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紀尾大介

 紀尾大介はしがない社畜であった。

 毎日のように虚ろな顔で満員電車に乗り降りし、会社へ向かう。


 その道すがら、30センチ四方の正方形の白いタイルが敷き詰められた地下道がある。

 そこを通るとき、やや俯きながら歩く彼は昔よくやっていた将棋を思い出す。


 彼にとって、床に敷き詰められたタイルによって形成されたマス目は、

 将棋の一手を考えるための盤に見える。

 こんな状況があって、自分がこんな持ち駒を持っていたら、

 どうその盤面を切り崩すか。

 そんなことをぼんやりと考える。


 大学を出るまでは人生の楽しみの大半は将棋が占めていた。

 暇さえあれば戦略を考えたり、

 棋士の手を何度も反芻し、心を躍らせていた。


 彼自身には才能がなかったため、

 ごく普通に就職をすることとなるが、

 そのことに不満はなかった。

 生涯将棋に関わることさえできればそれでかまわなかった。


 社会人の生活は想像以上に多忙を極めた。

 毎日の残業はもちろん、休日に出勤することも多々ある生活の中で、

 どんどん将棋に関わる時間は減っていった。


 やがて、将棋に関わることすら億劫になっていき、

 今では平日は家に帰ってはすぐ寝るだけである。

 休日もほとんど寝て過ごす。

 昼過ぎに起きたあと、ぼんやりとスマホをいじっていると、

 再びやってくる眠気に抗えずうたた寝する。

 そして起きると夕方になっている。


 休日を無駄にしたことへの後悔を胸に夕食を買いに出かける。

 帰宅後はテレビを点けて内容は頭に入ってこないものの、

 一応は目を向けながら夕食を食べ、

 買ってきたつまみとともに缶チューハイを空ける。


 随分と寝てしまったので、夕食後に眠ることができず深夜になっているが、

 アルコールによってようやくやってきた午前3時前後の眠気に身を任せると、

 日曜の昼過ぎになっている。

 慌てて何か有意義なことをしようとするも、

 次の日から再開する仕事のことを考えてしまい悶々としながら、

 何をするでもなく夕方まで過ごす。

 そして、渋々買い物に行き、次の週に備える。


 これは土日に休めているだけまだいい方で、

 ひどいときには土曜日、

 または両日とも仕事が入ることもよくある。


 そんな彼にとって、この通勤時に目に入る足元にあるタイルを目に入れるときだけは、

 将棋のことを思い出すことができ、

 日々の喧騒から遠ざけてくれるのだ。


 儚い幸せは長くは続かない。

 間もなく、会社に入るため地上へ出なくてはならない。

 そうなればこのタイルとはおさらばで、

 辛い辛い現実に迎えられる。


 軽いため息をつき、諦観しながら地下道を出ようとしたときだった。

 頭の中に、いや、体中に何かの衝撃が走った。

 全身の細胞が危険信号を出しているかのような感覚がし、

 怒れる猫のように全身の体毛が逆立つ。


 思わず立ち止まると、周りの人間も同じようで、

 挙動不審に辺りを見回している。


 一刻も早くここから逃げ出す必要がある。

 そうわかっているがなぜか体が動かない。

 金縛り状態のまま数十秒ほど経ったとき、

 周りの景色が、真っ暗闇の中にいくつかの小さな光がわずかに点々している宇宙のような空間になった。

 だが、足元のパネルだけは健在である。

 それはわずかに発光しており、薄く辺りを照らしていた。

 その光のおかげか、ほぼ真っ暗闇のはずだが周りの様子はなぜかわかった。


 どうやらこの場にいるのは自分だけではないようだ。

 みな自分と同じようにこの空間に投げ出されている。


 突然、頭の中にビーーッというブザーのような嫌な音が響く。

 思わず体をビクつかせるのとほぼ同時に、

 足元のパネルのいくつかが翡翠色に発光した。


 何が起こったのか、いや、何が起こるのかまったくわからなかったが、

 本能的にそのパネルの上にジャンプして移動する。


 紀尾が着地した瞬間、翡翠色に発光していないパネルがすべて消えた。

 地下道にいた大勢の人間がこの場にいたが、

 光っているパネルに乗らなかった者はみな、

 おぞましい声を上げながら闇に吸い込まれるように落下して消えていった。


(光るパネルに乗らないと、死ぬ……)

 一度、すべてのパネルが元の薄い発光に戻る。

 数秒後、またもや残っている中のいくつかのパネルが翡翠色に発光した。


 今度は間髪入れずに一番近いパネルを目指して飛び込む。

 なんとか目に入った箇所に飛ぶことができた。

 すると、左方から罵声が聞こえた。


「おい、どけよ!!ここは俺の場所だぞ!!!」


 2人の男が光るパネルのある場所を争っていた。

 2人の付近にはほかに光るパネルはない。

 もう1人の男の肘がその男の顔面に入る。

 もろに鼻に食らい、のけ反って数歩後ずさりする。

 その瞬間、光の薄いパネルがすべて消える。


 肘打ちを食らった男はおぞましい悲鳴を上げながら落下して消えていった。

 数秒後、またいくつかの足場が復活する。


「お、俺は悪くないぞ!!」

 周りにいる他の者がみな肘打ちした男を見つめる。

「俺は生き残るんだ!!

