第22話 守る側へ
朝の冷たい光は、店のガラスに当たると少しだけ柔らかく見える。
遼人はシャッターを上げながら、その柔らかさに頼りたい気分だった。店の外の空気はいつも通りで、通学途中の学生が笑い、通勤の人が足早に過ぎていく。世界は何も変わっていないように見えるのに、自分の中だけが昨夜からずっと、薄い膜で覆われたように重い。
スマホが震えたのは、鍵を回して店の中へ入った直後だった。
振動は短い。通知は三つ。差出人は、元の職場――東辰。
胸の奥が一瞬だけ冷える。けれど遼人は、昨日までのように手を止めなかった。照明を点け、スピーカーを入れ、バックヤードの空調を回す。動きは崩さない。崩さないまま、通知だけを視界の端で確認する。
件名が、いつもより露骨だった。
「至急:労務関連の件」 「至急:会計処理の確認」 「至急:税務対応のお願い」
嫌な予感は、予感のまま終わらない時がある。終わらない時は、具体化して牙になる。遼人はそれを知っている。だからこそ、通知を開く指が震えなかったのは、恐怖がなくなったからではなく、恐怖を“扱う”準備ができていたからだ。
遼人はバックヤードのテーブルにスマホを置き、深く息を吸った。胸の上の方じゃなく、腹の方へ落とす。仕組み化した休憩のルールと同じように、呼吸も仕組みにしてしまう。意志で耐えると負ける。工程に落とす。
画面を開く。
最初のメールは、労務の件だった。
文章は丁寧な形をしている。丁寧な形のまま、責任だけが投げられている。
“当社における残業代の取り扱いについて、過去の運用に齟齬があった可能性がある。ついては、当時の担当者である鳴海氏の判断・処理に起因する部分が大きいと考えられるため、速やかに説明資料を作成し、対応方針を提示すること。”
遼人の頭の中で、Aの札が立った。
違法な残業代未払いを、“遼人の責任”にして押し付ける。
遼人は画面をスクロールし、添付ファイルを見た。社員数名の勤怠データ。残業時間の記録。支給額の一覧。整っているように見えて、肝心の“根拠”が抜けている。記録がないのではない。意図的に“都合の悪い記録”だけが抜けている。
遼人の胃が、きゅっと縮みかける。縮みかけたところで、遼人はもう一度息を落とした。
次のメール。
“外部より取引請求の照会が来ている。過去の請求処理で不整合が見られ、当社としては当時の担当が把握しているはずの経緯説明を求める。必要に応じて、処理の是正に関わる実務も引き続き担ってほしい。”
遼人の頭の中で、Bの札が立った。
架空請求や粉飾の尻拭いを迫る。
不整合、という言葉。是正、という言葉。どれも便利だ。粉飾の輪郭を曖昧にしたまま、“是正の実務”だけを押し付ける。遼人が口を出せば、関与したことになる。関与した瞬間に、責任の輪に入れられる。
三つ目のメール。
“源泉税および社会保険関連について、未処理分が発生している可能性がある。過去担当として状況把握を行い、必要な手続きを実施の上、関係各所への説明をお願いしたい。なお、遅延が生じた場合の影響を踏まえ、迅速な対応が望ましい。”
遼人の頭の中で、Cの札が立った。
源泉税や社会保険の処理を丸投げして責任転嫁。
“過去担当として”という枕詞は、免罪符の顔をして刃になる。遅延が生じた場合の影響、という言葉で脅し、迅速な対応、という言葉で追い立てる。遼人に“手を出させる”ための文章だ。
遼人は画面を閉じた。
閉じて、しばらく動けなかった。
怖いのではなく、腹の底が冷える。あの会社は、ここまで来る。ここまでやる。自分を“責任者”として固定し、背負わせ、潰す。潰れた後に「自業自得」と言う。そういう構造を、遼人は何度も見てきた。
でも、今日は違う。
遼人はバックヤードの棚に視線をやった。伝票ファイルが並んでいる。日報のクリップボードがある。休憩のルールが、いつも見える場所に挟まれている。
店の音楽が薄く流れている。
外では、通勤の人が足早に過ぎる。
ここは、息ができる。
遼人は、スマホを手に取った。胸の前で握りしめるのではなく、机の上に置くような感覚で持つ。相手に飲み込まれないための持ち方だ。
そして、最初にやるべきことを決めた。
“戻らない”ではない。
“逃げない”でもない。
ここを守る。
店を守る。蘭奈を守る。自分の生活を守る。守るために、正しい形で切る。
