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10話

ナージュから手紙は来なかった。


一日。


二日。


三日。


リリーは、最初のうちは少しだけ待っていた。


もしかしたら、あの日のことを気にしているかもしれない。


自分が怒って。


泣いて。


帰ってくださいと言ってしまったから、ナージュなりに何か考えて、手紙をくれるかもしれない。


『先日は申し訳ありませんでした』


でもいい。


『お元気ですか』


だけでもいい。


もっと言えば。


いつもの、何の温度もない文章でもよかった。


けれど、来なかった。


五日が過ぎても。


七日が過ぎても。


何も。


「……やっぱり」


リリーは、小さく呟いた。


そうなのだろう。


あの夢で聞いた。


ナージュの言葉。


『もともと婚約を解消する予定でしたので』


そして、マーサから聞いた話。


フロイト家は、この婚約を望んでいない。


状況が整えば、婚約の解消を考えている。


ナージュも、きっと、婚約を解消したいのだろう。


だから、自分からは近づかなかった。


自分から手紙を書かなかった。


会いたいとも、言わなかった。


そして、リリーが。


『帰ってください』


と言えば。


本当に帰った。


そのあと、何もない。


「……そういうことだったんだ」


考えれば、全部、辻褄が合う。


今まで自分だけが、意味をつけていたのだ。


返事をくれた。


優しい。


会いに来てくれた。


嬉しい。


手を差し出してくれた。


きっと嫌われていない。


綺麗だと言われた。


もしかしたら、少しは好きなのかもしれない。


でも、婚約者として必要なことをしていただけ。


それ以上、深く関わらないように。


きっと、最初から線を引いていた。


「……っ」


胸がぎゅっと痛くなった。


嫌だ。


考えたくない。


なのに考えると止まらない。


もし、婚約が解消されたら、ナージュは、別の誰かと婚約する。


その人には、自分から手紙を書くのだろうか。


会いたいと。


言うようになるのだろうか。


セリーヌのような。


美しくて。


華やかで。


家にも利益をもたらす人。


そういう人なら。


「……やめよう」


リリーは、ぱん、と本を閉じた。


考えても、苦しくなるだけ。


ナージュを好きな気持ちが消えるわけではない。


でも、好きだからといって。


ずっと、あの人のことばかり考えていても何も変わらない。


なら、今。


自分にできることをしよう。


リリーは、別の本を開いた。


『エルディア語 基礎会話集』


「……今日は二十個」


向かいで茶を飲んでいたマーサが顔を上げた。


「昨日は十個でしたよ」


「増やす」


「やけくそになっていません?」


「なってない」


「顔がなっています」


「なってない」


「なら、その単語帳を逆さに持つのをやめなさい」


「……」


リリーは、無言で上下を直した。


マーサが、大きなため息をつく。


「殿下」


「なに」


「勉強するのは結構ですが」


「うん」


「何かを忘れるために詰め込んでも、頭には入りませんよ」


リリーの手が止まった。


「忘れようとしてない」


「そうですか」


「ただ」


少しだけ、声が小さくなる。


「考えたくないだけ」


マーサはそれ以上何も言わなかった。


それが、ありがたかった。


だから、リリーはまた本へ視線を戻した。


エルディア語。


『おはようございます』


『ようこそ』


『お会いできて光栄です』


何度も書く。


発音も覚える。


次は。


歴史。


その次は。


文化。


食事。


宗教。


礼儀。


季節ごとの祭り。


知れば知るほど面白かった。


例えば、エルディアでは初対面の相手に相手の家族構成を細かく尋ねるのは、少し失礼にあたる。


アルヴェリアでは、家柄を知るためによく聞かれるのに。


冬の始まりには家の入口に、小さな灯りを置く。


それは、遠くへ出た家族が帰る家を間違えないため。


昔の風習が今も残っているらしい。


「……きれい」


