6話
夢から覚めたあと。
リリーは、しばらく動けなかった。
窓の外が少しずつ白み始めても。
侍女が朝の支度に来ても。
ずっと。
夢の中で聞いたナージュの声が、耳から離れなかった。
『もともと婚約を解消する予定でしたので』
『問題ありません』
夢だ。
ただの夢。
そう言い聞かせても。
妙に引っかかった。
――もともと。
どうして。
夢の中のナージュはそんなことを言ったのだろう。
昨日、自分はナージュと喧嘩をした。
きっと、そのせいで。
不安が夢になっただけ。
そう考えれば簡単だ。
けれど本当に?
リリーは、胸元のペンダントを握った。
考えてみれば自分は何も知らない。
どうしてナージュと婚約したのだろう。
婚約が決まったと聞いたとき。
嬉しくて。
嬉しくて。
理由なんて考えもしなかった。
お母様が結んでくださった縁だ。
そんな子どもじみたことさえ本気で思っていた。
けれど皇族の婚姻がそんな理由で決まるはずがない。
リリーにだって皇女として最低限の教育は施されている。
歴史。
礼儀作法。
諸外国について。
王侯貴族の家系。
政治についても、ごく基本的なことなら学んでいる。
けれど自分自身については何も教えられていなかった。
自分が王宮でどんな立場にいるのか。
どうして離宮で暮らしているのか。
なぜほとんど式典に呼ばれないのか。
どうして。
使用人たちが自分を軽んじるのか。
誰も。
きちんとは説明してくれなかった。
母の身分が低かったから。
皇后に嫌われているから。
そのくらいは知っている。
でもそれがどれほどの意味を持つのかリリーは知らなかった。
そしてナージュとの婚約についても。
「……知らなければ」
ぽつりと声が落ちる。
知らなければいけない。
もしあの夢がほんの少しでも自分の未来に関係しているのなら。
その前にまず今の自分がどこに立っているのかを知らなければ。
けれど誰に聞けばいいのだろう。
教師には聞けない。
父である皇帝など、なおさらだ。
そもそも。
会えることのほうが珍しい。
離宮の使用人たちに尋ねても。
まともに答える者などいないだろう。
リリーは考えた。
そしてたった一人。
顔が浮かんだ。
「……マーサ」
呼ぶと。
しばらくして。
ものすごく嫌そうな顔をした老婆が部屋へ入ってきた。
「何ですか、朝っぱらから」
「朝っぱらって……」
「朝っぱらは朝っぱらです。年寄りは朝が早いと思って、何時でも呼んでいいわけではありませんよ」
「まだ何も言っていないのに」
「殿下がわざわざ私を呼ぶときは、だいたい面倒事でしょう」
「……」
言い返せない。
マーサは六十を少し過ぎたくらいだろうか。
白髪の混じった髪をきっちりまとめいつも眉間に皺を寄せている。
昔から離宮にいる侍女だ。
けれどリリーの世話を甲斐甲斐しく焼くわけではない。
着替えを手伝ってくれることも。
毎日話し相手になってくれることもない。
普段はむしろ距離を取っている。
けれど本当に困ったときだけ。
なぜか現れる。
幼い頃。
熱を出したのに医師がなかなか来なかったときも。
食事の中に傷んだものが混ざっていたときも。
冬場、離宮の暖炉用の薪が減らされたときも。
いつの間にかマーサが全部どうにかしていた。
誰に頼んだのか。
誰を脅したのか。
リリーは知らない。
尋ねても。
『年寄りには年寄りのやり方があるんです』
で終わる。
優しい人かと聞かれれば。
たぶん優しくはない。
少なくとも本人は絶対に認めないだろう。
「それで」
マーサが腕を組む。
「何をやらかしました?」
「やらかしてません」
「では泣きましたか」
「……」
「泣いたんですね」
「どうして分かるの?」
「目が腫れてます」
あっさり言われた。
「ナージュ様と喧嘩しました」
「ほう」
驚きもしない。
「ようやくですか」
「ようやく?」
「殿下はあの坊ちゃん相手になると、何でも『そうですよね』で飲み込んでいましたからね」
「……見てたの?」
「嫌でも目に入ります」
マーサは鼻を鳴らした。