 じ、邪魔するならお前らを蹴落としてでも俺はやるぞ!!」


 だが、そんなことに構っている余裕はない。

 すぐに次のターンが始まる。

 パネルを奪い合う光景も次は我が身である。


 みなが無我夢中で生き残ることを欲し、

 パネルを求めて椅子取りゲームのように辺りを駆け巡った。

 次第に、そのパターンは複雑に、

 かつ急かすように速くなっていく。


 初めは安全なパネルが光るだけだったが、

 それが移動するようになり始める。

 途中、紀尾は焦りのあまり足を絡ませて転ぶが、

 運良く自分の方に光るパネルが移動してきたため、間一髪で助かった。


 次に、すべてのパネルがランダムに点滅するようになった。

 足元が消える瞬間が紀尾にはなんとなくわかったので、

 その直前に付近にあるものに飛び乗る。


 数回これが続いたが、紀尾はまだなんとか生き残っている。


 もう何度もおぞましい叫び声を聞いているが、

 毎回聞く度に全身が震え上がる。

 この先のことなど考えている余裕はなかったが、

 一生耳から離れそうになかった。


 また何人かが脱落し、足元のパネルが復活する。

 いつも10秒ほどのインターバルがあったが、今回はすぐに次が始まった。


 その途端、みなの表情がギョっとする。


 今までのものとはまったく形相が異なっている。

 すべてのパネルが光っている代わりに、

 いくつかのパネルが、縦に長い五角形に変わり、

 その上に「歩」や「香車」、「飛車」と言った文字が浮かんでいた。


(将棋の駒……??)

 これが何を意味しているのか、

 紀尾は直観的に判断し、安(・)全(・)な(・)パ(・)ネ(・)ル(・)を探す。

 付近のどの駒の攻撃範囲に入っていないパネルがあったので、

 いつもしていた妄想に感謝しつつ、ほっと溜息を吐きながら飛び乗る。

 ほかの者もその意図にやや遅れて気付き、安全地帯を探し求める。


 速めに光るパネルを確保できた者はみな、

 まだ確保できていない周囲の者に目を向ける。

 奪われないように注意するという意味もあるが、

 どこからか湧いてくる自分は安全圏にいるという奢りがあり、

 慌てふためく他人を蔑むように眺めることで、

 ほんのわずかな間の優越感を得ることができるというところが大きい。


 紀尾もまた例外でなく、勝ち誇ったような顔でちょうど前方にいるOLを眺めていた。

 そのOLによって遮られていた右方に目を向けると「角」が目に入った。


 それは、ちょうどここを指していた。


 全身から血の気が引いた。

 鳥肌のもう一段階上のぞわぞわとする感覚が胸の内から手足と頭を駆け巡り、体を震わせる。

 驚きのあまり、ヒィという声を出しながら息を吸い込んでしまう。

 またも足を滑らせ転んでしまう。

 手足をつきながら必死に周囲のパネルを目に入れる。

 しかし、頭がまるで回らず、冷静に安全地帯を探すことができない。


 焦りが焦りを生み、初めて受けた面接のときのように頭が空になる。

 だが、一筋の光が差すように、安全そうなパネルを見つける。

 先ほどのように遠くの駒の範囲になっているかはわからないが、

 周囲にはこれしか安全地帯がない。

 藁にも縋る思いでそれに飛び乗ろうとする。


 祈るように着地した瞬間、周囲の足元が消えた。

 地に足がついている感覚がまるでしなかったが、

 おぞましい叫び声を聞き我に返り、無事でいることを確認した。


 地下通路には1000人近くがあの瞬間にはいたはずだったが、

 ここまでで残っているのはほんの10人程度だった。


 最後の試練は、そんな者たちをあざ笑うかのようなものだった。

 生き残っていた者はみな目を見開いた。


 将棋だけでない。

 チェス、囲碁の駒が明確に殺意を持っているかのように大量に配置されている。

 ほとんど空いているパネルがなく、

 シューティングゲームの難易度が急インフレを起こしたように、

 安全地帯がまるで見つかる気がしない。


 周りの者は瞬時に考えた。

 空いているパネルはあるのだ。

 どこかには必ず正解がある。

 逆に考えれば、空いているパネルがほとんどないことは、

 あてずっぽうでも正解になる可能性が高いということだ。


 もう時間が幾秒もないことが直観できたので、

 各々は付近の空いているパネルにすべての命運を賭け飛び乗る。

 しかし紀尾は同じように行動することがどうにも納得できなかった。

 長年将棋をやっていた習慣かプライドか、

 当てずっぽうで駒を指すことが躊躇われる。

 時間は可能な限りギリギリまで使ってもよいのだ。


 残り3秒という限界まで答えを探した。

 そして、時間ギリギリにとある場所へ飛び乗った。

 地に足が付こうかという瞬間、ほかのパネルがすべて消え去った。

 落下して暗闇の呑まれていくおそろしい断末魔の叫び声はもうしなかった。

 代わりに紀尾は、もといた地下街へ戻されていた。


 紀尾が飛び乗ったのは、

 王将の駒の上だった。

 空いているパネルのどこにも正解はなかった。

 自分が詰まれる前に詰めばいい。

 攻撃こそ最大の防御である。


 あまりにも突然に景色が変わったので、

 今のは何かの幻だったのではないかと考えたが、

 やはり周りに人はまったくいない。


 呆然と立ち尽くしていると、誰かが駆け寄ってくる足音がする。


「おめでとう。あなたは生き残りました」


 悲しみと同情を顔に浮かべながら、水岡は紀尾に手を差し伸べた。


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