リリーは、絵入りの本を眺めた。


夜。


雪の町。


窓辺に並ぶ。


小さな灯り。


いつか見てみたい。


そんなことまで、思うようになった。


そして、その頃には図書館へ行くことが日課になっていた。


その日も、リリーは両腕いっぱいに本を抱え、王宮図書館の廊下を歩いていた。


『北西諸国における海上交易』


『エルディア王家史』


『エルディア語動詞変化一覧』


重い。


かなり重い。


「欲張りすぎた……」


前が見えにくい。


でも、侍女を連れてくると。


いちいち。


『まだ読まれるのですか』


という顔をされるので。


最近は、自分で持っている。


そのとき。


「うわ」


前から、聞き覚えのある声がした。


「何ですか、それ」


リリーは、本の隙間から顔を覗かせる。


「……ルーシュ様」


そこにいたのは、ナージュの弟ルーシュだった。


剣術の稽古帰りらしく。


軽装。


髪も少し乱れている。


そして相変わらず、人を少し馬鹿にしたような顔。


「こんにちは」


リリーが挨拶すると。


ルーシュは、本の山を見た。


「それ全部読むんですか」


「そのつもりです」


「へえ」


嫌な。


へえ。


「何ですか」


「別に」


「絶対何か思ってますよね」


「だって」


ルーシュは、本の背表紙を読む。


「エルディア?」


「はい」


「また?」


「また?」


「最近ずっと勉強してるって聞きました」


リリーが、少し眉を寄せる。


「誰からですか」


「王宮で有名ですよ」


「そんなに?」


「離宮から出てこなかった皇女が、急に毎日図書館にいるんだから」


「……」


確かに、少し目立つかもしれない。


ルーシュはじっとリリーを見る。


それから、何気ない調子で言った。


「兄上のところには行かないんですか?」


リリーの足が止まった。


胸が、一瞬だけ強く痛む。


「……行きません」


「へえ」


また。それ。


「何ですか」


「いや」


ルーシュは少し笑った。


「珍しいなと思って」


「何がです?」


「前は」


指を一本立てる。


「兄上、兄上」


もう一本。


「いつ会えますか」


もう一本。


「手紙送りました」


もう一本。


「薔薇見ましょう」


「ちょっと」


「お菓子食べましょう」


「ルーシュ様!」


リリーの頬が赤くなる。


「そんなに言ってません!」


「だいたいそんな感じだったでしょう」


「違います!」


「そんなに違わないと思いますけど」


腹が立つ。


ルーシュは、明らかに楽しんでいる。


「なのに」


少し首を傾げる。


「急に兄上のこと追いかけなくなった」


リリーの顔から少しずつ表情が消えた。


「……別に」


「喧嘩したから?」


「……」


「この前、兄上ちょっと変だったし」


「変?」


思わず、反応してしまった。


しまった。


ルーシュの口元がにやっと上がる。


「気になるんだ」


「気になりません!」


「今すぐ聞き返したのに?」


「それは!」


「まだ好きなんですね」


「……っ」


言葉に詰まる。


ルーシュは満足そう。


本当に嫌な子。


「……好きですよ」


リリーは、むっとして言った。


意地になった。


「悪いですか」


今度はルーシュのほうが少し驚いた。


「いや」


「簡単に嫌いになれません」


リリーはぎゅっと本を抱え直した。


「でも」


声が少しだけ小さくなる。


「だからって」


「……」


「ずっと追いかけていても、仕方ありませんから」


ルーシュが黙った。


「兄上に何か言われたんですか?」


「何も」


「じゃあ何で」


「何も言われないからです」


リリーはそれ以上説明したくなかった。


手紙が来ない。


会いにも来ない。


何も。


それが、答えなのだと思っている。


すると、ルーシュが不思議そうな顔をした。


「兄上から手紙、来てないんですか」


リリーの胸が、また痛む。


「……はい」


「一通も?」


「一通も」


「ふうん」


その言い方。


何か。知っているのだろうか。


でも、聞きたくない。


