寺と先輩。
寺に着いたのは、四時を過ぎたころだった。
木立が途切れると、小さな境内に出た。本堂は、思っていたより普通の家に近い大きさだった。軒先には色の褪せた幕が下がっている。
建物の間を抜けた向こうには、墓石がいくつか見えた。
子どものころ、ここは怖い場所だった。
かくれんぼのときにここへ隠れるのは、最終手段だった。僕も一度だけ隠れたことがあるけれど、鬼に見つかるよりも、ここに隠れ続けるほうが怖かったのだ。
名取川さんが相模の写真を一枚取り出した。
本堂と見比べながら、入り口の石柱の横へ戻る。少しかがみ、それからデジカメを構えた。撮影場所がわかったらしい。
僕はその間に、本堂の裏を見に行くことにした。
本堂の前を通ったとき、ちん、と細い音がした。仏壇で鳴らす、あの音だった。
一周して戻ると、名取川さんはデジカメの画面を見ていた。
その隣に立ったところで、
「あの、ちょっといいですか?」
突然、背後から声をかけられた。
「うわーっ!!!」
「あっ、わっ、わっ!」
名取川さんが僕の腕に飛びついてきた。そのまま、ぎゅーっと握りしめられる。ていうか名取川さん、力強っ。僕も無我夢中で彼女の肩をつかむ。何、何、なんだ。
ほとんど抱き合ったまま振り向くと、……作務衣を着た、僕らと同年代の男性が立っていた。背が高くて、髪はふつうに伸ばしている。人の良さそうな顔。
「すみません、驚かせてしまって。……名取川さん、だよね?」
「……上田先輩?」
名取川さんが、小さな声で言った。
そういえば、ここの寺の息子は僕らの一個上の先輩だった。昔、何度か一緒に遊んだ気がする。名前を聞いてから見ると、確かにどこか面影があった。
僕は名取川さんの肩から手を離した。
名取川さんの手は、まだ離れない。まあ、そっちは構わないけど。
「久しぶり。ニュースで見たよ、絵の。まさかここにいるとは思わなくて」
僕の腕をつかんでいた手に、ぎゅーっと力が入った。痛い。
名取川さんは、いつの間にか僕の斜め後ろに移動していた。明らかに隠れている。
「俺、今はここで副住職をしてるんだ。今日はお参り?」
「いえ、そういうわけでは」
代わりに僕が答えると、先輩はこちらへ顔を向けた。
「じゃあ、お茶でも。驚かせたお詫びに」
先輩が平屋のほうへ歩き出す。
ようやく腕が解放されたのでついていこうとすると、今度は名取川さんに袖をつままれた。そっちがいいらしい。
短い廊下を通って、六畳ほどの部屋へ案内される。
先輩が出してくれたお茶は、あったかかった。
ひと口飲むと、舌に薄い渋み。なぜだろう、どこかこの部屋は、相模の葬式の匂いがした。
「……なるほど。相模君の葬儀で久しぶりにこっちへ戻ってきて、それで懐かしい場所を回ることにしたと」
上田先輩は素直に納得したようだった。ちなみに、先輩は僕のことは完全に忘れていた。名前を伝えても、申し訳なさそうに笑っただけだった。遊んだことあるのに。
まあ、名取川さん、人気あったからなぁ。比べたらね、仕方ないね。
「君は何してるの?」
「僕は、刑務所にいます」
「刑務所! すごいな。どこの?」
中核都市にあります、とだけ伝える。あそこに刑務所一個しかないけどね。というか今のやり取りで本当に伝わったのか。まあ、職員側じゃないと今ここにいられないしね?