遼人は、まず記録の設定を確認した。通話録音のアプリ。端末の画面収録。メールの自動バックアップ。クラウドの保存先。全部を確認し、足りない部分を埋める。証拠は感情より強い。証拠は相手の言葉を変えさせない。
次に、これまでの東辰とのやりとりを整理した。過去のメール、チャット、退職時の引き継ぎ文書。特に、遼人が“担当”として押し付けられた業務の範囲と、上長の指示が残る箇所。指示が残っているのは武器になる。残っていない部分は、残っていないこと自体が相手の悪質さになる。
そして、第三者の名前を用意した。
労基。社労士。弁護士。税理士。
その名前は、こちらが本気であることを示すだけで、相手の口を少しだけ重くする。法の言葉が出た瞬間、相手の“脅しの言い回し”は使いにくくなる。
店の扉が鳴り、陽那が入ってきた。
いつも通りの笑顔で「おはよ」と言いかけて、陽那は遼人の顔で止まった。空気の重さを測る目。けれど今日は、陽那は深く踏み込まない。遼人が“守る側”に移るときに、茶化しが邪魔になるのを分かっている。
「おはようございます」
遼人の返事は落ち着いていた。落ち着いているからこそ、陽那は察する。これは“危ない落ち着き”ではない。決めた落ち着きだ。
「今日、何かある?」
陽那がさりげなく聞く。遼人は答えを短くした。
「元の会社です。少し、対応します」
「了解。私、売り場見とく」
陽那の返しも短い。余計な言葉を足さない。余計な言葉を足さないのが、今の優しさだ。
少し遅れて蘭奈が入ってきた。胸を張り、突き出すほどに攻めた服で鎧を作っている。けれど目が、遼人に一瞬で寄る。寄って、止まる。昨日までと違う止まり方だった。遼人の目が、逃げていない。
蘭奈が短く言う。
「何」
遼人は言葉を選ばずに、必要な情報だけ渡した。
「東辰から。労務と会計と税務、三つ。責任転嫁です」
蘭奈の眉が動く。怒りの動き。十九歳の怒りは直線的だ。けれど蘭奈はすぐに腕を組まない。組むと、感情が出る。感情が出ると、遼人が“守られる側”に戻ってしまうかもしれない。蘭奈はそれを怖がっている。怖がっているから、あえて店長の声を作る。
「どうする」
遼人は即答した。
「記録します。証拠を揃えます。第三者の名前を出します。ここに迷惑が来ない形で切ります」
“切る”という言葉が出た瞬間、蘭奈の胸の奥が一度だけ揺れた。遼人が切る。自分の過去を切る。その切り方が、“戻らない”じゃなく“守る”のためだと分かる。分かってしまうと、蘭奈の中で変な熱が上がる。
守られる、という感覚。
今まで、守る側だった。母を亡くして店を引き継いでから、守ることしかしていない。守ることをやめたら、何も残らないと思っていた。
でも今、遼人が「ここに迷惑が来ない形で」と言った。
自分の店を、自分の生活を、“守る対象”として置いてくれた。
蘭奈はそれが嬉しいのに、嬉しいと言えない。だから短く言う。
「……やれ」
許可だ。合意だ。店長の言葉で包んだ、頼るという行為だ。
遼人は頷き、バックヤードへ入った。陽那が売り場を回し、蘭奈はマネキンの位置を直しながら、耳だけをバックヤードに向ける。聞こえないのに聞こうとする。聞こうとする自分に気づいて、胸を張る。突き出すほどに。鎧を厚くする。
バックヤードで、遼人はまず東辰へ返信を作った。
丁寧にしない。丁寧にすると相手の土俵になる。淡々と、事実だけ。
“残業代の件:当時の運用は会社方針および上長指示に従ったものであり、個人判断によるものではない。必要であれば当時の指示系統を確認の上、会社としての回答を行うべき。”
“会計処理の件:不整合の内容を具体的に提示してほしい。個人として是正実務を担うことはできない。必要であれば顧問税理士・監査対応の枠組みで行うべき。”
“源泉・社保の件:未処理の有無および範囲を明示してほしい。現時点で私は貴社の担当ではなく、手続きの代理・実施は行わない。必要であれば社労士・税理士に依頼されたい。”
そして最後に、一行だけ添える。
“本件のやりとりは記録として保存する。必要に応じて労働基準監督署、社会保険労務士、弁護士、税理士等の第三者へ相談の上、対応する。”
脅しではなく、宣言。こちらが正常な手続きを取るという宣言。相手にとっては、最も嫌な宣言だ。