「毎回毎回、尻尾があったら千切れるんじゃないかというほど喜んで迎えに行って」
「そんなことしてません!」
「似たようなもんです」
ひどい。
でも今日はそれを話したいのではない。
リリーは姿勢を正した。
「マーサ」
「はい」
「教えてほしいことがあります」
その声でマーサの顔から、ほんの少しだけからかうような色が消えた。
「私とナージュ様は」
リリーは言った。
「どうして婚約したの?」
マーサが黙った。
その沈黙だけで。
胸がざわついた。
「……そんな顔をしないで」
「どんな顔です」
「言いたくない顔」
「言いたくありませんからね」
「どうして?」
「十一歳の子どもが知らなくていいことだからです」
「私は皇女です」
「そうですね」
「なら、知っておくべきでしょう?」
マーサはしばらくリリーを見つめた。
「誰に何か言われましたか」
「言われてない」
「では、なぜ突然そんなことを?」
リリーは迷った。
夢のことを言うべきだろうか。
でもまだ自分でも信じられていない。
だから首を振った。
「知りたくなっただけ」
「嘘が下手ですね」
「……」
「まあいいでしょう」
マーサは深いため息をついた。
そして、近くの椅子を引く。
「座りなさい」
「座ってるけど」
「心の準備の話です」
「……はい」
マーサも向かいに腰を下ろした。
「まず」
マーサの声が、少し低くなる。
「フロイト家がどういう家か、ご存じですか」
「名門で……政治との繋がりが強い家」
「三十点」
「低い」
「高くつけたほうです」
むっとする。
マーサは続けた。
「今のフロイト家は、単に長く続く名門ではありません」
「……」
「これからの時代を支える家として、すでに王宮の中でも重要視されています」
リリーは瞬きをする。
「そこまで?」
「そこまでです」
まず。
長男。
ナージュ・フロイト。
「……」
リリーは黙って聞く。
「ナージュ様は、学問だけではありません。判断力、統率力、政治的な能力。すでに上層部からも高く評価されています」
「……」
「将来的には、国の中枢に入る可能性が高いでしょう」
ナージュ様。
自分が知っている彼とは、少し違って見える。
いつも穏やかで。
本を読んでいて。
自分の話を静かに聞いてくれる。
そんな人。
「歴代のフロイト家でも、群を抜いて優秀だと言われています」
「ナージュ様が?」
「殿下は顔しか見ていなかったんですか」
「ちゃんと他も見てます!」
「なら結構」
マーサは容赦がない。
「次に、弟のルーシュ様」
「あの意地悪な子」
「殿下より年下に言い負かされてどうするんです」
「言い負かされてない!」
「剣術の才に関しては、ナージュ様以上とも言われています」
「……え?」
リリーは驚いた。
あの。
ちょっと生意気で。
自分に。
『兄上のこと追いかけて疲れませんか』
などと言ってきた少年。
「すでに王宮騎士の何人かが、あの年齢では考えられないと評価しています」
「……そんなにすごいの?」
「口は悪いですが」
「やっぱり悪いんだ」
「そこは否定しません」
そして。
三男。
ルカーシュ。
「こちらはまた、毛色が違います」
「どんな子?」
「変人です」
「そこから?」
「褒めています」
絶対に違う。
ルカーシュは剣より鉱石と道具を好んだ。
この国で産出される特殊な鉱物。
武器。
農具。
採掘道具。
輸送器具。
それらを組み合わせ。
幼い頃から新しい仕組みを作り出している。
「この国にとって鉱物資源がどれだけ重要かは?」
「習いました」
「なら分かるでしょう」
リリーは頷いた。
鉱物はこの国最大の資源だ。
武器にもなる。
輸出品にもなる。
国を支える。
まさに根幹。
「ルカーシュ様の発明が実用化されれば、軍事も産業も変わると言う者までいます」
「……」
「長男は統率と頭脳。次男は剣。三男は技術」
マーサは三本の指を立てた。
「フロイト家の次世代は」
静かに言う。
「次の国の要です」
リリーは。
何も言えなかった。
