9話
ナージュは、少しだけ困っていた。
ほんの少しだけ、本当に、それだけだった。
「……来ない」
机の上には、今日届いた手紙が何通か置かれている。
父宛てのもの。
教師からのもの。
家臣からの報告。
いつも通りだ。
ただ、一通だけ、ない。
リリーからの手紙。
以前なら、二、三日に一度は届いていた。
『今日は庭に鳥が来ました』
『新しいお菓子を食べました』
『ナージュ様は甘いものは好きですか?』
『次はいつお会いできますか?』
『今日、先生に褒められました』
本当に、返事に困るような内容ばかりだった。
けれど、ナージュは毎回律儀に返していた。
『それは良かったですね』
『甘いものは嫌いではありません』
『次回の面会日は十日後です』
『おめでとうございます』
それで、十分だと思っていた。
けれど、あの日。
『今日は帰ってください』
そう言われてから。
一通も、来なくなった。
「兄上」
声をかけられ。
ナージュは顔を上げた。
ルーシュが扉のところに立っている。
「何ですか」
「さっきから同じ紙見てない?」
「見ていません」
「見てたよ」
「そうですか」
ルーシュが近づいてくる。
そして、机の上を覗き込んだ。
「手紙?」
「違います」
「何が」
「待っているわけではありません」
「……何の話?」
「……」
ナージュは黙った。
ルーシュの目が、少しだけ細くなる。
「リリー殿下から来てないんだ」
ナージュは、答えなかった。
図星だった。
「へえ」
ルーシュが、妙に面白そうな顔をする。
「何ですか」
「別に」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「兄上、気にしてるんだなって」
「気にしていません」
「でも見てたじゃん」
「届いていないことを確認しただけです」
「それを気にしてるって言うんじゃないの?」
ナージュは、少しだけ考えた。
……違う。
たぶん。
「習慣が変わったので、気づいただけです」
「ふうん」
ルーシュは全く納得していない顔だった。
「じゃあ、兄上から出せば?」
ナージュの指が、止まった。
「手紙」
「……」
「兄上から送ったことないんでしょ?」
「ありません」
「じゃあ今送ればいいじゃん」
簡単に言う。
ナージュは、机の上へ視線を戻した。
確かに、それが一番簡単だ。
『先日は申し訳ありませんでした』
そう書けばいい。
あるいは。
『体調はいかがですか』
それでもいい。
きっと、リリーなら返事をする。
たぶん、すぐに。
でも。
「必要ありません」
と答えた。
ルーシュが眉を寄せる。
「なんで?」
「今、僕から近づくのは違うと思います」
「違う?」
「……」
言葉を選ぶ。
リリーは、自分を愛していると言った。
泣きながら。
怒りながら。
あれほど真っ直ぐに。
でも、自分は、同じだけの気持ちを返せない。
好きかと聞かれても。
まだ、分からない。
綺麗だと思う。
話すのは嫌いではない。
笑っているほうがいいとも思う。
けれど、それを、愛していると呼ぶのかは、分からない。
それなのに、寂しいから手紙が来ないから。
そんな理由で自分から近づけば。
また、リリーに期待させるのではないか。
「僕には」
ナージュは静かに言った。
「返せるものがありません」
ルーシュが、少し黙る。
「……好きじゃないってこと?」
「分かりません」
「そればっかりだね」
「分からないものは分かりません」
「でも嫌いじゃない」
「はい」
「気にはなる」
「……」
「今も手紙待ってたし」
「待っていません」
「はいはい」
ルーシュは、肩をすくめた。
ナージュは、少しだけ苛立った。
待っていたわけではない。
ただ、来ると思っていた。
それだけだ。
次の日も、手紙は来なかった。
その次の日も。
さらに。
その次の日も。
ナージュは、毎朝、机の上を見るようになった。
そして、見てから少しだけ自分に腹が立った。
何をしているのだろう。
来なくても困らない。
むしろ、これでいいはずだ。
父からは、深入りするなと言われている。
婚約はいずれ、解消される予定だ。
リリーが、自分から少し距離を取るのなら。
それは、むしろ都合がいい。
傷つくことも減る。
自分も余計な情を持たずに済む。
そう、これでいい。
なのに。
ある日。
剣術の稽古を終えたあと。
ふと、思った。
――今日は何をしているのだろう。
すぐに、思考を止めた。
どうでもいい。
いや、どうでもよくはない。
でも、知る必要はない。
昼食のとき。
焼き菓子が出た。
以前、リリーが。
『これ、美味しいですよ』
と押しつけるように渡してきたものと。
よく似ていた。
ナージュは、一つ取る口に入れる。
少し甘い。
――あれのほうが美味しかった。
また、思い出した。
今度は、すぐには消えなかった。
夕方。
父から。
今後の予定について話をされた。
「次の面会日はどうする」
ナージュは、ほんの一瞬、答えに詰まった。
「……予定通りで構いません」
「そうか」
父は、それ以上気にしない。
ナージュも、そうするつもりだった。
予定通り。
会う。
ただ、リリーが、会いたいと思っているか。
それが少しだけ気になった。
そして。
そのこと自体が、少しだけ面倒だった。
数日後。
ナージュは王宮へ出向いた。
父の用事に付き添って。
本宮へ入る。
離宮へ行く予定はない。
だから、リリーに会うことも、ないはずだった。
それなのに、廊下を歩いている途中で。
ふと。
聞こえた。
「最近、リリー殿下をよく図書館でお見かけするわ」
使用人たちの声。
ナージュの足が、少しだけ遅くなる。
「本当に?」
「ええ。毎日のように」
「何を読んでいるの?」
「エルディアについての本ばかりらしいわ」
「エルディア?」
「言葉まで勉強されているとか」
「珍しいこともあるものね」
ナージュは、前を向いたまま、その会話を聞いた。
エルディア。
なぜ。
リリーが、今まで彼女から届く手紙には、そんな話は一度もなかった。
花。
菓子。
本。
鳥。
自分との次の面会。
そればかりだった。
エルディアの話など、聞いたことがない。
「兄上?」
隣を歩いていたルーシュが、こちらを見る。
「何ですか」
「今、止まりかけた」
「止まっていません」
「リリー殿下の話聞いてたでしょ」
「聞こえただけです」
「ふうん」
また、その顔、ナージュは少しだけ、視線を逸らした。
図書館。
エルディア語。
何のために。
少しだけ気になった。
でも、それを尋ねる理由はない。
彼女が何を学ぼうと自由だ。
それに、こちらから近づくべきではない。
そう思った。
思ったのに。
その日の夜。
ナージュは、机に向かっていた。
白紙の便箋。
筆記具。
目の前に、置いてある。
何も、書いていない。
『お元気ですか』
違う。
『最近、図書館へ通っていると聞きました』
誰から聞いたのか不自然だ。
『エルディアについて学んでいるのですか』
もっと。
不自然。
そもそも。
なぜ。
聞く。
ナージュは筆を置いた。
「……必要ない」
小さく言う。
便箋を引き出しへしまう。
それで、終わりにした。
はずだった。
けれど、眠る前、一度だけ考えた。
以前なら、リリーのほうから話していただろう。
『ナージュ様、エルディアって知っていますか?』
『今日、言葉を一つ覚えたんです』
『聞いてください』
きっとそんなふうに。
少しうるさいくらいに。
楽しそうに話しただろう。
なのに、今は何も知らない。
それが、ほんの少し寂しいような気がした。
けれど、ナージュはその感情に、名前をつけなかった。




