4話
十日後。
リリーは、朝から落ち着かなかった。
「まだ早いですよ、殿下」
侍女にそう言われても、何度も時計を見てしまう。
「分かっています」
「ナージュ様がお越しになるのは午後です」
「分かっています」
分かっている。
それでも、楽しみなのだから仕方がない。
十日前。
別れ際に確認した。
『次は十日後ですね』
『はい』
『必ず来てくださいます?』
『予定に変更がなければ』
相変わらず、絶対とは言ってくれなかったけれど。
今日が来るのを、リリーはずっと待っていた。
温室では、ちょうど薔薇が見頃を迎えている。
以前ナージュに話した薔薇だった。
赤ではなく。
白でもなく。
ほんの少し青みがかった、淡い紫色。
珍しい品種だと庭師が教えてくれた。
「今日まで咲いていてくれました」
リリーは薔薇の前にしゃがみ込む。
先日、ルーシュに言われた。
『そんなに兄上と見たいなら、花を十日咲かせておけばいいんじゃないですか』
そのとき、冗談で。
『薔薇にお願いしておきます』
と答えた。
本当に、待っていてくれたような気がした。
「ナージュ様にも見せられますね」
嬉しくなった。
今日は、お茶も用意した。
ナージュが一つだけ砂糖を入れることも覚えている。
以前、美味しいと言っていた焼き菓子も用意した。
正確には。
「美味しいですか?」
と聞いたら。
「不味くはありません」
と言われただけなのだけれど。
リリーの中では。
ほとんど「美味しい」と同じ意味だった。
午後になった。
予定の時刻を過ぎた。
リリーは時計を見る。
五分。
十分。
二十分。
「少し遅れていらっしゃるのでしょう」
侍女が言った。
「そうですよね」
ナージュは忙しい。
剣術も。
勉強も。
父親から教わることも多いと言っていた。
だから、少しくらい遅れることだってある。
リリーはそう思った。
三十分。
一時間。
用意した紅茶は。
二度。
淹れ直した。
「……何かあったのでしょうか」
リリーが小さく言う。
「確認させましょうか?」
侍女が尋ねた。
けれど。
リリーは少し迷って、首を振った。
「もう少し待ちます」
もし。
向こうから来る途中だったら。
催促したみたいで嫌だった。
ナージュは、自分から会いたいと言ったことがない。
それでも、今日くらいは来てくれると思っていた。
結局、日が傾いても。
ナージュは現れなかった。
「殿下」
侍女が遠慮がちに声をかける。
「本日は、もう……」
「はい」
リリーは笑った。
「きっと、急な予定が入ったのですね」
仕方がない。
ナージュは忙しいのだから。
「お菓子は皆でいただきましょう」
「……はい」
「薔薇も」
少しだけ声が詰まった。
「また、次に咲いたときに見ればいいです」
そう言って。
リリーは一人で温室へ向かった。
薔薇は、まだ綺麗に咲いていた。
朝と、何も変わらない。
なのに、なぜだろう。
朝よりも、ずっと寂しく見えた。
それから二日後。
リリーは本宮へ呼ばれていた。
皇帝に会うわけではない。
礼儀作法の教師から、月に一度、指導を受ける日だった。
普段ほとんど離宮から出ないリリーにとって、本宮は、どうにも居心地が悪い。
廊下を歩いているだけでも、視線を感じる。
皇后の娘たちは、華やかな衣装を着て、多くの侍女を連れて歩く。
自分とは、何もかも違う。
だから、用が済めば。
すぐ離宮へ戻るつもりだった。
その途中。
廊下の角を曲がる手前で、使用人たちの声が聞こえた。
「先日のセリーヌ殿下、本当に楽しそうだったわね」
その名前に。
リリーは足を止めた。
セリーヌ。
現皇后の娘。
リリーと同じ十一歳。
リリーとは違い。
幼い頃から王宮の中心で育ち。
舞踏会にも。
式典にも。
当たり前のように姿を見せている皇女。
「薔薇園でしょう?」
「そうそう」
使用人たちが楽しげに話している。
「フロイト家のナージュ子息とずいぶん長くお話しされていたわ」
リリーの心臓が。
どくん。
と鳴った。
ナージュ。
その名前が。
耳から離れない。
「お似合いだったわよね」
「分かるわ。お二人とも華があるもの」
「年も近いでしょう?」
「ええ」
「セリーヌ殿下も楽しそうで。ナージュ様もずっとお相手なさっていたわ」
「薔薇園を一緒に歩いていたしね」
くすくす、と笑う声。
「本当なら、ああいう方が婚約者でもおかしくないのに」
「しっ」