知らなかった。
ナージュが優秀なのは知っていた。
でも。
そんな。
国の将来にまで関わる人だなんて。
「だから」
マーサの声が。
さらに低くなる。
「皇族としては、この名家の扱いに困りました」
「……困った?」
「強すぎる家というのは、便利であると同時に厄介なんです」
「どうして?」
「力を持たせすぎれば、王家を必要としなくなる」
リリーの背筋が。
少し冷えた。
「ですが、敵に回すなど論外です」
「……」
「軍事も。資源も。人材も。今後フロイト家が握るものは大きい」
だから。
切れない。
けれどこれ以上、力を与えすぎるのも怖い。
「ならどうすると思います?」
マーサが尋ねる。
リリーは考えた。
そして少しずつ嫌な予感がした。
「……皇族と、縁を結ぶ?」
「正解です」
「でも」
そこで気づく。
「セリーヌ様じゃなくて?」
現皇后の娘。
正統な皇女。
もし、本当にフロイト家を重んじるなら。
ナージュの婚約者には、セリーヌのほうがずっと自然なのではないか。
マーサが、鼻で笑った。
「それでは与えすぎるんですよ」
「……え?」
「皇后陛下の実子である皇女を、フロイト家の長男に嫁がせる」
マーサは指を一本立てる。
「王家との強固な血縁」
もう一本。
「皇后派との繋がり」
もう一本。
「場合によっては、その子どもが王位継承争いに食い込む可能性まで生まれる」
リリーの顔が。
少しずつ青ざめる。
「強すぎる」
マーサは言った。
「今のフロイト家に、そこまでのものを与える必要はない」
ならどうする、王家との繋がりは与える。
名誉も与える。
けれど、力は与えすぎない。
政治的な後ろ盾も。
増やしすぎない。
そこで、ちょうどいい皇女がいた。
「……私」
リリーの声が掠れた。
マーサは否定しなかった。
「皇帝の娘」
「……」
「皇女という身分は本物」
「……」
「ですが、生母は低い身分の出身で、すでに亡くなっている」
胸が痛んだ。
「皇后陛下からも疎まれ」
「……」
「宮廷に支持基盤もない」
「……」
「結婚しても、フロイト家が皇宮で一気に権力を増すことはない」
リリーは膝の上の手を握った。
つまり自分は、ちょうどよかったのだ。
「皇族と婚姻を結ばせることで」
マーサは淡々と続ける。
「フロイト家を王家に繋ぎ止める」
「……」
「しかし、セリーヌ殿下ほど価値の高い札は渡さない」
「……」
「王家としては、実に都合がいい」
マーサはそこで一度言葉を切った。
「それが」
リリーを見る。
「殿下とナージュ様の婚約です」
静かだった。
部屋があまりにも静かで。
自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
「……じゃあ」
リリーは。
ようやく声を出した。
「ナージュ様の家は」
怖かった。
次を聞くのが。
けれど、聞かなければならない。
「この婚約を……喜んだの?」
マーサは答えなかった。
それだけで分かってしまった。
「……喜ばなかったんだ」
「殿下」
「そうなんでしょう?」
マーサが。
小さく息を吐いた。
「フロイト家にとって」
ゆっくりと言う。
「長男ナージュ様の婚姻は、非常に重要です」
「……」
「家を継ぐ方ですから」
「うん」
「本来なら、次期当主となるナージュ殿下の妻は、自分たちで選びたかったでしょう」
「……」
「そこへ皇族から、ほとんど断れない形で話が来た」
胸の奥で。
夢の声が。
蘇る。
『もともと婚約を解消する予定でしたので』
リリーの指先が。
冷たくなった。
「マーサ」
「……はい」
「フロイト家は」
声が震える。
「あとで婚約を破棄するつもりなの?」
今度こそマーサが黙り込んだ。
「答えて」
「……どこで聞きました」
「え?」
「その話を」
マーサの目が鋭くなる。
「誰から聞いたんです」
「誰にも……」
「では、なぜそんなことを聞くんです」
「それは……」
リリーは。
息を呑んだ。
夢。
夢なのに。
どうして。
マーサは否定しないの?
