8話
それから、リリーは図書館へ通うようになった。
最初の頃はそれだけでも、少し騒ぎになった。
「……リリー殿下?」
王宮図書館の司書が、珍しいものでも見るような顔をした。
「はい」
「こちらへは……」
「本を借りに来ました」
「それは見れば分かりますが」
困惑される。
無理もない。
リリーはこれまで、授業で指定された本を取り寄せてもらうことはあっても、自分から王宮図書館へ足を運んだことなどなかった。
そもそも、離宮からほとんど出ない皇女なのだ。
「何をお探しでしょうか」
「エルディアについて書かれたものを」
司書が少し驚く。
「エルディア王国、ですか?」
「はい」
「歴史でしょうか」
「それも」
「……それも?」
リリーは指を折った。
「歴史と、地理と、交易。それから宗教、食文化、衣服、祭事、王族について」
司書が黙る。
「あと、言葉も」
「……言葉?」
「エルディア語の辞書はありますか?」
しばらくして、司書は、
「少々お待ちください」
とだけ言って奥へ消えていった。
その日、リリーの前には十冊を超える本が積まれた。
「……多い」
自分で頼んだのに、思わず呟く。
一番上にあるのは。
『エルディア王国史』
その下には。
『北西諸国の交易と港湾』
『エルディア民俗誌』
『王家と古き信仰』
『エルディア語基礎文法』
『エルディア・アルヴェリア対照辞典』
そして、明らかに子ども向けではない、分厚い外交資料まである。
リリーは、一冊目を開いた。
三十分後。
「……分からない」
机に突っ伏した。
難しい。
ものすごく難しい。
国の歴史なら、まだ読める。
でも。
交易。
税。
輸送路。
関税。
港湾協定。
軍事条約。
知らない言葉が、次から次へと出てくる。
「マーサ……」
思わず名前が漏れる。
すると。
「呼びました?」
真後ろから声がした。
リリーは飛び上がった。
「っ、いつからいたの!?」
「少し前から」
「声かけてよ!」
「殿下が『分からない』『難しい』『何これ』と一人で忙しそうだったので」
「見てたの?」
「ええ」
「助けてよ!」
マーサは鼻を鳴らした。
「自分で調べると言ったのは殿下でしょう」
「そうだけど!」
「まず自分で悩みなさい」
厳しい。
リリーは、開いた本を指差した。
「この『優遇関税』って何?」
「その前に関税は分かります?」
「……なんとなく」
「分かってませんね」
「マーサ」
「はいはい」
そうやって、少しずつ覚えていった。
最初は、エルディアがどこにあるか。
何が採れるか。
どんな土地なのか。
そんなところから。
エルディアはアルヴェリアより、冬が長い。
山が多く。
農業に向く土地は限られている。
その代わり、海に面した港が発達していた。
船。
交易。
加工品。
ガラス工芸。
織物。
それらは、エルディアの強みだった。
「鉱物は?」
リリーが尋ねる。
「少ないですね」
マーサが答える。
「全くないわけではありませんが、アルヴェリアほどではありません」
「じゃあ」
リリーは。
地図と本を見比べる。
「うちの鉱物と」
「ええ」
「エルディアの港と船」
「……」
「相性、いいんじゃない?」
マーサの眉が、ほんの少し上がった。
「誰かに教わりました?」
「今、考えた」
「そうですか」
「違う?」
「いいえ」
マーサは本を閉じる。
「昔から、その話はあります」
「あるの?」
「アルヴェリアの資源を、エルディアの海運網に乗せる」
「だったら、どうしてやらないの?」
「外交というのは」
また始まった。
「『得だからやりましょう』だけで進めば、誰も苦労しません」
「……はい」
「過去の関税問題。エルディアと我が国の商人同士の対立。王家同士の関係」
「うん」
「それに」
マーサが地図の一国を指す。
ヴァルグ。
「こちらが嫌がります」
リリーの顔から、少しだけ笑みが消えた。
ヴァルグは、アルヴェリアの鉱物を欲しがっている。
そこへ、アルヴェリアとエルディアの結びつきが強くなれば。
当然、面白くない。
でも。
――だからこそ。
意味がある。
「もっと知りたい」
リリーは言った。
「エルディアのこと」
「そう言うと思いました」
そこから、リリーの図書館通いは本格的になった。
朝。
授業を受ける。
昼食。
午後。
時間が空けば図書館。
歴史書を読む。
地図を見る。
交易記録を写す。
分からない言葉に印をつける。
そして夜、マーサに聞く。
「これは?」
「海上封鎖」
「これは?」
「不可侵条約」
「これは?」
「婚姻外交」
ぴたり。
リリーの手が止まった。
「……婚姻」
「殿下」
「分かってる」
マーサが何も言う前に。
リリーはページへ視線を戻した。
ナージュとの婚約。
以前なら、その言葉だけで胸がいっぱいになった。
今は、少し違う。
婚約とは、好きな人と結婚する約束。
そう思っていた。
けれど国にとっては、もっと別の意味がある。
家を繋ぐ。
国を繋ぐ。
利益を得る。
相手を縛る。
そして時には、力を持たせすぎないために相手を選ぶ。
自分とナージュがそうだったように。
リリーは、少しだけ唇を噛んだ。
