7話
それから数日。
マーサは、本当にいろいろなことを教えてくれた。
最初に持ってきたのは。
分厚い貴族名鑑でも。
難しい政治書でもなく。
一枚の大きな地図だった。
「まず、自分の国がどこにあるのかくらい知りなさい」
「それは知っています」
「地図の真ん中を指せる程度でしょう」
「……」
否定できなかった。
大きな机いっぱいに地図を広げる。
中央にあるのが。
リリーたちの暮らす王国――アルヴェリア。
北には山脈。
西には海。
そして東と南には。
いくつもの国が国境を接していた。
マーサは。
一つずつ。
指を置いていった。
「ここ。レスティア王国」
「友好国ですね」
「ええ。長く交易を続けています。大きな問題もない」
「こちらは?」
「ベルネス公国。小国ですが、こちらとも関係は悪くありません」
「じゃあ、味方?」
リリーが尋ねると。
マーサはすぐに首を振った。
「国同士に“お友達”なんて考え方を持ち込まないことです」
「……」
「今は利害が合っている。それだけです」
「言い方が怖い」
「現実はもっと怖いですよ」
さらりと言われた。
それから。
マーサの指が。
アルヴェリアの東側へ移った。
そこには。
広い国土を持つ国がある。
「ヴァルグ帝国」
その名前を聞いた瞬間。
リリーの身体が固まった。
知らないはずなのに。
知っている。
暗い石の部屋。
鉄格子。
聞き慣れない言葉。
粗末な食事。
夢の中で。
自分が送られた国。
――敵国。
指先が。
冷たくなる。
「殿下?」
マーサが顔を覗き込んだ。
「……何でもない」
「顔色が悪いですよ」
「大丈夫」
リリーは。
膝の上で手を握りしめた。
「この国とは……仲が悪いの?」
「今すぐ戦争になるほどではありません」
マーサは地図を見ながら答える。
「ですが、ここ数年で摩擦は増えています」
「どうして?」
「資源です」
やっぱり。
その言葉が出た。
アルヴェリアは。
特殊な鉱物を豊富に産出する。
武器にも。
道具にも。
建築にも使える。
国を豊かにしている。
重要な資源。
「ヴァルグ帝国にも鉱山はあります」
マーサは言う。
「ですが、質が違う」
「うちの国のほうがいい?」
「格段に」
「だから欲しいんだ」
「そういうことです」
マーサは少しだけ目を細めた。
「ヴァルグは近年、軍備を拡大しています。人口も多い。土地も広い」
「……強い国?」
「強い国です」
その答えが。
リリーの胸を重くした。
夢で見た未来が。
ただの夢なら。
こんな偶然。
あるのだろうか。
資源を巡って。
今すでに摩擦がある国。
その国と。
未来で戦争になる。
リリーは。
地図から目を離せなかった。
「もし」
小さく尋ねる。
「この国と戦争になったら、アルヴェリアは勝てる?」
マーサが。
少しだけ眉を上げた。
「ずいぶん物騒な質問をしますね」
「もしもの話」
「そうですねえ」
マーサは腕を組んだ。
「単純な軍事力だけなら、楽な相手ではありません」
「負ける?」
「そこまで簡単でもありません。こちらにはフロイト家があります」
ナージュ。
ルーシュ。
ルカーシュ。
また。
フロイト家の名前が出る。
「軍事力だけでなく、資源と技術もある。簡単に攻め込める国ではありません」
「じゃあ大丈夫?」
「だから、そう簡単な話ではないと言っているでしょう」
マーサがぴしゃりと言った。
「戦争というのは、二国だけで決まるものではありません」
「……?」
「どことどこが味方するか。誰が物資を売るか。どの国が道を貸すか」
マーサは地図の上を指でなぞる。
「それで、いくらでも状況は変わります」
リリーは。
じっとその指を追った。
二国だけでは。
決まらない。
なら。
「アルヴェリアには、ヴァルグを止めてくれる国はいないの?」
「現在は、決定的なところはありません」
「現在は?」
その言葉に。
リリーが反応した。
マーサの指が。
今度はヴォルク帝国のより東南へ移った。
アルヴェリアから。
離れたところ。
海を挟んだ先に。
一つの国がある。
「エルディア王国」
「……ここ?」
「ええ」