「……本当なの?」
リリーの声が。
ひどく小さくなった。
マーサは目を閉じた。
それから。
「あの家が」
ゆっくりと言った。
「将来的に婚約解消を視野に入れている、という話はあります」
リリーの頭の中が真っ白になった。
「……本当に?」
「確定ではありません」
「でも」
「殿下」
「本当に、そういう話があるの?」
「……あります」
夢と同じだった。
『当初から、そのつもりでした』
『問題ありません』
「……そう」
リリーは俯いた。
不思議と泣かなかった。
昨日。
あれほど泣いたのに。
今は。
涙すら出ない。
「だからか」
ぽつりと呟く。
「何がです?」
「ナージュ様」
ようやく少しずつ繋がっていく。
自分から会いに来ない。
自分から手紙を書かない。
次はいつ会えるか聞いても。
面会日だけを答える。
好きだと言っても。
何も返さない。
あの日。
怒って。
私はあなたを愛していると言っても。
何も。
言ってくれなかった。
「……最初から」
リリーの唇が。
わずかに震える。
「終わるかもしれないって、知ってたんだ」
マーサは何も言わなかった。
リリーは、昨日までの自分を思い出した。
ナージュ様。
ナージュ様。
いつも追いかけて。
少し返事をもらっただけで。
嬉しくて。
会える日を。
指折り数えて。
たった一言。
綺麗だと言われただけで。
一日中。
幸せだった。
「……馬鹿みたい」
「殿下」
「私、本当に何も知らなかった」
マーサの眉が、少しだけ下がった。
「知らされていなかったんです」
「同じでしょう」
「違います」
強い声だった。
リリーが顔を上げる。
マーサは。
いつもの不機嫌そうな顔で。
リリーを見ていた。
「子どもに何も教えず」
「……」
「勝手に駒として置いておいて」
「……」
「その子どもが何も知らなかったからといって」
鼻を鳴らす。
「その子が馬鹿なことにはなりません」
リリーは。
目を瞬いた。
マーサはすぐに顔を背けた。
「何ですか」
「……マーサ」
「泣くならハンカチくらい使いなさい。袖で拭くんじゃありません」
「まだ泣いてない」
「これから泣きそうな顔をしてます」
「……」
やっぱり優しくはない。
でも少しだけ、胸の苦しさが緩んだ。
「マーサ」
「はい」
「もっと教えて」
「何をです」
「私のこと」
リリーは言った。
「私が」
自分の手を見る。
「この国で」
「……」
「どれくらいの価値があるのか」
マーサがじっとリリーを見る。
十一歳の少女には酷な質問だった。
けれど今度はリリーは目を逸らさなかった。
夢の中。
自分は最後には、敵国への人質に選ばれた。
誰にも守ってもらえなかった。
もし、自分がそれほど簡単に差し出せる存在なのだとしたら。
知らなければならない。
「全部知りたい」
リリーは言った。
「誰が私を嫌っていて」
「……」
「誰なら助けてくれて」
「……」
「私は何を持っていて」
「……」
「何が足りないのか」
そして、一度だけ息を吸う。
「もう」
胸元のペンダントを握った。
「何も知らないままなのは、嫌」
マーサはしばらく黙っていた。
やがて深い深いため息。
「まったく」
立ち上がる。
「面倒なことになりましたね」
「教えてくれる?」
「ここまで聞いておいて帰れると思います?」
マーサは扉へ向かった。
「どこへ行くの?」
「帳簿と、貴族名鑑と、去年の官職録を持ってきます」
「そんなに?」
「殿下」
振り返る。
「自分の立場を知るというのは」
鋭い目だった。
「誰が偉いか覚えることじゃありません」
「……」
「誰と誰が繋がっているのか」
「……」
「誰が得をして」
「……」
「誰が損をするのか」
そして。
「自分が動いたとき、誰が困るのかを知ることです」
リリーは、その言葉を胸に刻んだ。
「分かった」
「返事だけは立派ですね」
「マーサ!」
「…わかりました」
扉が閉まる。
一人になった部屋で、リリーはもう一度、母のペンダントを見る。
昨日までこれを見ると、ナージュを思い出した。
優しい人。
好きな人。
追いかけたい人。
でも今は、少し違った。
ナージュのことを知りたい。
けれどその前に、自分を知らなければ。
自分が何者なのか。
どうして、あの人の婚約者に選ばれたのか。
そして、もし本当に最初から、終わることを予定された婚約なのだとしたら。
――その後。
自分は。
どうなるのか。
夢の中。
冷たい石の部屋で。
一人死んだ自分が。
また。
脳裏に浮かんだ。
リリーは。
ぎゅっと。
ペンダントを握った。
今度は。
泣かなかった。