それでも、本を閉じなかった。
知らなければ。
また、誰かに決められる。
何も知らないまま。
どこかへ送られる。
それだけは。
嫌だった。
そして、もう一つ。
リリーが、特に力を入れ始めたものがあった。
エルディア語。
「……難しい」
初日から、早速躓いた。
文字からして、アルヴェリア語とは違う。
似ているものもある。
けれど、発音が違う。
語順も少し違う。
同じ意味でも、身分や関係によって言葉遣いが変わる。
「なんで『あなた』だけで三種類あるの?」
リリーが頭を抱える。
「それを私に言われても」
マーサは茶を飲んでいる。
「マーサ、話せる?」
「少し」
「少しってどれくらい?」
「市場で値切れる程度」
「十分じゃない?」
「王族と外交するには全く足りません」
リリーは、エルディア語の本へ視線を戻した。
『こんにちは』
声に出してみる。
「発音が違います」
マーサ。
「どこ?」
「そこです」
「そこってどこ」
「最初」
「全部じゃない!」
「そうとも言います」
それでも、諦めなかった。
一日。
五つ。
新しい単語を覚える。
翌日は。
前日の五つを復習して。
また五つ。
最初は、文字を追うだけで精一杯だった。
一ヶ月後。
簡単な挨拶が読めるようになった。
二ヶ月後。
子ども向けの物語なら、辞書を引きながら読めるようになった。
三ヶ月後。
短い文章なら、自分でも書けるようになった。
「……綴りが三つ違います」
マーサが赤い線を引く。
「三つだけ?」
「喜ぶところではありません」
「前は八つだった」
「比較対象がひどいんですよ」
でも、リリーは嬉しかった。
少しずつ、分かることが増えていく。
最初は、ただ夢の未来を避けたかった。
ヴァルグと戦争にならないように。
自分が人質に送られないように。
そのために、エルディアと友好を築けたら。
ただ、それだけだった。
けれど知れば知るほど、エルディアという国そのものが、面白くなっていった。
春の終わり。
雪解けを祝う祭りがある。
その日は、家々の窓に青い布を飾る。
遠くへ旅立つ人には、小さな銀の鈴を渡す。
無事に帰ってくるように。
客を家に迎えるときは。
パンを割って、最初の一片を客へ渡す。
それは。
『あなたを敵とは見なさない』
という意味を持つ。
「……素敵」
リリーは本を読みながら呟いた。
エルディアでは、星を大切にする文化もある。
冬の夜が長いから。
昔から。
星を見て方角を知り、船を進めた。
だから、星は帰る道を示すもの。
王家の紋章にも、星が使われている。
「アシェル王子も」
ページをめくる。
第二王子。
アシェル・エルディア。
詳しい記述は少ない。
王太子である兄とは違い。
外交の場に出ることも。
まだ、ほとんどない。
ただ、王族紹介の古い記録に一つだけ、書かれていた。
『第二王子は幼少より語学に優れ、諸国の歴史を好む』
リリーは。
そこを、何度か読み返した。
語学。
歴史。
「……話が合うかもしれない」
ぽつり。
「何です?」
向かいで書類を読んでいたマーサが顔を上げる。
「何でもない」
「アシェル王子のページを見ながら言いましたね」
「言ってない」
「言いました」
「聞こえたなら聞かないでよ」
マーサは、じろりとリリーを見る。
「殿下」
「分かってます」
「まだ言ってません」
「勝手に手紙を書かない、でしょう?」
「よく分かっているじゃありませんか」
「書きません」
「本当に?」
「……今は」
「殿下」
「書かないってば!」
でも、少しだけ考えてしまった。
もし。
いつか。
エルディアの人と話す機会があったら。
そのとき、相手の言葉で挨拶ができたら。
相手の国の祭りを知っていたら。
好きな食べ物や。
大切にしているものを。
知っていたら。
少しくらい、話しやすくなるのではないだろうか。
国同士のことは、リリーにはまだ分からない。
でも、マーサが言った。
外交をするのは、人間だ、と。
だったら、相手を知ろうとすることは無駄ではない。
「……よし」
リリーは。
新しい紙を取り出した。
今日覚えるエルディア語。
十個。
「五個じゃなかったんですか?」
「増やす」
「急に張り切ると続きませんよ」
「じゃあ七個」
「中途半端ですね」
「うるさいなあ」
マーサは呆れた顔をしながら、少しだけ笑った。
それから。
ふと机の上を見る。
エルディアの歴史書。
地理書。
語学書。
文化についての本。
以前なら、そこにはナージュから返ってきた手紙が置かれていた。
何度も読み返すために。
今。
リリーの机の上に。
ナージュの手紙はない。
なくなったわけではない。
引き出しの中に、大切にしまってある。
好きではなくなったわけでもない。
会えば。
きっと。
まだ胸が苦しくなる。
でも、彼だけを見ていた時間が。
少しずつ減っていた。
そして、リリー自身は、まだ気づいていなかった。
王宮図書館で、毎日のように異国の本を抱えて歩き、誰にも教えられていない言葉を一人で覚え、難しい歴史書に何時間も向き合う小さな皇女の姿を。
少しずつ周囲の人間が、見るようになっていたことを。