一人が声を潜めた。
「リリー殿下のことがあるでしょう」
「でも、あの婚約って皇帝陛下が――」
「やめなさいって」
そこから先は。
聞けなかった。
リリーは。
静かに。
その場を離れた。
足が。
妙に重い。
頭の中で。
何度も。
何度も。
同じ言葉が繰り返される。
――薔薇園。
――セリーヌ殿下と。
――楽しそうに。
――ずいぶん長く。
あの日だ。
きっと。
ナージュが来なかった日。
リリーが。
冷めていく紅茶を前に。
何時間も待っていた日。
ナージュは。
セリーヌと。
薔薇園にいた。
「……薔薇」
リリーはぽつりと呟いた。
自分も。
ナージュと薔薇を見るつもりだった。
一緒に見れるのを。
楽しみにしていた。
ナージュも知っていた。
『今度、温室に新しい薔薇が入るそうです』
『そうですか』
『一緒に見たいです』
そう言った。
それなのに。
自分とは見なかった薔薇を。
セリーヌとは見た。
胸が。
ぎゅっと痛くなる。
もちろん。
何か用があったのかもしれない。
セリーヌは皇后の娘だ。
断れない事情があったのかもしれない。
ナージュには。
ナージュの事情がある。
分かっている。
分かっているのに。
「……だったら」
せめて。
一言。
言ってほしかった。
行けなくなった。
ごめんなさい。
それだけでも。
よかったのに。
ナージュから。
手紙は来なかった。
翌日も。
その翌日も。
リリーは。
待った。
けれど。
結局。
何の連絡もないまま。
次の面会日が来た。
「こんにちは、リリー殿下」
いつもと同じ声だった。
ナージュが離宮へやってくる。
いつも通りの。
涼しい顔。
「……こんにちは」
リリーは。
いつものように笑えなかった。
ナージュが。
ほんの少し首を傾げる。
「体調が悪いのですか?」
「いいえ」
「そうですか」
それだけ。
そのままいつもの席へ向かおうとする。
リリーは後ろからついていった。
いつもならナージュ様、今日は何をしていたのですか。
ナージュ様、この前のお手紙。
ナージュ様、新しいお菓子があるんです。
次々と、話したいことが出てくるのに。
今日は、何も言えなかった。
二人で席につく。
ナージュは紅茶を一口飲んだ。
「……ナージュ様」
「はい」
「先日は」
声が少し震えた。
「どうして、いらっしゃらなかったのですか?」
ナージュは。
ああ。
という顔をした。
「急な予定が入りました」
「……そうですか」
「はい」
それだけ。
リリーは、膝の上でぎゅっと手を握った。
「セリーヌ様ですか?」
ナージュがリリーを見る。
「はい」
胸が痛む。
やっぱり。
「セリーヌ殿下から呼ばれました」
「……そうですか」
「皇后陛下からも、同席するようにとのお話がありましたので」
それなら。
断れなかったのだろう。
分かっている。
分かっているのに。
「薔薇園に行かれたのですよね」
「はい」
「楽しかったですか?」
「……?」
ナージュが少し考える。
「特に楽しい、楽しくないという用件ではありませんでした」
「でも、仲良くお話ししていたと聞きました」
「会話はしました」
「……ずっと?」
「必要な間は」
また。
それだ。
必要。
予定。
用件。
リリーには。
ずっと。
そればかり。
「私との約束は?」
思っていたより強い声が出た。
ナージュが瞬きをする。
「約束?」
「十日前です」
「……ああ」
その反応が余計に悲しかった。
「ああ、ではありません!」
リリーは思わず立ち上がった。
ナージュが少し目を見開く。
「私は待っていたんです!」
「リリー殿下」
「ずっと!」
止まらなかった。
「朝から楽しみにしていました。薔薇も咲いていて、お菓子も用意して、お茶だって何度も淹れ直して!」
「……」
「でも、ナージュ様は来なかった!」
ナージュは黙って聞いている。
「仕方がないって思いました。急な用事なら、仕方がないって」
声が震える。
「でも」
涙が滲む。
「ナージュ様はセリーヌ様と薔薇を見ていたのでしょう?」
「はい」
そのあまりにも素直な返事に胸が詰まった。
「私とは見てくださらなかったのに」
「……」
「私、ずっと楽しみにしていたのに」
「リリー殿下」
「セリーヌ様とのほうが、大切だったのですか?」
ナージュは少し黙った。
そして。
「その日の予定としては、そちらを優先する必要がありました」
言った。
