3話
ルーシュにとって。
兄は、完璧だった。
頭がいい。
剣術もできる。
顔もいい。
濃紺のクセのない髪から覗く、青い眼は同じ目の色のはずなのに、とても凛として見える。
何をさせてもそつがなく。
どんなときでも冷静で。
父に何を言われても、感情的になることなど一度もない。
「ナージュを見習いなさい」
そう言われるたび。
少し腹は立つ。
けれど。
言われなくても分かっている。
兄は、この家を継ぐ人だ。
父の跡を継ぎ。
領地を守り。
家臣を守り。
家名を背負う。
そのために必要なものを。
兄は全部持っている。
ルーシュにとってナージュは。
追いかけても。
なかなか届かない存在だった。
だから、兄に婚約者ができたと聞いたとき。
当然。
相手もそれなりの人物なのだと思った。
名門の令嬢、あるいは、政治的にも力のある家の娘。
頭が良く。
社交にも長け。
兄の隣に立っても見劣りしない。
そんな女性なのだろう、と。
なのに。
「……あれ?」
ルーシュは眉をひそめた。
「はい」
隣にいた侍従が小さく答える。
「あちらが、リリー皇女殿下でございます」
離宮の庭。
白いドレスを着た少女が。
遠くから。
こちらへ向かって走ってきていた。
「ナージュ様!」
兄の姿を見つけるなり。
それまで侍女と話していた少女が、ぱっと表情を明るくする。
そして、かなりの勢いで近づいてきた。
「今日も来てくださったのですね!」
「今日は面会日ですので」
ナージュは淡々と答える。
「そうですけれど……」
リリーは少しだけ困ったように笑った。
「それでも、嬉しいです」
「そうですか」
「はい!」
兄は、それ以上何も言わない。
ルーシュは、二人を見比べた。
……何だこれ。
片方だけ。
ものすごく温度が高い。
「今日はお茶をご用意しているのです」
リリーが言う。
「新しく入った茶葉が、とても香りが良くて」
「そうですか」
「ナージュ様にも飲んでいただきたくて」
「ありがとうございます」
「それから、以前お話しした本も読み終わりました」
「はい」
「面白かったです」
「それは良かったですね」
「ナージュ様は、どの部分がお好きでした?」
「第三章です」
「私もです!」
「そうですか」
「……」
「……」
「それだけですか?」
「何がでしょう」
リリーの肩が、ほんの少し下がった。
「いえ……何でもありません」
ルーシュは、なんとなく分かった。
兄は、ものすごく普通だ。
いや、正確には。
婚約者として。
必要なことはしている。
来る。
話す。
聞かれれば答える。
失礼な態度も取らない。
けれど、それだけだった。
リリーが一歩近づけば。
兄はそこにいる。
でも、兄から近づくことはない。
「兄上」
ルーシュが声をかける。
ナージュが振り返った。
「ああ、ルーシュ」
そこでようやく。
リリーもルーシュの存在に気づいた。
「弟君ですか?」
「はい」
「初めまして」
リリーはすぐに姿勢を正した。
「リリーです」
皇女なのに、随分普通に名乗る。
ルーシュも礼をする。
「ルーシュです」
顔を上げて、改めてリリーを見た。
……やっぱり。
冴えない。
顔は悪くない。むしろ、よく見れば綺麗だ。
けれど、皇女にしては華がない。
前髪も長い。
髪飾りも小さい。
ドレスも簡素。
後ろにぞろぞろと侍女を連れているわけでもない。
他の皇女たちのような。
ぱっと目を引く煌びやかさがなかった。
これが、兄の婚約者。
ルーシュは、どうにも納得がいかなかった。
「ナージュ様」
リリーがまた兄を見る。
「今日は、どのくらいいられるのですか?」
「一時間ほどです」
「一時間……」
少し考え。
「では、お茶のあと庭を歩けますか?」
「時間が余れば」
「余らせます」
「どうやってですか」
「お茶を早く飲みます」
ナージュが一瞬黙った。
「急いで飲む必要はないと思います」
「では、ナージュ様が少し長くいてください」
「それはできません」
即答だった。
「この後、予定があります」
「あ……そうですよね」
「はい」
リリーは笑った。
けれど、さっきより少しだけ元気がなくなっている。
ルーシュは、その横顔を見た。
この人。
ずっと兄を追いかけている。
「ナージュ様、こちらです」
「はい」
「ナージュ様、このお菓子召し上がります?」
「いただきます」
「ナージュ様、今度いつ来られますか?」
「次回の面会日は十日後です」
「その前は?」
「予定がありません」
「私からお手紙を書いたら?」
「返事はします」
「会いには?」
「必要があれば」
「……必要がないと駄目ですか?」
「基本的には」
リリーは、ほんの一瞬黙った。
「そうですよね」
それでも、すぐに笑う。
「では、十日後を楽しみにしています」
「はい」
兄は、何も気づいていないようだった。
ルーシュは少し苛々した。
別に。
リリーが可哀想だからではない。
兄に対してらこんなにも必死なのが、妙に気に入らなかった。