名取川さんは湯呑みを両手で持ったまま、一言も喋らなかった。スケッチブックは膝の上にあるが、閉じたままだ。
網戸にしてある窓の向こうに、狭い庭が見えた。平たい石の上を、小さな蟻が一匹歩いている。先輩が仕事の話をしている間、僕は何となくその行く先を見ていた。
おっといかん。調査、調査。
「そういえば、相模もこの寺には最近よく来てたみたいなんですけど、先輩は会ったことあります?」
そう聞くと、先輩は少し考えてから答えた。
「そういや、年初めに一度見たなぁ。なんか変なこと聞かれたよ」
「……何て言ってました?」
「先輩は学校で女の子と会ったことはありますか、って。当たり前だろって言ったら、そうじゃないんだって。学校の生徒じゃない女の子に会ったことがあるかって。何言ってるのかわかんなかったなぁ」
隣で、名取川さんが湯呑みを置く音がした。
「え、何? 相模君が追っかけてた女の子、君らも探してんの?」
「ええ、まあ」
「相模君に会ったときも言ったんだけど、俺、何度か地元じゃ見かけない子と遊んだことがあるんだよね。小学生の時って、いっつも何人かで遊ぶじゃん。その中に見知らぬ子がたまに混じっててさ。おかっぱに髪留めつけた、ちょっと年上っぽい、かわいい子」
おかっぱに、髪留め。
僕は、作文に書かれていた「お姉さん」を思い浮かべた。それまでは、なんとなく大人の女の人を想像していたけれど。小学生にとってのお姉さんなら、少し年上というだけでも、そう呼ぶのかもしれない。
ただ、作文には姿について詳しく書かれていなかった気がする。今の話の子が同じ相手なのか、判断する材料はなかった。
「その子について、あと覚えてることってありますか?」
「いや~。もうずっと昔の話だし。あ、でも、その子、俺の初恋の子だったかもしれない」
なんかいらない情報だ。
先輩は懐かしそうに笑い、湯呑みを置いた。
「もしさ、どこの子かわかったら教えてよ。俺も会って思い出に浸りたいし。あ、連絡先教えるからさ」
と言いながら、視線は名取川さんのほうを向いている。
名取川さんは、湯呑みを見ていた。膝の上の手が、割烹着の裾をぎゅっと握っている。あ、めっちゃ嫌そう。
「僕から連絡します。交換しましょう」
「……ん、ああ、悪いな。じゃあそうしてくれる?」
携帯を取り出して、連絡先を交換した。
僕らは暇を告げ、玄関まで見送ってくれた先輩に、もう一度頭を下げた。
寺を出て、林の中の道を歩く。
枝の隙間に見える空が、薄く黄色くなっていた。来るときは道に落ちていた日なたも、今は木の上のほうにしかない。
しばらくして、名取川さんが袖をくいっと引いた。
「さっき、ありがとうございました」
「……ああ」
「面倒そうだったので」
うんわかる。すごく面倒なことになりそうだった。
「僕も全く同じこと思ったからいいよ」
袖をつまんでいた指が離れた。
けれど、名取川さんはまだこちらを見ていた。少しだけ視線を下げて、それから、もう一度口を開く。
「あと……いきなり腕つかんですみませんでした」
髪の間から見えている耳が、ちょっと赤くなっていた。
うーん。名取川さんがびっくりしたのって、先輩が声をかける、僕がびっくりして大声を出す、名取川さんがその大声にびっくりする、の順だったと思うから、どちらかと言えば僕が原因のような気がする。
「なんか、そうなった原因はこっちにあると思うから。僕もつかんじゃったし、ごめん」
名取川さんは少し考えてから、スケッチブックを開いた。
鉛筆がさらさらと動く。
しばらくして、スケッチブックがこちらへ向けられた。
紙の左側に、僕がいた。口を大きく開けて『うわーっ!!!』と叫んでいて、その声が、何本もの線になって右へ飛んでいる。そして、その先では、小さな名取川さんが両手両足を広げて吹っ飛ばされていた。
「いやこれ僕のせいじゃん」
名取川さんが、こくりとうなずいた。
「ごめんて」
名取川さんはスケッチブックをぱたんと閉じた。
そして、こちらをじーっと見上げてくる。
嘘を言っていないかどうか確かめているみたいな顔をしている。何を基準に判定しているのかは、いまだにわからない。
僕もその顔を見返してみた。
すると名取川さんは、少し顎を引く。
「……何ですか」
「いや、何考えてるのかなって」
彼女は一度目を伏せた。
それから、スケッチブックを開いて、さらさらと何か描き始める。
しばらくして、こちらへ向けた。
紙の中では、小さな名取川さんが両手を上げていた。
「……喜んでる?」
「はい」
「何を?」
名取川さんは少し笑った。
「よかった、と」
「だから、何が?」
スケッチブックが閉じられた。
何が、までは教えてくれないらしい。
木の根元の湯呑みは、帰りにも目に入った。
バス停は、小さな商店の向かい側にあった。時刻表を見ると、次のバスまでは、まだ少し時間がある。
……結局、相模が会っていたという女の子には会えなかった。
その代わり、上田先輩から話を聞けた。相模が年の初めから女の子を探していたことと、それに似た子に、先輩も昔会っていたかもしれないこと。それがわかっただけでも前進だろう。
池と公園であったことについては……どう説明すればいいんだろう。
いや、病は気からと聞く。
僕は、嫌な感じを振り払おうとして、わざと明るい声を上げた。
「まあ、思ってたほどのことはなかったね」