リリーの顔から表情が消えた。
そちらを優先する必要があった。
たぶん、ナージュにとってはただの事実だった。
皇后からの要請。
皇女セリーヌ。
自分との面会。
比べたら、どちらを優先するべきか。
家の長男としてナージュには、きっと明白だった。
でも、そんなこと今のリリーにはどうでもよかった。
「……そうですか」
小さく言った。
ナージュが何かを感じ取ったらしい。
「リリー殿下?」
「では」
リリーはナージュを見る。
「私との約束は、後回しにしてもいいものなのですね」
「そういう意味では」
「同じです!」
また、強く言ってしまった。
「私、怒っています!」
「……はい」
「ナージュ様に、とても怒っています!」
「分かりました」
「分かっていません!」
「では、どの部分が――」
「そういうところです!」
ナージュが黙る。
リリーの目からとうとう涙が落ちた。
「一言くらい」
「……」
「来られないって、言ってくださってもよかったでしょう?」
ナージュの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「……連絡は」
「来ませんでした」
「屋敷から送ったはずです」
「私は受け取っていません」
ナージュが黙る。
どうやら本当に連絡は出していたらしい。
けれどそんなことを聞いても。
今は少しも楽にならなかった。
「それに」
リリーは涙を拭う。
「セリーヌ様とは、楽しそうだったって」
「誰が言ったのですか?」
「使用人たちが話していました」
「それは――」
「私とは!」
声が裏返る。
「私とは、ナージュ様から何かしたいって言ってくださったこと、一度もないのに……!」
ナージュが言葉を止めた。
「私ばっかりです」
十日前。
ルーシュに言われた言葉。
――殿下ばっかりじゃないですか。
あのときは笑って流した。
でも。
本当は。
ずっと。
胸に残っていた。
「会いたいって言うのも」
「……」
「お手紙を書くのも」
「……」
「一緒に何かしたいって言うのも」
涙が落ちる。
「全部、私ばかり」
ナージュは何も答えない。
それがさらに悲しかった。
「セリーヌ様なら」
言ってから自分でも、嫌なことを言っていると思った。
それでも止められなかった。
「セリーヌ様なら、ナージュ様から会いたいと思うのですか?」
「いいえ」
即答だった。
「では、どうして!」
「皇后陛下からのご要請です」
「そういう話をしているのではありません!」
リリーは初めてナージュを睨んだ。
「私は!」
胸元のペンダントを握りしめる。
「私は、あなたを愛してるのに……!」
ナージュの目が。
わずかに見開かれた。
一年間。
ずっと。
胸の中にあった言葉。
いつか。
もっと幸せな気持ちで言いたかった。
笑って。
ナージュにも同じ言葉を返してもらえるような。
そんなときに。
それなのに。
今は涙でぐしゃぐしゃの顔で怒りながら訴えるように言っている。
「私は、あなたを愛してるのに」
もう一度。
今度は。
小さな声だった。
「どうして……私ばかりなのですか」
ナージュは答えられなかった。
リリーを嫌っているわけではない。
綺麗な子だと思う。
話すことも。
会うことも。
不快ではない。
でも、愛しているかと聞かれたら。
分からない。
父からは。
深入りするなと言われている。
いずれ。
婚約を解消する予定だとも。
そして、その父の判断にナージュは従うつもりでいた。
家を継ぐ長男としてそれが正しいと思っている。
今の自分に婚約をどうこうする力などない。
だから何を言えばいいのか分からなかった。
その沈黙を。
リリーは別の意味に受け取った。
「ああ……」
小さく。
笑った。
泣いているのに。
「そうですよね」
「リリー殿下」
「ごめんなさい」
椅子から立ち上がる。
「困らせました」
「……」
「今日は、もう」
リリーは顔を伏せた。
「お帰りください」
ナージュはしばらく動かなかった。
けれど。
「分かりました」
そう答えた。
その言葉がリリーには何より痛かった。
引き止めてくれない。
追いかけてもくれない。
いつも自分ばかり。
リリーはナージュが部屋を出ていくまで。
一度も顔を上げなかった。
そして扉が閉じてから声を殺して泣いた。
――どうして。
こんなにも好きなのに。
この人には少しも届かないのだろう。




