5話
その夜。
リリーは、ひどく泣き疲れて眠った。
ナージュに怒鳴ったこと。
「愛している」と叫んだこと。
そして何も返してもらえなかったこと。
思い出すたびに胸が痛んだ。
もう考えたくなかった。
だから目を閉じた。
――そして。
夢を見た。
最初に見えたのは。
赤い絨毯だった。
長い。
長い。
皇宮の廊下。
リリーはそこを歩いていた。
けれど妙だった。
身体が少し大きい。
今より背が高く。
手も。
足も。
十一歳のものではない。
鏡の前を通り過ぎたとき。
そこに映った自分を見て。
リリーは息を呑んだ。
二十歳前ほどだろうか。
髪は長く伸びている。
顔も。
今よりずっと大人びていた。
けれどその顔はひどく疲れている。
頬は青白く。
目の下には薄い影。
そして何より怖いほど目が暗かった。
――何、これ。
そう思った。
けれど夢の中のリリーは。
自分の意思とは関係なく歩き続ける。
手には小さな瓶があった。
それを見た瞬間。
胸がざわついた。
中身は毒だった。
「……セリーヌ」
自分の口が。
そう呟く。
声は今より少し低い。
掠れていた。
「あなたさえ……」
その先を聞きたくなかった。
けれど。
自分の声は止まらない。
「あなたさえいなければ」
ぞっとした。
違う。
そんなこと思っていない。
セリーヌは確かに嫌だ。
ナージュと一緒にいたと聞いて。
胸が痛かった。
悔しかった。
羨ましかった。
でも殺したいなんて。
思っていない。
――違う。
リリーは叫ぼうとした。
けれど声が出ない。
夢の中の自分は。
静かに。
ティーカップの前へ立った。
そこにはセリーヌがいた。
少し大人になったセリーヌ。
美しいドレス。
艶やかな髪。
完璧な笑顔。
その隣にはナージュがいた。
リリーの息が止まる。
ナージュも大人になっている。
背が伸び。
肩幅も広くなり。
少年らしさが薄れていた。
それでも顔は変わらない。
静かで。
涼しくて。
何を考えているのか分からない。
セリーヌがナージュに何かを話しかける。
ナージュが答える。
ほんの少しだけその表情が柔らかく見えた。
胸が。
引き裂かれるように痛んだ。
夢の中のリリーの指が小さな瓶を握りしめる。
――やめて。
自分なのに。
止められない。
――やめて。
瓶の蓋に。
指がかかる。
その瞬間。
場面が変わった。
今度は。
大きな謁見の間だった。
たくさんの人。
皇帝。
皇后。
貴族たち。
そしてナージュの父。
中央にリリーとナージュが立っていた。
誰かが書状を読み上げている。
言葉が遠く聞こえる。
「……以上をもって」
「リリー皇女殿下とナージュ・――との婚約を」
「正式に解消するものとする」
頭が真っ白になった。
夢の中のリリーがナージュを見る。
ナージュは動かなかった。
いつものように。
静かに立っている。
「……ナージュ様」
自分の声が震えている。
「どういう……ことですか」
ナージュはリリーを見る。
その目に迷いはなかった。
「以前から」
静かな声。
「婚約を解消する予定でしたので」
リリーの胸が凍った。
「……え?」
「我が家では」
ナージュは続ける。
「当初から、そのつもりでした」
世界から。
音が消えたようだった。
当初から。
最初から。
「ですから」
ナージュの声だけが聞こえる。
「問題ありません」
――問題ありません。
その言葉が。
何度も。
頭の中で響く。
問題ない。
婚約がなくなっても。
問題ない。
自分と結婚できなくなっても。
問題ない。
「……最初から?」
夢の中のリリーが呆然と聞く。
「はい」
「私が」
声が震える。
「あなたを好きだったことは?」
ナージュは少し黙った。
それから。
「知っています」
と答えた。
リリーの膝から力が抜けた。
知っていた。
知っていて。
最初から終わるつもりだった。
だったら。
あの日も。
あの日も。
全部。
自分だけだった。
追いかけて。
喜んで。
待って。
泣いて。
全部。
自分だけ。
「……そう」
夢の中のリリーが笑った。
それは十一歳のリリーが見たこともない。
酷く壊れた笑顔だった。
また。
場面が変わった。
冷たい石の床。
暗い部屋。
狭い窓。
鉄格子。
リリーは。
床に座っていた。
服は。
ひどく粗末だった。
髪も。
乱れている。
手首は細い。
頬も痩けていた。
――どこ?