兄の婚約者は、追いかけるような人じゃない。
いつだって。
もっと。
余裕のある人が隣に立つべきだと思う。
「リリー殿下」
ルーシュが口を開いた。
「はい?」
「そんなに兄上が好きなんですか?」
「ルーシュ」
ナージュがすぐに制止する。
「失礼です」
「だって」
「答える必要はありません」
「いえ」
リリーは少し頬を赤くした。
「好きです」
即答だった。
ルーシュは、逆に面食らった。
「……そんなに?」
「はい」
「兄上、あんまり喋らないのに?」
「それは……そうですけれど」
「面白くなくないですか?」
「ルーシュ」
兄の声が少し低くなる。
でも、リリーは怒らなかった。
「ナージュ様は、お優しいです」
「優しい?」
ルーシュは首を傾げる。
「どこが?」
「母の形見を拾ってくださったんです」
そう言って。
リリーは胸元の銀色のペンダントに触れた。
「私がずっと探していたものを」
「拾っただけです」
ナージュが言う。
「でも」
リリーは兄を見る。
「私には、とても大切なことでした」
本当に、嬉しそうに言う。
ルーシュは何となく面白くなくなった。
「それだけで?」
ぽろっと出た。
「……え?」
「それだけで、そんなに兄上が好きなんですか?」
リリーが少し驚いた顔をする。
「ルーシュ」
今度こそ兄が明確に咎めた。
「謝りなさい」
「でも」
「謝りなさい」
淡々としている。
けれど、逆らえない声だった。
「……ごめんなさい」
ルーシュは渋々頭を下げる。
「いえ、大丈夫です」
リリーは笑った。
そして、少し考えてから。
「それだけではありません」
と答えた。
「最初は、それだけだったのかもしれません」
「……」
「でも、ナージュ様は必ず手紙にお返事をくださいますし」
ルーシュは兄を見る。
「どんな内容でも?」
「返事が必要なら」
「庭に鳥が来たとかでも?」
「……来たと書かれていましたので、『そうですか』と」
「それ返事なの?」
「返事でしょう」
リリーが小さく笑った。
「そういうところも、好きです」
「…………」
ルーシュには。
本当に分からなかった。
お茶が始まってからも。
やっぱり同じだった。
「ナージュ様、お砂糖は?」
「一つです」
リリーが嬉しそうに角砂糖を入れる。
「覚えました」
「以前も入れていただきました」
「はい。だから覚えました」
「そうですか」
「次からも私が入れますね」
「自分でできます」
「……そうですよね」
「ですが、入れていただくことに問題はありません」
「では入れます!」
一度沈んですぐ浮かぶ、忙しい人だ。
「ナージュ様」
「はい」
「今度、温室に新しい薔薇が入るそうです」
「そうですか」
「一緒に見たいです」
「面会日と重なれば」
「重ならなかったら?」
「難しいですね」
「…………」
少ししゅんとする。
それでも。
「では、咲いている間に面会日が来るように祈ります」
と笑う。
ルーシュは思わず言った。
「そんなに兄上と見たいなら、花を十日間咲かせておけばいいんじゃないですか」
リリーが目を丸くする。
「ルーシュ様」
「何ですか」
「薔薇にお願いしておきます」
「……通じないでしょ」
「分かりません。意外と聞いてくれるかもしれません」
ふふ、と笑う。
ルーシュは少し調子が狂った。
もっと、怒るかと思った。
皇女なのだから。
不敬だとか。
失礼だとか。
そう言うのかと思った。
なのに、笑っている。
だから、もう一つだけ、意地悪を言ってみたくなった。
「でも」
ルーシュはお菓子を摘まみながら言った。
「兄上のこと、そんなに追いかけて疲れませんか?」
リリーの手が止まった。
ナージュがルーシュを見る。
「ルーシュ」
「だって本当じゃないですか」
ルーシュは兄を見る。
「兄上からリリー殿下に会いたいって言ったことある?」
ナージュが少し考える。
「ありません」
「手紙を最初に送ったことは?」
「ありません」
「庭を歩きたいって誘ったことは?」
「ありません」
「ほら」
ルーシュはリリーを見る。
「殿下ばっかりじゃないですか」
リリーが黙った。
一瞬。
その目が。
とても寂しそうに見えた。
――しまった。
ほんの少しだけ。
そう思った。
でも。
言ってしまったものは戻らない。
「……そうですね」
リリーが笑う。
いつもより少し小さな笑顔だった。
「私ばっかりですね」
「リリー殿下」
ナージュが呼ぶ。
「大丈夫です」
リリーはすぐに首を振った。
「だって、ナージュ様はお忙しいですから」
「……」
「私は離宮にいるだけですし」
「……」
「だから、私からお誘いするくらいがちょうどいいんです」
そう言って、また笑った。
ルーシュは、何となく。
お菓子の味がしなくなった。
やがて、一時間が過ぎる。
「そろそろ戻ります」
ナージュが立ち上がった。
リリーもすぐに立つ。
「もうですか?」
「はい」
