2話
2話
ナージュは、家の長男だった。
いずれ父の跡を継ぎ。
領地と家臣と、家名を背負う。
それは物心ついた頃から、当たり前のこととして教えられてきた。
自分の好き嫌いより、家にとって何が正しいか。
自分が何を望むかより、跡取りとして何を選ぶべきか。
ナージュはそれを窮屈だと思ったことはなかった。
そういうものなのだと思っていた。
父を尊敬していたし。
自分もいつか、父のように家を守る人間になるのだと思っていた。
だから。
リリー皇女との婚約が決まった夜。
父から告げられた言葉にも。
ナージュは静かに耳を傾けていた。
「ナージュ」
「はい」
「今日、皇宮から正式な話があった」
父の机の上には、一通の書状が置かれている。
「リリー皇女殿下との婚約を受けることになった」
ナージュの目が、ほんのわずかに動いた。
「……リリー皇女殿下」
「知っているのか?」
「一度、お会いしました」
離宮の庭。
地面に這いつくばるようにして何かを探していた少女。
泥だらけの手。
拾ったペンダントを渡した途端。
泣いた。
そして。
『ありがとう』
と笑った。
あの少女だった。
「そうか」
父はそれ以上、尋ねなかった。
そして重い声で続ける。
「だが、ナージュ。覚えておきなさい」
「はい」
「この婚約は、我が家が望んだものではない」
ナージュは父を見た。
「皇宮からの強い要請だ。断れば、家そのものに不利益が及びかねない」
「……はい」
「だから受けた」
父は淡々と言った。
ナージュにも意味は分かった。
自分は長男だ。
本来なら。
家にとって最も良い相手と婚姻を結ぶべき立場にいる。
だが、リリーには後ろ盾がない。
生母は亡くなり。
現皇后からも疎まれている。
皇女という身分こそあれど。
政治的には極めて不安定な立場だった。
「状況が整えば」
父が言う。
「いずれ婚約を解消する」
ナージュは黙った。
ほんの少しだけ。
胸の奥に引っかかるものがあった。
「……いつですか」
「まだ分からない」
父は首を振った。
「今は皇帝陛下のお考えに逆らうべきではない。数年後かもしれないし、もっと先になるかもしれない」
「そうですか」
「だからこそ」
父はナージュをまっすぐ見た。
「リリー皇女殿下とは、必要以上に深く関わるな」
ナージュの指先がわずかに動いた。
「……深く?」
「婚約者として失礼のないようにはしなさい」
父は言った。
「だが、情を移す必要はない」
「……」
「いずれ別れる相手だ」
静かな言葉だった。
冷たいわけではない。
父にとっては。
息子と家を守るための、当然の判断だった。
「中途半端に親しくなれば、皇女殿下にも辛い思いをさせる」
「……はい」
「お前自身もだ」
「はい」
「分かるな?」
ナージュは少し黙ったあと。
頭を下げた。
「分かりました」
それが。
長男としての正しい返事だった。
けれど。
部屋を出てから。
ナージュは一人、廊下を歩きながら考えていた。
――いずれ別れる相手。
なぜか。
その言葉だけが耳に残る。
別に。
婚約など、したことがない。
婚約がどんなものなのかもよく分からない。
まして。
リリーとは一度会っただけだ。
それなのに。
婚約相手が彼女だと聞いた瞬間。
少し。
嬉しかった。
また会える。
そう思った。
けれど。
それはいけないことなのだろう。
父は。
深く関わるなと言った。
ならば。
そうするべきだ。
自分はこの家の長男なのだから。
それからのナージュは。
父の言葉を忠実に守ろうとした。
リリーから手紙が届けば。
無視することは失礼だから返事を書く。
けれど。
自分からは送らない。
会いたいと言われれば。
婚約者として応じる。
けれど。
自分から会いに行きたいとは言わない。
手を繋ぎたいと言われれば。
拒む理由はないから手を差し出す。
けれど。
自分から握ることはしない。
「ナージュ様、今日のお花、とても綺麗でしょう?」
「そうですね」
嬉しそうに笑うリリーを見て。
綺麗だと思う。
花ではなく。
リリーのほうを。
けれど。
それを口にする理由はない。
むしろ。
言ってはいけない気がした。
深く関わってはいけない。
期待させてはいけない。
どうせ。
いつか婚約はなくなる。
だから。
これくらいがちょうどいい。
そう思っていた。
けれどナージュは知らなかった。
自分が一線を引こうとすればするほど。
リリーには。
「ナージュ様は私に興味がない」
そう見えていることを。
そして。
リリーも知らなかった。
いつも自分から誘わなければ会ってくれない少年が。
彼女から届いた手紙を、一通残らず箱にしまっていることを。
彼女の好きな菓子を覚えていることを。
離宮へ向かう日だけは、いつもより早く支度を終えていることを。
そして。
父から、
――いずれ別れる相手だ。
そう聞かされるたびに。
理由の分からない不快感を覚えていることを。
ナージュはまだ。
それを恋だとは知らない。
ただ。
家の長男として。
父の言いつけを守らなければならないと思っている。
それなのに。
リリーが笑うと。
もう少しだけ一緒にいたいと思ってしまう。
それが。
十二歳のナージュにとって。
初めて、正しさだけでは片づけられないものだった。




