第一話 不格好な赤いハート
王太子殿下が、私の不格好な赤いハートの刺繍を見て「素晴らしい」と言った。
私は自分の転生特典が、最悪の形で発動したことを悟ったのは、もう少し後のこと。
ロゼリア伯爵家の令嬢――つまり今の私、エリナ・ロゼリアは、前世の記憶を持つ転生者である。
前世では神奈川県在住の、どこにでもいる女子大生。
特技は一人暮らしのズボラ飯と、アニメの一気見。刺繍など、生まれてこのかた一度も触ったことがない。
なのに。
「本日のメインイベントは、刺繍でございますわ」
にっこりと微笑んで告げたのは、この茶会の主催者である公爵令嬢だった。
会場は、王宮の庭園を一望できるサロン。薔薇の香りが漂い、磨かれた磁器のカップが午後の光を弾いている。
絵に描いたような貴族の茶会。そしてそこには、なんと第一王子殿下――エリオット・フォン・アルテア王太子が、来賓として列席されていた。
なぜこんなことになっているんだ、私は。
「皆様に布と針と糸をお配りいたします。その場で刺繍をしていただき、でき上がりをご覧いただきましょう」
令嬢たちが、控えめな歓声を上げる。
「まあ、楽しみですわ」
「今日は新しい図案を用意してまいりましたの」
「王太子殿下にもご覧いただけるなんて、光栄ですわね」
隣の令嬢などは、もう手元の小箱から図案帳を取り出している。
準備がよすぎる。何なの、刺繍茶会って予告制だったの?私だけ聞いていないんだけど。
私は心の中で、盛大に頭を抱えた。
刺繍。シシュウ。SHISHU。
ない。
記憶の中を掻き回しても、刺繍の経験など欠片も出てこない。
裁縫道具なんて、中学の家庭科を最後に触ってすらいない。玉結びができるかどうかも怪しい。
せめてミシンをくれ。あの、イニシャルとか刺繡できるやつを。
そんな私に、追い打ちをかけるように、公爵令嬢が私の方へ視線を向け、とびきり甘い笑顔を作った。
「あら、エリナさん。緊張していらっしゃる?」
「……いいえ。そんなことはありません」
笑顔で返した。
平静を装えているだろうか。頼む、顔に出るな私の顔よ。
「まあ、そうですわね」
そう言って彼女は、白い指先で扇を開いた。香水の匂いが、薔薇の香りに混じる。
「でも、ロゼリア伯爵家は……確か、こうした正式な茶会へのご出席は、あまりご縁がないのでは?家格のこともございますし」
ああ、来た。
ロゼリア家は伯爵家である。この会場に集まった令嬢の中では、最も爵位が低い。
侯爵、公爵、そして王太子が列席するこの場に、どういうわけか私は招待されてしまった。
理由は、だいたい分かっている。
王太子妃候補として有力視されている公爵令嬢が、自分の優雅さと教養を見せるため。
ついでに、格下の伯爵令嬢を一人混ぜて、比較対象として差をわかりやすくするため。
はい、完全に当て馬です。ATEUMA!!
「ご心配いただかなくとも、刺繍くらいは存じています」
瞬時にそう返した。
嘘だけれど。
「そう!では楽しみですわね」
彼女の微笑みは本当に優雅で、私への当てこすりなど欠片もないように見えた。だからこそ、質が悪い。周囲の令嬢たちが、口元を扇で隠すのが見えた。
配られた布は、白い亜麻布。
針と、数色の絹糸。
さあ、詰んだ。
隣の令嬢は手際よく花の下絵を布に描き始めている。
向かいの令嬢は、もう針を動かし始めた。繊細な薔薇の輪郭が、次々と生まれていく。
布を見つめ、針を持つ。
サロンの中は暖かいはずなのに、指先が冷える。
それなのに、手のひらだけが汗ばんでいた。
逃げたい。
でも、ここで「できません」と言えば、ロゼリア伯爵家ごと笑われる。
父も母も、私をこの茶会に送り出すために、朝から何度も身なりを確かめてくれた。
伯爵家だからといって、品位まで低く見られる必要はない。
とりあえず、簡単なものを。
私は赤い絹糸を選んだ。
目指すのは、ハート。
♡
前世のノートの隅に、何度も描いたことがある形。
小学生でも描ける、シンプルなハート形。チェーンステッチ?バックステッチ?そんな名前はさっぱり分からないが、とにかく線が繋がるよう、無我夢中で針を動かした。
刺しては引き、刺しては引き。
布の裏で糸が絡まり、慌ててほどく。針先が指をかすめて、小さな痛みが走った。赤い糸と血の色が似ていて、少しだけぞっとする。
歪んでいる。
左右対称でもない。
正直、見栄えは最悪の部類に入るだろう。
でも、形はハートだ。
たぶん。
「では、皆様、お見せし合いましょうか」
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