爆音と祈り、ルドビコ
数回の練習を経て4人体制のバンド活動は更に飛躍した。
佐賀市での練習だったが、長崎県にまで足を伸ばして侵略していく。
そこにはわたしの、長崎県への、強い憧れが込められていた一種のエゴイズムだったのかもしれない。
12歳の小学生時代に修学旅行で初めて長崎県を体感した。
原爆被害、異国情緒、キリスト教。
様々なものの中でとりわけ興味を持ったのが『日本二十六聖人殉教の地』であった。
日本で初めて「キリスト教徒だから」という理由で処刑が行われた地である。
その26人の中で最年少がルドビコ茨木、12歳であった。
運命とは未知なるものだ。体感した時のわたしと同年代の少年が、神様という見えないもののために命を差し出すという姿勢に強烈なインパクトを感じた。同時に怖がる同級生の様子や面白おかしくイジる教師を冷めた目で見ていた。この世に理解者など居ないのではないかと。
それからというもの、取り憑かれたように長崎に行きたがった。半年に一度は必ず行くようにし、記念碑の前の公園でぼーっと過ごす時間がこの上なく幸せであった。
「ねぇルドビコ。君ならどうする?」
そんな問いを悲しい時も楽しい時も心の中で対話を続けていた。無音の答えを受け取り記念碑に一礼して帰るのが儀式化されていた。
同時に空間建築に目覚めたのもこの時期であった。
裏にある聖フィリッポ教会は『日本のサクラダファミリア』と称されており、その素朴さが実に日本らしく、当時の技術を使いつつも教徒の手作業感がふんだんに盛り込まれている2本の塔には、祈りを捧げずにはいられない。
ほかの教会にも度々訪れたが、バックグラウンドの衝撃からここがいちばんの安らぎとなっていた。
そしてバンド仲間も長崎人が増えていった。
この頃になるともう長崎の血を絶やしてはならないと本気でそう思っていた。
なので、長崎県で出来るLIVEはただの爆音ではなくわたしにとっては感情の爆発であり祈りであり人生であった。
長崎県のバンド仲間はどんどん増えていき、交流も深まる。
バンドマスターとしてリーダーの役割を担っていたわたしは積極的に他のバンドのLIVEにも足を運び、可能な限り泊まりがけでお酒を飲み明かした。
時にはホテルを取っていたのにホテルに泊まらず朝を迎える事さえあった。
そう活動の範疇を増やしていくとLIVEのオファーも来やすい。
メンバーに断りを入れる前に即決して沢山のLIVEをこなしていく。
有難い話であるが固定ファンも着いてきた矢先にAとの対バンがたまたま決まっていた。
パンクバンドのLIVEは観るのが初めてで、曲こそ聞いては来たもののどんなものなのか体感してみたかった。
爆音に飲み込まれそうになる中、ドラマーの後ろには特製の布が貼られ、アナーキーシャツや革ジャンを着たパンクロックバンドに呆気にとられて、暴れに暴れた。
周りの目線などどうでもいい。
汗ばんだ空気を跳ね除けてベースの最前を陣取った。
曲を残しておきたいという気持ちもあったが、携帯を触る暇があったら一秒でも見落としたくないという衝動がそこにはあった。
格好いい。言葉にできないほど。
技術云々ではない。これぞパンクロックであった。
終わってからの打ち上げでこちらのメンバーはわたし以外全員下戸なので帰ってしまった。
それはいつもの事であるが、今回はこれを少しだけ喜んでしまった。
こんなにかっこいいバンドの人たちを独占したい。
パンドラの箱を開けてしまったような気分で足が地につかぬまま、ビールをたらふく飲んだ。
そしていざAと話せる機会は案外早い時期に訪れた。
LIVE中に暴れ倒して歓声を上げ拳を突き出すわたしを見て、LIVEが終わった瞬間にステージ上から一言わたしに向けてほほえみながらこういった。
「有難う。」
マイクは通っておらず自分1人に向けられたものだと確信して嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
汗でぐちゃぐちゃな髪型も化粧もどうでもいい。
青春をこの人と歩みたい。わたしのバンドメンバーと共に。