送信を押す前に、遼人は画面をスクリーンショットで保存し、クラウドへバックアップした。送った後に相手が「そんなメールは受け取っていない」と言い出す可能性がある。だから先に保存する。経験がそうさせる。
送信。
数分後、電話が鳴った。
東辰の番号。代表番号ではない。個人番号。つまり、上からの圧が直接来る。
遼人は一度だけ息を落とし、録音をオンにした。画面収録も開始。ログも残す。準備が整ってから、通話に出る。
「鳴海です」
相手は、元上長だった。声は丁寧に作っている。作っている分だけ、苛立ちが透ける。
「鳴海くん、メール見た。ちょっとさ、そういう言い方、困るんだよね」
遼人は淡々と返す。
「困る、というのは具体的にどの点でしょうか」
「いや、第三者の名前出すとか、そういうのはさ……円満にいこうよ」
円満。便利な言葉だ。円満は、相手が責任を押し付けたいときに出る。円満と言いながら、こちらを殴る準備をしている。
遼人は、相手のペースに乗らない。
「円満であるためにも、責任の所在と手続きの枠組みを明確にする必要があります」
相手が一拍黙る。黙る間に、遼人は次の攻撃を待つ。攻撃は来る。
「そもそも、残業代の件、当時の勤怠管理と支給計算、君が実務を見てたよね? 今、社員から言われてるんだよ。未払いだって。会社としては対応するけど、君の処理の問題が大きい」
Aが来た。責任転嫁。遼人は、そこで“否定の感情”を出さない。感情を出すと相手の餌になる。
「当時の運用は、上長の承認と会社方針に基づいています。私の個人判断ではありません。必要な資料は、当時の指示を含めて会社側で整理してください」
「いやいや、指示ってさ、そんなの残ってないでしょ」
来た。証拠がないから押し付ける。遼人はそこも準備していた。
「残っています。メールとチャットのログがあります。必要であれば提示可能です」
相手の声のトーンが変わる。少しだけ強くなる。強くなるほど、相手は焦っている。
「いや、そういうのじゃなくて。今はとにかく、社内を収めたいんだよ。君が説明してくれれば、話が早い」
遼人はここで、守る方向へ舵を切ったことを自分の中で確認する。
社内を収めるために、遼人が矢面に立つ必要はない。矢面に立てば、Edge Girlsに飛び火する可能性がある。遼人の精神が削れれば、店の運用が崩れる。崩れたら蘭奈がまた背負う。背負わせない。
「私が説明する必要はありません。必要であれば、会社として労基署に相談の上、適正な手続きで対応してください」
労基の名前を出す。牽制。相手の息が一瞬詰まるのが、音で分かる。
「……そこまで言う?」
「適正な手続きの話です」
相手は次の札を切る。
「じゃあ会計の件。取引先から照会が来てる。過去の請求処理で不整合。鳴海くん、知ってるよね。君が一番分かってるはずだ」
B。架空請求や粉飾の尻拭い。遼人は、そこに踏み込まない。
「不整合の内容を具体的に文書で提示してください。口頭では回答できません」
「口頭でいいじゃん。君さ、細かいんだよ」
細かいのは、記録を残したくないからだ。遼人は相手の意図を見抜いても、言葉にしない。言葉にすると議論になる。議論は相手の土俵だ。
「文書でお願いします。必要なら、顧問税理士や弁護士を通してください」
弁護士。相手の声がまた一段固くなる。
「……君、誰かに吹き込まれた?」
「吹き込まれたのではなく、私が判断しています」
自分で判断していると言い切る。ここが重要だ。誰かの影に隠れると、相手はその影を叩こうとする。遼人自身が主体であると示すと、相手は攻撃先を失う。
相手は苛立ちを隠せなくなる。
「源泉と社保の件はどうするの? 未処理が出てる。遅延になったら、会社が困るんだよ。君が当時やってたんだから、君がやってよ」
C。丸投げ。責任転嫁。遼人はここで、少しだけ声を低くした。怒りではない。決意の低さだ。
「私は貴社の担当ではありません。代理で手続きを行う権限もありません。必要であれば社労士・税理士に依頼してください。私に求めるのは不適切です」
相手が黙る。黙ってから、最後の圧をかける。
「君さ……こういうの、協力しないと、今後の評判とかさ。業界狭いんだよ?」
脅し。遼人の胃が一瞬だけ反応する。でも遼人は、その反応を“昔の反射”として横に置く。今は守る側だ。
