第二章 紛失
夏休みの課題などを入れていた、そのUSBメモリは、誰にもらったものなのかも思い出せない。
黒くて、どこにでもあるような安物のやつだ。
講義の資料やレポート、先輩からもらった過去問。大学生活の「とりあえず全部」が詰まっている、そんな存在だった。
当然、中身を一つ一つ確認することなんて、ほとんどなかった。
新学期が始まり、学校にバイト、サークルに友人との遊び。
いつも通り、忙しい日々が続いていた。
あのファイルのことも、すぐに頭の中から消えた。
ビットコイン。
あの時買った、一万枚のよく分からない電子のコイン。
たまに思い出して、価格を調べることはあった。
けれど、それも長くは続かなかった。
――どうせ大したことないやろ。
どこかでそう決めつけていた。
そもそも、なぜ買ったのかも今となっては曖昧で、夜中のテンションで無駄遣いをしてしまった、くらいに思っていた。
秋口の、講義終わりの教室だった。
「なあ、ゼミの資料貸してくれへん?」
声をかけてきたのは、としひろだった。
高校の頃からの付き合いで、同じ大学に進んだ数少ない友人の一人だ。距離感は近く、遠慮もない。ふざけたやつだ。
「レポート、ちょっと参考にしたいねん」
「休みすぎな?笑 しゃんと単位取れよ」
「おまえの資料じゃ、単位とれなさそうやな!笑」
「うるさいわ!じゃあいらんよな?」
軽く笑いながら、USBを放る。
それだけのやり取りだった。
あまりにも、いつもの日常。何も考えていなかった。
それから数日後。
「ありがとなーレポート提出できたわ、でもUSBなくした」
としひろは、申し訳なさそうに頭をかいた。
「は?」
「いや、マジで。カバンの中には入れたはずやねんけど……」
「お前なぁ……まぁ俺もあのUSB借りパクやった気がするけどな」
「相変わらずのクズ人間!」
「いやいや人のレポート集、丸ごとなくすお前もなかなかやぞ」
「ほんまごめんって!」
「ま、提出終わったもんしか入ってないからええけどな〜」
実際、大した問題ではなかった。
重要なデータはパソコンにも残っていたし、また集めればいい。
それよりも、こいつがそれなりに焦って謝っているのが、少し面白かった。
「まあ、しゃあないな。お前やし」
「それ、どういう意味やねん」
結局、そんな軽口で終わった。
あのUSBの中に、何が入っていたのか。
その時の俺は、まったく気にもしていなかった。
冬が過ぎ、春が来る。
大学生活は相変わらずで、特に大きな変化もなかった。
ある日、ふと思い出したように、ビットコインの価格を調べた。
「……は?まじで?!」
思わず声が漏れた。
一枚七円だったはずのそれが――
七十円になっていた。
単純に計算して、十倍。
「……七十万?」
現実味のない数字だった。
原付ではなく、ちゃんとした単車が買える金額だ。
急に落ち着かなくなった。
英語の情報に四苦八苦しながらも、ビットコインを取り出すには“秘密鍵”が必要だということだけは理解した。
部屋の中を見渡し、引き出しを開け、棚をひっくり返す。
大雑把な俺は、パスワードをメモ書きして適当に置いてしまうこともあった。
パソコンの中のフォルダも、片っ端から確認した。
それらしいファイルは、どこにもなかった。
「……嘘やろ」
自分の大雑把さを、心底悔いた。
なんとなく保存した記憶はある。
だが、それがパソコンなのか、メモ書きなのか、今となっては思い出せない。
「……どこに保存したんやっけ」
小さく呟く。
胸の奥が、わずかにざわついた。
数日後、としひろに会った。
「なあ、あのUSB、ほんまに見つからん?」
「ぁあ、それがな… ないねん!笑」
「ないんかい! ふくみをもたせるな!笑」
「なんかレポートに必要なデータあったん?マジでごめん。探しとく」
「いや、大丈夫!きにせんでえーよ。見つかったら返してや」
「ほんまごめん。夢でもさがしとくわ」
悪びれた様子で肩をすくめる。
その顔を見て、ため息が出た。
「まあ、ええよ」
「ほんまにすまん」
「気にすんなって。俺もちゃんと管理してなかったし」
そう言って、笑った。
USBに保存したという確信はない。
それでも、もしかしたらという思いは、どこかに残っていた。
だが――もう、取り出すことはできない。
七万円が、七十万円になっていたかもしれない。
欲しかったビッグスクーターが買えたかもしれない。
ただ、それだけの話だ。
もらえるはずのなかった金で靴と服を買い、
お釣りをどこかに落とした。
そんな感覚だった。
人生を変えるほどの出来事ではない。
ただの、ちょっとした不運。
そう思い込むことができた。
――この時は、まだ。