「……そうですよね」
やっぱり止めない。
「では」
リリーは玄関まで兄を見送った。
「次は十日後ですね」
「はい」
「必ず来てくださいます?」
「予定に変更がなければ」
「……分かりました」
少しだけ考えて。
リリーが笑う。
「では、変更がないように祈っています」
「祈っても予定は変わるときは変わります」
「ナージュ様」
「はい」
「そこは『分かりました』でいいんです」
「そうですか」
「そうです」
また。
リリーが笑った。
本当に兄の前ではよく笑う。
帰り道。
ルーシュは兄の隣を歩いていた。
「兄上」
「何ですか」
「あの人」
「リリー殿下です」
「分かってる」
少し間を置く。
「兄上のこと、本当に好きなんだね」
「そうですね」
兄の返事は。
驚くほど淡々としていた。
「……何とも思わないの?」
ナージュがルーシュを見る。
「何がですか?」
「だって」
言いかけてやめた。
兄は。
たぶん分かっていない。
いや、分かろうとしていないのかもしれない。
「兄上は、リリー殿下のこと好きなの?」
ナージュは少しだけ考えた。
「嫌いではありません」
「それだけ?」
「それ以上の意味が必要ですか?」
「婚約者でしょ?」
「今は」
今は。
ルーシュはその言葉で思い出した。
父の話。
この婚約は、皇族から強く押しつけられたもの。
父はいずれ婚約を解消するつもりでいる。
「……やっぱり」
「何ですか」
「兄上、あの人とは結婚しないんだ」
ナージュは前を向いた。
「父上は、その予定です」
「兄上も?」
少し間があった。
けれど、答えは変わらない。
「父上の判断に従います」
迷いのない声だった。
やっぱり。
兄は兄だ。
自分の感情より。
家を優先する。
父の決定に従う。
それが。
この家の長男だから。
「じゃあ」
ルーシュは何気なく言った。
「あんまり好きになられないほうがいいね」
ナージュの足が、ほんのわずかに止まった。
「……どういう意味ですか」
「だって」
ルーシュは振り返る。
「婚約、なくなるんでしょ?」
「……」
「リリー殿下、兄上のことすごく好きじゃん」
「そうですね」
「もっと好きになったら」
ルーシュは。
今日。
何度も兄の後ろを追いかけていた少女を思い出す。
「可哀想じゃない?」
ナージュは何も答えなかった。
しばらくして。
「だから」
静かに言った。
「必要以上に関わらないようにしています」
「……ああ」
ルーシュはらようやく合点がいった。
そういうことか。
兄があんなにも事務的なのは、リリーが嫌いだからではない。
父に深入りするなと言われているから。
そして。
いずれ婚約を解消するつもりだから。
なら全部、納得できる。
兄から手紙を送らないことも。
兄から会いに行かないことも。
兄から手を取らないことも。
今日、あんなにもリリーが追いかけているのに。
一度も、兄のほうから近づかなかったことも。
全部。わざとなのだ。
「兄上は」
ルーシュは言った。
「やっぱりすごいね」
ナージュが不思議そうに見る。
「突然、何ですか」
「僕だったら」
少し考える。
「あんなに好き好き言われたら、ちょっと調子に乗るかもしれない」
「そうですか」
「兄上は全然変わらない」
「変わる理由がありません」
やっぱり、兄は揺れない。
ルーシュは、少し誇らしくなった。
けれど、離宮からずっと離れた頃。
ナージュがふと足を止めた。
「兄上?」
「……」
何でもないと言うかと思った。
けれどナージュはほんの一瞬、来た道を振り返った。
「……ルーシュ」
「何?」
「先ほど」
「うん」
「あなたはリリー殿下に、少し失礼でした」
「…………」
「次からはやめなさい」
「分かったよ」
ルーシュは口を尖らせる。
「でも、殿下も怒ってなかったじゃん」
「怒らなければ、傷ついていないわけではありません」
「……」
ルーシュは少しだけ驚いた。
分かってたんだ。
兄は。
何も気づいていないのだと思っていた。
「兄上」
「何ですか」
「リリー殿下が傷つくの、嫌なの?」
ナージュは少し考えた。
「わざわざ傷つける必要はないでしょう」
「それだけ?」
「それだけです」
即答だった。
ルーシュはやっぱりそうだよなと思った。
このときは。
そしてリリーもまだ知らない。
ナージュが自分から近づかない理由を。
彼女がそれを知るのは。
もう少し後。
――いずれ婚約を解消する。
――だから、深く関わるな。
その事実を知ったとき。
リリーはようやく。
すべてに合点がいくことになる。
どうして。
自分から誘わなければ会えなかったのか。
どうして。
自分から手を伸ばさなければ触れてくれなかったのか。
どうして。
どれだけ好きだと伝えても。
ナージュは一度も。
同じ言葉を返してくれなかったのか。
ああ。
そうだったのか、と。
――ナージュ様は最初から。
私との婚約を。
終わらせるつもりだったのだ、と。




