第二話 加護の名前は魅縫
公爵令嬢の声が響いた。
ため息をつきたい気持ちを押し殺し、私は布を手にした。
最初に彼女が披露したのは、見事な孔雀の刺繍だった。青と緑の絹糸が光を受け、羽根の一枚一枚が宝石のように艶めいている。
「まあ、素晴らしいですわ」
「さすがですわ」
「王太子妃となられる方にふさわしいお手並みですわね」
令嬢たちの称賛が重なる。
次々と披露されるのは、薔薇、蝶、繊細な草花。
え?みんな本当にこの一時間弱でそれを作ったの?と思うほど、どれも息を呑むほど美しい。
そして、私の番が来た。
恥を忍んで、布を持ち上げる。
赤い糸で縫われた、不格好な♡が一つ。
静寂が、落ちた。
誰かが小さく笑った。声を殺しているが、聞こえた。
こうなることは分かっていた。
分かっていたが、喉の奥がきゅっと縮む。顔が熱い。けれど、布を下ろすわけにはいかなかった。ここで隠したら、本当に負けだ。
「……素晴らしい」
低い、落ち着いた声が、静寂を割った。
全員の視線が、その声の主に集まる。
エリオット王太子殿下が、席を立って、こちらへ歩み寄っていた。
「見せてもらえますか」
王太子が布に手を伸ばす。
私は呆然としたまま、差し出すと、殿下は、私の不格好なハートの刺繍を、真剣な眼差しで見つめた。まるで美術館の名画を鑑賞するように。
「シンプルで、力強い。飾り気がなく、それでいて温かみがある」
「は、はあ……」
「何より、真っ先に目が行く。この赤い心臓が」
心臓。
なるほど、そういう解釈か。
殿下は顔を上げて、私を見た。淡い金髪に、透き通った水色の瞳。整った顔立ちに、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「あなたは、エリナ・ロゼリア嬢ですか」
「……はい、殿下」
「この刺繍を、私にいただくことは可能ですか」
今度こそ、サロンが本当に静まり返った。
周りの令嬢たちの、完璧な微笑みが、初めて引きつっている。
彼女たちの扇が、ぴたりと止まった。
「こ、こちらを、ですか」
「ええ」
「もっと見事な刺繍が、他にたくさん……」
「私は、これが欲しいのです」
逃げ場がなかった。
私は震えそうな指で、赤いハートの布を殿下へ渡した。
その夜、私は自室でベッドに倒れ込みながら、必死に記憶を掘り返していた。
王太子に刺繍を所望される令嬢など、前代未聞だという。侍女が興奮気味に語っていた。
「エリナ様、すごいです!王太子殿下が、あの場で令嬢の刺繍をお求めになるなんて!」
「ええ……そうね……」
返事をしながら、私は枕を抱きしめる。
本当になんで……?
あんな下手な刺繍が、なぜ殿下の目に留まったのか。
その答えは夜更けになって、唐突に頭の底から浮かび上がってきた。
転生した、あの瞬間。
暗い空間の中で、声が言ったのだ。
『あなたには一つ、加護を授けましょう』
加護の名前は【魅縫】
『あなたが施した刺繍には、見る者の心を引きつける魅了の効果が宿ります』
「……あ」
そういうことか。
あのハートに、魅了が掛かっていたのか。
つまり殿下が「素晴らしい」と言ったのも、目が離せなかったのも、刺繍を欲しがったのも――全部、スキルのせい。
転生特典が、まさかこんなタイミングで炸裂するとは思っていなかった。
喜びかけていた胸が、冷たい水を浴びたように沈む。
褒められて嬉しかった。
他の令嬢たちの顔が引きつるのを見て、少しだけすっきりした。
王太子殿下が私を見てくれたことに、心臓が跳ねた。
でも、それは全部、私が仕掛けた罠だったのではないか。
知らなかったとはいえ、私は王太子殿下の心に、勝手に糸を掛けてしまったに違いない。




