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【完結】魅了つきの刺繍のせいで、王太子殿下が溺愛をやめてくれません  作者: 木風


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第五話 赤い糸が白い布の上で、きれいな心臓を描いていく

 その日から、殿下は本当に来なくなった。


 手紙もない。

 贈り物もない。

 王宮からの使者も来ない。


 最初の三日は、これでよかったのだと自分に言い聞かせた。

 七日目には、庭の音がやけに遠く聞こえた。

 十日目には、針箱を開けて、すぐに閉じた。

 十五日目には、侍女が焼いてくれた菓子の味がほとんど分からなかった。


「エリナ様、少しお休みになってください」

「休んでいるわ」

「目の下が暗いです」

「春だからかしら」

「春は関係ありません」


 彼女の声が少し怒っていて、私は小さく笑った。


 殿下に会いたい。

 たったそれだけの言葉を、口に出せずに飲み込む。


 私は殿下を好きだ。

 もう、疑いようがなかった。


 でも、殿下の気持ちは分からない。

 刺繍も手紙もなく、ひと月が過ぎた時、そこに何が残るのか。

 怖くて、待ち遠しくて、毎朝、窓を開ける指が震えた。


 約束の日、私は王宮の庭に立っていた。

 若葉は濃くなり、花壇には白い小花が咲いている。空気は柔らかいのに、胸の奥は固く縮んでいた。

 ひょっとしたら、魅縫の効果が切れて、殿下は来てくださらないのではないか。そんな考えが頭をよぎる。


 足音が聞こえた。

 振り向く前に、分かった。


「エリナ嬢」


 エリオット殿下が、そこにいた。


 ひと月前と同じ声。

 でも、刺繍の入った手袋はしていない。外套にも、私の糸はない。胸元の飾り紐にも、ハンカチにも、何も。

 殿下は、本当に私の刺繍を身につけていなかった。


「お久しぶりです」

「……お久しぶりです、殿下」


 礼をしようとした私に、殿下が一歩近づいた。


「ひと月、考えました」

「はい」

「箱に収めたあなたの刺繍は、一度も見ていません。手紙も書きませんでした。あなたの声も聞かなかった」

「はい」

「それでも、毎朝あなたのことを考えました」


 息が止まる。


「庭で見た時の顔。読書の感想に遠慮なく反論してきた声。針の跡を隠そうとする手。笑うのをこらえている時の口元。怒っているのに礼儀だけは崩さないところ」

「……」

「刺繍がなくなって、かえって分かりました。私は、あなたの刺繍を愛したのではありません」


 殿下が、そっと手を差し出した。


「あなたが好きです、エリナ。あなたが針を持っていても、持っていなくても」


 涙がこぼれた。

 一度こぼれた始めたら、止まらない。


「……本当に、スキルでは」

「何度でも答えます」

「私が、魅了したからでは」

「違います」

「私が、伯爵令嬢でも」

「あなたがエリナだからです」


 そんないい顔とイケボで言わないでほしい。


「……殿下は」

「エリオットと呼んでください」

「……エリオット様」

「様もいりません」

「それは、さすがに無理です」

「では、少しずつ」


 殿下――エリオット様が、嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥に絡まっていた糸が、ふっとほどけた気がした。


「エリナ」

「はい」

「私に、もう一度だけ刺繍をいただけますか」

「……また魅了されるかもしれません」

「構いません」

「構わないでは済みません」

「では、条件を変えましょう」


 エリオット様は、私の手を取った。今度は、ためらわずに。


「あなたが、私に贈りたいと思った時だけでいい。命じられてではなく、罪悪感からでもなく、あなた自身の気持ちで」

「……私の気持ちで」

「はい」


 指先が温かい。

 針の跡が残る私の手を、エリオット様は壊れ物のように包んでいた。


「私は、あなたがくれるものなら嬉しい。ですが、あなたが苦しみながら縫うものはいりません」


 また涙が出そうになった。

 私は小さく頷いた。


「では、いつか……」

「いつか?」

「私が、縫いたくなったら」

「待っています」


 エリオット様の声は、春の庭に静かに溶けた。


 王太子妃候補として有力視されていた公爵令嬢が、よりにもよって伯爵令嬢に敗れたことは、社交界で長く語り草になった。

 彼女は表向き祝福の言葉を述べたが、その笑顔が盛大に引きつっていたことを、私はしっかり見ていた。


「おめでとうございます、エリナ様。まさか、あの茶会の刺繍が、このようなご縁になるなんて……」

「ありがとうございます」


 私は微笑んで礼を返した。

 少し、ほんの少しだけね、すっきりした。


 婚約が正式に発表された日、侍女が目を潤ませて言った。


「エリナ様!本当におめでとうございます!」

「違うわ。殿下が先に気づいてくれただけよ」

「でも、エリナ様……ずっと幸せそうです」

「それは……否定できないけれど」


 部屋の引き出から、久しぶりに針と糸を取り出す。


 今度は、魅了のためじゃない。

 命じられたからでもない。

 ただ、縫いたいから縫う。


 エリオット様が喜ぶ顔が見たいから、針を持つ。

 白い布の上に、最初に作ったのと同じハートを一つ。

 でも今は、あの頃よりずっと上手い。

 赤い糸が白い布の上で、きれいな心臓を描いていく。


 ひと針、ひと針。

 指先に伝わる布の張りも、糸が抜ける小さな音も、胸の奥で鳴る鼓動も、全部私だけのもの。

 これは、ちゃんと本物だ。

最後までお付き合いありがとうございました。

不格好なハートから始まる、少し罪悪感まじりの溺愛でした。

エリナが自分の意思で針を持てるところまで、見届けていただけていたら嬉しいです。

ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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