知らない場所。
言葉も半分ほどしか分からない。
廊下の向こうで。
兵士たちが話している。
敵国。
その言葉だけ。
聞き取れた。
何かが。
頭の中に流れ込んでくる。
婚約を失ったあと。
リリーは皇宮での立場をさらに失った。
生母は死んでいる。
後ろ盾もない。
皇后からも誰からも守られない。
そして。
戦争が始まった。
敵国との交渉のため。
皇族から一人人質を送ることになった。
選ばれたのはリリーだった。
使い道のない皇女。
失っても。
困る者のいない皇女。
そんな言葉が誰かの声として頭の中に響く。
「……違う」
リリーは。
夢の中で。
震えた。
違う。
私は。
私は皇女なのに。
お父様の娘なのに。
どうして。
誰も。
助けてくれないの。
敵国での生活は。
日ごとに酷くなっていった。
十分な食事も与えられない。
侍女もいない。
名前ではなく。
「人質」と呼ばれる。
敵国で何か問題が起きるたびリリーの待遇は悪くなる。
自国が約束を守らなければリリーが罰を受ける。
けれど、自国から助けは来なかった。
何度。
手紙を書いても返事はなかった。
リリーは。
毎日。
窓の外を見ていた。
もしかしたら。
今日。
迎えが来るかもしれない。
もしかしたら。
ナージュが。
そう思った。
馬車の音がするたび。
立ち上がった。
足音がするたび。
期待した。
でも。
誰も来なかった。
月日が過ぎた。
リリーは。
もう。
泣かなくなった。
泣く力も。
なくなっていた。
そして。
ある夜。
部屋の中で。
一人。
母のペンダントを握っていた。
唯一。
ずっと持っていたもの。
母の形見。
あの日。
ナージュが拾ってくれたもの。
「……お母様」
夢の中のリリーが。
かすかに笑った。
「もう」
声は。
驚くほど静かだった。
「疲れました」
その言葉を聞いた瞬間。
十一歳のリリーは。
必死に叫んだ。
――駄目。
――やめて。
――お願い。
でも。
夢の中の自分には。
届かない。
ただ。
母の形見を胸に抱き。
「ごめんなさい」
そう呟いた。
そして。
場面が。
暗転した。
次に見えたのは。
誰もいない部屋。
床に落ちた。
銀色のペンダント。
それだけだった。
――嫌。
怖い。
嫌。
嫌。
「嫌っ!」
リリーは飛び起きた。
息ができない。
「はっ……はっ……」
身体中が。
汗で濡れている。
胸が苦しい。
ここは。
自分の寝室だ。
離宮。
まだ。
十一歳。
窓の外も。
いつもの庭。
リリーは。
震える手で。
自分の胸元を触った。
ペンダントがある。
ちゃんと。
ある。
「……夢」
声が震えた。
「夢……だった」
そう言った瞬間。
涙が溢れた。
怖かった。
あまりにも現実のようだった。
ナージュの声。
『以前から、婚約を解消する予定でしたので』
『問題ありません』
耳に残っている。
「……いや」
リリーは。
布団を握りしめた。
違う。
夢だ。
ただの夢。
昨日。
ナージュと喧嘩したから。
きっとそんな夢を見ただけ。
そう思いたい。
なのに妙に胸が騒ぐ。
知らないはずの場所。
知らないはずの未来。
知らないはずの言葉。
すべてが。
あまりにも。
はっきりしていた。
そして。
夢の中の自分が。
最後に感じていたことまで。
覚えている。
絶望。
誰にも。
必要とされない。
誰も。
迎えに来ない。
誰にも。
愛されない。
あの感覚が。
まだ。
胸の奥に残っている。
リリーは。
震えながら。
母のペンダントを握った。
「……お母様」
小さな声。
「私」
涙が落ちる。
「どうしたらいいの……?」
その夜から。
リリーの中で。
何かが。
少しだけ変わり始めた。
ナージュに愛されたい。
昨日までそれが何よりも大切だった。
けれど夢の中で自分が最後に失ったものは、ナージュだけではなかった。
居場所も。
自由も。
誇りも。
生きる希望さえも。
全部だった。
そして。
十一歳のリリーの胸に。
初めて。
小さな。
恐怖とは違う感情が芽生えた。
――もし。
あれが本当に。
これから起こることなのだとしたら。
私は。
何かを。
変えなければならない。




