「いいえ。好きですよ、そういうところが」
好き、という言葉が。
軽く言っているように聞こえるのに、どうしてこんなに胸に残るのか。
混乱した頭のまま帰宅して、侍女に話すと、彼女は腕を組んで唸った。
「……エリナ様、もしかして殿下は、単にエリナ様がお好きなのでは?」
「そんなこと」
「でも、そうとしか見えませんよ?」
「……そんなこと、ありえない」
私がそう言うと、侍女は少しだけ眉を下げた。
「何か、私には言えないことがあるのですね」
「……ええ」
「では、殿下には?」
「言えないわ」
「なぜですか」
「嫌われるかもしれないから」
声に出した瞬間、胸の奥が痛んだ。
嫌われたくない。
その気持ちが、もう逃げられないほど大きくなっていた。
春になった日、庭で並んで歩きながら、殿下が口を開いた。
「エリナ嬢。一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「なぜ、刺繍を辞めたのですか」
逃げられない声。
責めているわけではない。ただ、ずっと待っていた人の声。
私は足を止めた。
風が吹いて、庭の若葉が擦れる。土の匂いが湿っていた。春の匂いだ。なのに、喉の奥が冬みたいに冷える。
「殿下」
「はい」
「信じていただけない話かもしれません」
「聞きます」
「嫌われるかもしれません」
「それでも、聞かせてください」
私は、全部話した。
転生のこと。
前世では刺繍などしたことがなかったこと。
転生した時に、魅縫という加護を与えられたこと。
自分の施した刺繍には、見る者を引きつける魅了の効果が宿ること。
あの茶会の場で、それを思い出したこと。
思い出したのに、殿下に何度も刺繍を渡してしまったこと。
だから、殿下の好意が本物かどうか、信じられなくなったこと。
話し終える頃には、手が震えていた。
殿下は、しばらく黙っていた。
その沈黙が苦しい。いっそ怒ってほしかった。騙したのかと責めてほしかった。その方が、こちらも頭を下げられる。
「初めて茶会で会ったとき」
殿下が、ゆっくりと言った。
「あなたは真っ赤な顔で、唇をきゅっと結んで、それでも布を持ち上げて見せてくれた」
「……」
「不格好な刺繍を。誰に笑われても。自分の不出来を誤魔化すために、誰かの作品を貶すこともなく、ただ、あの布を差し出した」
やっぱり不格好だとは思っていたのか。
変なところに意識が逃げて、私は泣きそうなのに少しだけ困った。
「私の目が最初に引きつけられたのは、刺繍ではありません。あなたの、その顔でした」
「そんな、出会って数分で」
「ええ。ひとめ惚れというやつですね」
殿下は、穏やかに笑った。
そんな理由で。
そんなことで。
「その後、必死に練習したのでしょう?手に、針の跡がいくつもあった。あなたはいつも隠そうとしていたけれど、見えていました」
「……」
「刺繍に魅了の力があったとしても、私はあなたが針を持つ前から、あなたを見ていました」
喉の奥が熱くなる。
信じたい。
信じてしまいたい。
でも、信じるのが怖い。
「私は、殿下の心を縛ったかもしれません」
「では、確かめましょう」
「え?」
殿下は、私の手を取らなかった。
いつもなら自然に差し出される手が、今日は彼自身の横に下ろされている。
「ひと月、会わずにいましょう」
「……ひと月」
「手紙も送りません。あなたの刺繍も身につけません。今、私の手元にある刺繍はすべて箱に収め、側近に預けます」
「そこまで、なさらなくても」
「必要です」
殿下の声は、静かだった。
「あなたが罪悪感に潰される前に、私自身の心を、私自身で確かめたい」
「……もし、それで」
「はい」
「もし、それで殿下のお気持ちが消えたら」
声が震えた。
殿下は私を見つめたまま、少しだけ眉を下げた。
「その時は、あなたに謝ります。私が、自分の心を見誤っていたのだと」
「謝るのは、私です」
「いいえ。私は王太子です。自分の心も選択も、加護一つに奪われたとは言いたくありません」
風が吹いた。
殿下の金髪が、春の光を受けて揺れる。
「ひと月後、ここで会ってください。エリナ嬢」
「……はい」
殿下は証明しようとしてくださっているんだ。
私の魅縫による気持ちではなく、本心でのことだと。
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