1話
1話
皇女リリーを知る者は、王宮の中でもそう多くない。
正確に言えば――その存在を知ってはいても、姿を見たことのある者がほとんどいなかった。
皇帝の娘でありながら、式典にも出ない。
夜会にも出ない。
王族の食事の席にも、その姿はない。
リリーが暮らしているのは、華やかな本宮から遠く離れた、小さな離宮だった。
理由は単純だ。
彼女の母親が、身分の低い女だったから。
皇帝の寵愛を受け、一人の皇女を産んだ。
それだけで、母娘は現皇后に疎まれるには十分だった。
もっとも――。
リリーが物心つく頃には、皇帝がこの離宮を訪れることさえ、ほとんどなくなっていた。
そして、三年前。
母は死んだ。
原因不明の、突然の死だった。
熱を出したわけでもない。
大きな病を患っていたわけでもない。
昨日まで笑っていた母が、翌朝には冷たくなっていた。
それ以来。
リリーには、本当に誰もいなくなった。
「ない……」
小さな声が、離宮の庭に落ちる。
「ない……どこ……?」
十歳のリリーは、草の上に膝をついていた。
白いワンピースの裾は泥だらけ。
手も土にまみれている。
けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
首元に何度触れても。
そこにあるはずのものがない。
母からもらった、銀色のペンダント。
幼い頃、母が自分の首にかけてくれたもの。
『大切にしてね、リリー』
そう言って笑った顔を、今でも覚えている。
母が残してくれたものは、それほど多くない。
だからこそ。
あれだけは。
あれだけは、なくしたくなかった。
「どこ……」
植え込みの下に手を伸ばす。
枯れ葉をかき分ける。
花壇の端も探した。
石畳の隙間も見た。
それでも見つからない。
その様子を、少し離れたところから数人の使用人が眺めていた。
「まだ探してるわ」
くすくす、と笑う声。
「朝からずっとよ」
「皇女様ともあろう方が、泥だらけになって」
「皇女様、ねえ」
含みのある言い方だった。
聞こえている。
リリーにも、きちんと聞こえていた。
けれど、顔を上げなかった。
こういうことには慣れている。
怒ったところで。
泣いたところで。
誰も助けてくれないことも、知っている。
だから。
探す。
ただ、それだけだった。
「……お母様」
ぽつりと零れた声が震える。
嫌だ。
なくしたくない。
あれまでなくなったら。
本当に母が、この世界から何も残さず消えてしまうような気がした。
視界が少し滲む。
それでも地面を見つめたまま、草をかき分けた。
そのときだった。
「……あなたの探しているものは、これですか?」
聞いたことのない声がした。
抑揚のない、淡々とした声。
リリーは顔を上げる。
そこに、一人の少年が立っていた。
同じくらいの年頃だろうか。
整った顔立ちをしている。
けれど、その顔には驚くほど表情がなかった。
笑ってもいなければ。
困ってもいない。
ただ静かに、リリーを見下ろしている。
そして。
少年が差し出した手のひらを見た瞬間。
リリーは息を呑んだ。
「……っ」
銀色の細い鎖。
小さな花を象った飾り。
間違えるはずがない。
「お母様の……」
震える手で、それを受け取る。
土に汚れた指で、ぎゅっと握りしめた。
あった。
なくなっていなかった。
母がくれたものが。
ちゃんと、ここにある。
安堵した途端。
ぼろっ、と涙が落ちた。
「あ……」
自分でも止められなかった。
一粒落ちたら、次から次へと溢れてくる。
少年は、そんなリリーを無表情のまま見つめていた。
「なぜ泣くのですか」
本当に分からないらしい。
「見つかったのに」
「だ、だって……」
リリーは袖で慌てて涙を拭った。
けれど、全然追いつかない。
「大事なものだったから……」
「大事」
少年が繰り返す。
「はい……お母様の、形見なんです」
その言葉に。
ほんの一瞬。
少年の目が、ペンダントへ落ちた。
「形見」
「……はい」
「そうですか」
それだけだった。
慰める言葉もない。
事情を聞こうともしない。
ただ、
「見つかってよかったですね」
淡々と言った。
それが妙に可笑しくて。
リリーは泣きながら、少しだけ笑った。
そしてペンダントを胸に抱き、
「ありがとう」
と言った。
少年が瞬きをする。
まるで。
礼を言われるとは思っていなかったように。
「……別に」
「でも、見つけてくれたでしょう?」
「落ちていただけです」
「それでも」
リリーはもう一度、笑った。
目元を真っ赤にした、ひどい顔だったと思う。
「ありがとう」
少年は何も答えなかった。
ただ、しばらくリリーを見ていた。
遠くでは、先ほどまで笑っていた使用人たちが妙に静かになっている。
けれどリリーは、それには気づかなかった。
少年の正体も。
なぜ彼がこんな離宮の庭にいるのかも。
使用人たちが突然青ざめた理由も。
このときのリリーは、何も知らなかった。
ただ。
母の形見を拾ってくれた、
少し変わった無表情の男の子。
それだけだった。
――これが。
誰からも忘れられた皇女リリーと。
後に彼女の人生を大きく変える少年との、
最初の出会いだった。