「もっと何か、あると思ってました?」
「いや、あってほしかったわけじゃないけど。相模の調べてた場所だし、もうちょっと大変なことになるかも、とは思ってた」
名取川さんは少し考えてから、うなずいた。
「……私もです」
池の水面は変だったし、公園の根も気にはなる。でも、こうして二人とも無事にバスを待っている。池の水が急に真っ赤に染まったわけでも、先輩が刃物を持って追いかけまわしてきたわけでもない。
「このままだと、学校も普通に見て帰るだけかもね」
「そうだといいですね」
名取川さんは小さく笑い、スケッチブックを鞄にしまった。
家に帰り着くと、急に足が重くなった。池に公園に寺。普段、机に向かっている人間には、なかなかの運動量だった。
風呂で温めても、布団に入るころにはまだ、ふくらはぎにだるさが残っていた。足を伸ばし、携帯の目覚ましを確かめてから、明かりを消した。
次は学校か。
道に迷うこともないし、何かあれば先生に聞けばいい。昔の教室を見て、相模と同じ場所で写真を撮って。それで終わりだろう。
名取川さんも、帰りにはほっとした顔をしていた。
たぶん、僕らは少し身構えすぎているのだ。次もきっと、懐かしかったね、と言いながら帰ってくる。
僕は布団の中で寝返りを打ち、目を閉じた。
* * *
気が付くと。
小学生の姿になった僕は、明かりの消えた学校の廊下に、一人で立っていた。
窓の外は暗かった。廊下も真っ暗で、非常口の緑と、火災報知機の赤い灯りだけが、ぼうっと廊下を照らしている。
……このままここにいてはいけない。
そんな妙な焦燥感だけがある。
教室の中からも、階段の下からも、人の声は聞こえなかった。椅子を引く音も、どこかの戸を閉める音もない。
その代わり、廊下の真ん中に、誰かの上履きが片方だけぽつんと落ちていた。
声を出してはいけない、と思った。
声を出したら、その瞬間に何かが決まってしまう。そんな気がした。
僕は上履きの横を通り、階段へ向かった。タタタ、と小走りに歩く音だけが響く。
階段の手すりを握り、一階まで下りる。踊り場にも、下の廊下にも、誰もいない。
右へ曲がれば、下駄箱がある。その向こうが玄関だ。
ところが、角を曲がると、灰色のシャッターが床まで下りていた。
いつも通り抜けていた場所が、すっかり塞がれている。
外へ出るには、ここを通らなければならないのに。
そうしているうちに、嫌な予感だけが、じわじわと広がってきた。ここでいつまでも、立っていてはいけなかった。
振り返ると、廊下が続いていた。廊下の突き当たりは、外へ出るための戸があるはずだ。僕はそちらへ歩いた。
そちらの廊下も、シャッターで塞がれていた。
途中の窓にも手を掛けた。鍵には手が届いたけれど、回そうとしても動かなかった。
階段の前まで戻ったとき、上へ続く段が目に入った。
二階へ行けば、渡り廊下がある。そこから向こうの階段を下りれば、別のところへ出られるかもしれない。
二階の渡り廊下へ出る戸も、閉まっていた。
お腹の奥がすっと冷たくなった。僕が学校の中を行ったり来たりしている間にも、何かが間に合わなくなっていく。
次にどこへ行けばいいのか、もうよく分からなかった。階段を下りても玄関は閉まっている。向こうの戸も開かなかった。
早く。
教室のドアはどれも固く施錠されており、中に入ることはできない。
階段があったので、さらに上った。
三階まで来ると、どうも様子がおかしかった。
真っ暗な廊下。その一番向こう側にある教室の戸口から、白い光が漏れていた。
近づくにつれて、低い音が聞こえてきた。ううん、と、ずっと同じ調子で鳴っていた。
「四年一組」。ドアの上に、札があった。
僕はそこへ手を掛け、教室の中を覗いた。
教室の右奥。後ろの窓の前に、自動販売機が置いてあった。
横っ腹にはメーカーの名前がでかでかと印刷されていて、赤い缶や青い缶、透明なペットボトルが、何段かに分かれて並んでいる。
教室の明かりは消えていて、自動販売機の周囲だけが、白い灯りで照らされている。
何かに誘われるみたいに、僕は教室の中へ足を入れた。
自販機は、僕よりずっと大きかった。
透明な商品窓には、近づいた僕の顔が薄く映っている。
……あれ。何か、書いてある。
飲み物の下の、値段があるところ。
小さな白い四角の中に、細かな文字が並んでいた。数字ではない。僕は少しかがみ、顔を近づけた。
字が小さい。黒い線が潰れ、隣の線と繋がって見えた。目を細めても、何と書いてあるかまでは分からなかった。
隣の飲み物の下にも、同じような印字があった。
その隣にもあった。
端から端まで、小さな文字が並んでいた。
僕はそっと、目を細めた。
あと少しで、読めそうだった。
* * *
目が覚めた。
カーテンの下から、朝の光が入っていた。
僕は布団の中にいた。椅子に掛けた上着と、床に置いた鞄が見えた。窓の外を新聞配達のバイクが通り過ぎていった。
しばらくそのままでいてから、起き上がった。足を床へ下ろすと、すぐに立てた。部屋の戸を開け、廊下を通って玄関へ行った。
鍵を回した。
ドアを押すと、外の空気が入ってきた。夜から朝に移り変わる時の、冷たい匂い。
――「このままだと、学校も普通に見て帰るだけかもね」。
僕自身が言った言葉が、耳の奥に蘇る。
普通に、見て帰るだけ。
……本当に?