「友好国?」
「いいえ」
「敵?」
「それも違います」
「じゃあ何?」
マーサが。
少し考えた。
「これから、友好を築きたい国」
その言葉に。
リリーは顔を上げた。
「築きたい?」
「王宮内では、そう考えている者が多いようです」
「どうして?」
「位置がいい」
地図を見る。
エルディアは。
ヴァルグ帝国の東南側に位置している。
アルヴェリアとは。
直接国境を接していない。
けれど。
ヴァルグから見れば。
反対側にある国だった。
「ヴァルグ帝国は、エルディアとも仲がよくありません」
マーサが説明する。
「昔から国境地帯で小さな衝突を繰り返しています」
「じゃあ」
リリーの目が。
少しずつ大きくなる。
「アルヴェリアとエルディアが仲良くなったら?」
マーサが。
リリーを見る。
「ヴァルグにとっては、面倒でしょうね」
「……」
「東と西。両方に敵対する可能性のある国を抱えることになる」
胸の奥で。
何かが。
かちり、と嵌まった。
「それなら」
リリーは。
地図に身を乗り出した。
「ヴァルグは、アルヴェリアに戦争を仕掛けにくくなる?」
「可能性はあります」
「本当に?」
「外交はそんなに単純ではありませんよ」
マーサは釘を刺す。
「エルディアがこちらのために戦う保証などありません」
「でも」
「ええ」
マーサは。
小さく頷いた。
「少なくとも、牽制にはなります」
――牽制。
その言葉が。
リリーの中に残った。
夢の中。
自分は。
戦争が起きたあと。
敵国へ人質として送られた。
なら。
戦争そのものが。
起こらなければ。
あるいは。
起こったとしても。
こちらが簡単に不利にならなければ。
自分が。
あの国へ送られる未来も。
なくなるのではないか。
「……マーサ」
「何です」
「もし」
リリーは。
ゆっくりと言った。
「エルディアと、もっと強い友好関係を結べたら」
「はい」
「ヴァルグとの戦争を防げる?」
マーサは。
すぐには答えなかった。
「防げる、とは言えません」
やがて。
慎重に言う。
「ですが」
地図の。
ヴァルグとエルディアの間を指す。
「戦争を起こす側に、“今はやめておこう”と思わせる材料にはなります」
リリーは。
息を呑んだ。
――今はやめておこう。
それで。
いいのではないか。
永遠に。
戦争をなくす必要なんてない。
少なくとも。
自分が。
人質として送られる未来を。
少しでも。
遠ざけられれば。
「……友好って」
「はい?」
「どうやって築くの?」
マーサが。
怪訝そうな顔をした。
「殿下」
「何?」
「まさか」
「……」
「十一歳のあなたが、国交をどうにかしようとしているわけではありませんよね?」
リリーは黙った。
「殿下」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っています」
「そんな顔してない」
「しています」
マーサは。
盛大にため息をついた。
「いいですか」
指を一本立てる。
「国家間の友好というのは、子どもが『仲良くしましょう』と言って成立するものではありません」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「分かってませんね」
即答された。
それでも。
リリーの目は。
エルディアから離れない。
「でも」
ぽつりと言う。
「何かあるでしょう?」
「何がです」
「きっかけ」
マーサが黙る。
「いきなり国同士で仲良くなるんじゃなくて」
リリーは。
考えながら話す。
「誰かが話したり」
「……」
「手紙を送ったり」
「……」
「何かを贈ったり」
「……」
「そういうところから始まるんじゃないの?」
マーサの目が。
少しだけ変わった。
「まあ」
渋々。
「間違ってはいません」
「ほら」
「調子に乗らない」
「はい」
「ですが」
マーサは。
地図から手を離した。
「外交というのは、人がするものです」
「人?」
「国と国が話すように見えても」
マーサは言う。
「実際に会うのは、人間です」
「……」
「王と王」
「……」
「大使と大使」
