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第1章 購入

第一章 購入


 あの夏の匂いを、いまでも覚えている。

 湿った畳と、どこか甘ったるい線香の香り。窓の外では、蝉がうるさいくらいに鳴いていた。


 大学二回生、十九歳。

 将来のことなんて、ほとんど考えていなかった。


 関西の、いわゆる“Fラン”と呼ばれる大学に通いながら、サークルとバイト、あとは友達との時間で日々を埋めていた。周りから見れば、そこそこ裕福で、何不自由なく楽しそうに生きている大学生。実際、大きな不満もなかった。


 ただ、何かになりたいとも思っていなかった。


 その年の夏、俺は実家で祖父の介護を手伝っていた。

 心筋梗塞の後遺症で半身が不自由になり、本来なら施設に入るはずだった祖父は、「家がいい」と言い張った。


 母はその世話に追われ、父は仕事で家を空けがちだった。兄弟三人の真ん中だった俺は、自然とその役目を引き受けていた。


 夜中、決まった時間に祖父をトイレへ連れていく。

 眠気でぼやけた頭のまま、肩を貸して歩くあの時間は、正直きつかった。


 けれど祖父は、終わるたびに必ず言った。


「すまんな」


 その一言が、妙に残った。


 ある日、そんな生活を見ていた祖父が、封筒を差し出してきた。


「すくないが、お前にやる」


 中には、十万円が入っていた。


「いやお金は受け取れない」


 そう言ったが、祖父は首を振った。


「ええから取っとけ。若い時に使う金は、あとで効いてくる」


 意味はよく分からなかったが、その言葉に押されるようにして受け取った。


 その金で、欲しかった服と靴を買った。

 残ったのが、七万円と少し。


 特に使い道もなく、祖父の介護部屋でパソコンの前に座り、大学の課題をしながら、だらだらとネットを見ていた夜だった。


 海外の掲示板か何かで、見慣れない単語が目に入った。


 “Bitcoin”


 電子の通貨。

 誰にも管理されない金。


「なんやそれ、怪しすぎやろ笑」


 思わず声に出た。


 けれど、不思議と引っかかった。

 根拠なんて何もない。ただ、なんとなく面白そうだと思った。


 なんとなく流行るんちゃうか。

 そんな軽いノリだった。


 今思えば、あまりにも浅い理由だ。


 当時のレートは、一枚数円程度だったはずだ。

 七万円ちょっとで、ちょうど一万枚ほど買える。


 キリがいいな、と思った。


 画面の向こうにある、よく分からない海外の取引サイト。

 少しだけ迷って、でも結局はあぶく銭、ほとんど勢いでボタンを押した。


 それが、すべての始まりだった。


 購入が完了すると、英数字の羅列が表示された。

 “秘密鍵”というらしい。


「なんやこれ……パスワードみたいなもんか?」


 正直、よく分かっていなかった。

 とりあえず大事そうだったので、保存だけはしておこうと思った。


 そのとき、大学のレポートも同時に作業していた。


 複数のファイルをまとめて、USBメモリに入れていた。

 講義の資料や、先輩からもらった過去レポート。そこに、何の気なしにそのファイルも放り込んだ。


 大雑把な性格だ。

 保存先を確認したかどうか、今となっては覚えていない。


 ただ一つ確かなのは――

 その時の俺は、それが何を意味するのか、まったく理解していなかったということだ。


 画面を閉じ、背もたれに体を預ける。


「七万か。ま、ええか」


 その一言で、すべてを片付けた。


 七万円の、よく分からない電子コイン。

 増えたらラッキー、くらいの感覚だった。


 その時の俺はまだ知らない。


 この何気ない選択が、

 この先の人生を、大きく歪めることになるなんて。


 そして――

 自分の手で、それを捨てる日が来ることも。


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