「脅迫と受け取れる発言です。この通話は記録しています」
通話が、静かに凍った。
相手の息遣いが変わる。軽い咳払い。話の方向転換。
「……いや、脅迫とかじゃなくて。現実の話だよ。君も社会人なんだから」
「現実の話として、適正な手続きで対応します。今後の連絡はメールでお願いします。必要であれば、こちらも弁護士を通します」
遼人は、相手が言い返す隙を与えずに続けた。
「本日の件、要点をメールでまとめて送ります。失礼します」
通話を切る。
切った瞬間、遼人の指先が少しだけ震えた。震えは恐怖ではない。身体が過去の圧を思い出して反応しているだけだ。反応しても、判断は揺れない。
遼人はすぐに、通話録音の保存を確認し、クラウドへ上げた。画面収録も停止し、保存。ログをまとめる。工程として淡々と処理する。
そして、メールで要点を送る。今の通話で相手が言ったこと、こちらが答えたこと、今後の連絡は文書で、第三者を通す可能性、記録していること。全部を短く箇条書きにする。感情を書かない。事実だけを書く。事実は武器だ。
送信。
送信した直後、遼人は背中を椅子に預けた。
目を閉じると、蛍光灯の白さが浮かびそうになる。あのオフィスの白さ。あの空気。あの圧。浮かびそうになって、遼人は目を開けた。目を開けた先に、Edge Girlsのバックヤードがある。段ボールの匂い。布の匂い。音楽の低音。
ここに戻る。
戻ってきた瞬間、遼人は自分でも驚くほど、胸の奥が静かだった。
守った。
まだ終わっていない。けれど、ひとつ守った。
売り場へ出ると、蘭奈が棚を戻していた。いつも通りの強気の姿勢。胸を張り、突き出すほどに攻めた服。けれど目が、遼人を探している。探して、見つけて、すぐ逸らす。逸らすのに、逸らし切れていない。
遼人が近づくと、蘭奈が短く言った。
「……どうだった」
遼人は言葉を選ばない。余計な不安を渡さない。
「記録しました。責任転嫁はできない形にしました。今後はメールで、必要なら第三者を通します」
蘭奈の喉が一瞬だけ動いた。嬉しいのに、言葉が出ない動き。守られる感覚が、蘭奈の中でまだ馴染まない。馴染まないのに、暖かい。暖かいから、動揺する。
蘭奈はいつもなら「ふん」と返す。今日は返さない。返せない代わりに、棚の値札を直すふりをして、手元を忙しくする。忙しくしないと目が泳ぐ。
遼人はその動揺を見て、心の奥が少しだけ柔らかくなる。守る側に移ると、相手の動揺を“責任”として背負わなくていい。動揺は動揺のままでいい。自分が支える、と決めればいい。
閉店まで、店は普段通りに回った。陽那はいつもより少しだけ静かだった。静かに回し、静かに笑い、静かに二人を見ている。遼人の空気が変わったのを、陽那は確実に感じ取っている。
閉店後、シャッターを下ろし、鍵をかけ、バックヤードを整える。いつもの締め作業。いつもの順番。仕組みの中に生活がある。
遼人は最後に、スマホの画面を確認した。東辰から追加の連絡は来ていない。来ないのは、怖がっているからだ。第三者の名前と記録の宣言が効いている。
遼人は息を吐き、蘭奈の方を向いた。
「もう大丈夫です」
それは、自分に言い聞かせる言葉でもあった。過去に飲み込まれないための言葉。ここを守ったという確認。
蘭奈はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。大丈夫、という言葉を、自分が言う側ではなく、言われる側として受け取っている。守られている。守られていることが嬉しい。嬉しいのに、嬉しいと言った瞬間に崩れそうで怖い。
だから蘭奈は、いつもの強気で切る。
「……かっこつけんな」
声は小さい。小さいのに、棘はない。照れ隠しの言葉。鎧の言葉。
遼人は、その言葉に少しだけ笑った。笑っても、茶化さない。茶化すと壊れる。壊したくない。
「すみません」
遼人がそう言うと、蘭奈が即座に返す。
「謝るな」
短い。けれど、優しい。
二人の間に沈黙が落ちる。沈黙は重くない。重くない沈黙は、生活の音になる。
遼人は、その沈黙の中で確かに思った。
戻らない、では足りない。
守る、という言葉が、自分を前に進める。
守る対象がある限り、自分は折れない。
その対象が、店であり、蘭奈であり、そして自分の呼吸であることを、遼人はもう誤魔化さなかった。