「……」
「皇子と皇女」
そこで。
リリーが。
顔を上げた。
マーサも。
口にしてから。
少し嫌な顔をした。
「……今のは忘れなさい」
「皇子と皇女」
「忘れなさいと言いました」
「エルディアには皇子がいるの?」
「殿下」
「何歳?」
「聞かない」
「マーサ」
「知りません」
「絶対知ってる顔」
「六十年生きていれば顔くらい作れます」
「教えて」
「嫌です」
「お願い」
「その顔をしても駄目です」
「マーサ」
「……」
根負けした。
ものすごく嫌そうに。
「います」
「何歳?」
「殿下と同じ歳です」
「……同じ?」
「今年で十二歳」
リリーは。
地図を見る。
十二歳。
「どんな人?」
「知りません」
「本当に?」
「本当です」
マーサは腕を組んだ。
「王太子ではありません。第二王子です」
「第二王子」
「名はアシェル」
「アシェル……」
聞いたことのない名前。
当然だ。
今まで。
国外の王族など。
授業で名前を覚える程度だった。
けれど。
今は。
その名前が。
妙に重く感じられた。
「その人と仲良くなれば」
「殿下」
「まだ何も言ってない」
「言う前に止めています」
マーサは眉間を押さえた。
「いいですか」
「はい」
「殿下が個人的に第二王子と仲良くなったところで、国家間の関係がすぐ変わるわけではありません」
「うん」
「むしろ勝手に接触すれば、別の問題が起きます」
「うん」
「あなたは一応、皇女です」
「一応って言った」
「今そこはいいんです」
マーサは。
じろりと睨んだ。
「勝手なことはしない」
「しません」
「本当に?」
「……たぶん」
「殿下」
「しません!」
マーサは。
明らかに信用していない顔をした。
それでも。
リリーの中には。
小さな考えが生まれていた。
もし。
夢の未来が。
本当に起こるのなら。
ただ。
逃げるだけでは。
駄目なのかもしれない。
ナージュとの婚約を。
どうにかすることだけではない。
自分が。
生き残れる国を。
作らなければ。
もちろん。
十一歳の自分に。
戦争を止める力なんてない。
軍を動かすことも。
条約を結ぶことも。
できない。
ナージュが以前。
父の判断に従うしかないと思っていたように。
今のリリーにだって。
できることは。
ほとんどない。
でも。
――ほとんど。
何もない。
とは。
少し違う。
「マーサ」
「今度は何です」
「エルディアのこと」
「……」
「もっと教えて」
マーサが。
じっとリリーを見る。
「何を知りたいんです」
「全部」
「またそれですか」
「王様がどんな人で」
指を折る。
「何を売っていて」
「……」
「何を欲しがっていて」
「……」
「ヴァルグとどうして仲が悪くて」
「……」
「アルヴェリアとは、どうしてまだ仲良くないのか」
マーサは。
少しだけ目を細めた。
以前。
ナージュのことを追いかけていたリリーとは。
違う質問だった。
好きな人に。
どうすれば振り向いてもらえるか。
ではなく。
自分が。
どうすれば生き残れるか。
そのために。
何を知るべきか。
「……やれやれ」
マーサが立ち上がる。
「今度は何を持ってくるの?」
「交易記録」
「また難しそう」
「外交文書の写し」
「……もっと難しそう」
「あと、エルディアの王族名鑑」
リリーの顔が。
少し明るくなる。
「アシェル王子も載ってる?」
マーサが。
ぴたりと止まった。
「そこだけ楽しそうな顔をするんじゃありません」
「してない」
「しています」
「してないってば」
「まったく」
ぶつぶつ言いながら。
マーサは部屋を出ていった。
一人残されたリリーは。
もう一度。
地図を見る。
アルヴェリア。
ヴァルグ。
そして。
エルディア。
指先で。
三つの国を順番に辿る。
夢では。
誰も。
自分を助けてくれなかった。
なら。
助けてもらえる場所を。
今から。
作ることはできないだろうか。
そんな。
十一歳の少女には。
あまりにも大きな考え。
けれど。
その日。
リリーは初めて。
未来から逃げるのではなく。
未来を変える方法を。
自分から探し始めた。