期待して、また違ったら、もっと苦しい。


「別にいいんです」


リリーは言った。


「よくない顔ですけど」


「いいんです」


「ふーん」


「さっきから、そればっかりですね」


「だって」


ルーシュは少し考えてから。


「兄上も変なんですよ」


と言った。


リリーが思わず顔を上げる。


「……変?」


また、聞いてしまった。


ルーシュが笑う。


「やっぱり気になる」


「もう!」


「冗談です」


絶対、楽しんでいる。


「何が変なんですか」


「教えてほしい?」


「……」


「ほしいんだ」


「ルーシュ様!」


声が図書館の廊下に響く。


遠くで司書が、じろりとこちらを見た。


二人とも少しだけ声を落とす。


「兄上」


ルーシュが言う。


「最近、手紙が来たか確認してますよ」


リリーの心臓が、どくん。と鳴った。


「……誰からの?」


「さあ」


「……」


「僕は言ってません」


「でも」


「リリー殿下が勝手にそう思うなら、知りません」


意地悪。


本当に少し性格が悪い。


「それに」


ルーシュは続ける。


「王宮で殿下がエルディアの勉強してるって聞いたときも、聞いてました」


「……何を?」


「何でエルディアなんだろうって顔してました」


「顔?」


「兄上、顔に出ないけど」


「じゃあ、どうして分かるんです」


「弟なので」


妙に得意げ。


リリーは、何も言えなかった。


胸の奥に。


ほんの少しだけ、温かいものが生まれそうになる。


でも、すぐに押し込めた。


違う。


期待してはいけない。


ナージュは、きっとただいつも来ていた手紙が来なくなったから気にしただけ。


自分が何を勉強しているのか、少し不思議だっただけ。


それ以上ではない。


「……それでも」


リリーは小さく言った。


「手紙は来ていません」


ルーシュの顔から、少しだけからかう色が消えた。


「まあ」


肩をすくめる。


「兄上ですからね」


「どういう意味です?」


「考えすぎて何もしないときがあります」


「ナージュ様が?」


「ありますよ」


「意外」


「完璧に見えるでしょう?」


「……はい」


「実際かなり完璧ですけど」


弟なのに、ものすごく兄を評価している。


「でも」


ルーシュは、少しだけ笑った。


「感情が絡むと、たぶん僕より面倒です」


「感情?」


「さあ」


また、逃げた。


「ルーシュ様」


「何ですか」


「意地悪ですね」


「知ってます」


「否定しないんですか」


「事実なので」


リリーは呆れた。


そのとき、腕の中の本が一冊ずれた。


「あ」


落ちる。


と思った瞬間。


ルーシュがさっと手を伸ばした。


床に落ちる前に受け止める。


『エルディア語動詞変化一覧』


「重そう」


と言って、そのまま二冊ほど、勝手に取った。


「持てます」


「今落としたでしょう」


「一冊だけです」


「残りも落とされると邪魔なので」


「言い方」


「離宮まででしょう?」


「……はい」


ルーシュは、先に歩き始める。


リリーもその横を歩いた。


しばらく無言。


そして、ルーシュが横目で本を見る。


「でも」


「何です?」


「兄上からエルディアに乗り換えるのは、だいぶ方向転換ですね」


「乗り換えてません!」


リリーが即座に否定した。


「じゃあ、アシェル王子じゃないんだ」


「なっ……!」


足が止まる。


「何で知ってるんですか!」


「エルディアの第二王子でしょう?」


「そうじゃなくて!」


「殿下、最近王族名鑑まで読んでるって」


「誰がそんなことまで!」


「図書館って意外と噂が早いんですよ」


顔が熱い。


「別に!」


「はい」


「アシェル王子とどうこうしたいわけではありません!」


「まだ何も言ってませんけど」


「顔が言ってました!」


「へえ」


「その『へえ』やめてください!」


ルーシュがくすっと笑った。


リリーは、むっとして前を向く。


でも、少しだけ気持ちが軽くなっていた。


ナージュのことを考えると胸はまだ痛い。


手紙が来ないことも。


いずれ婚約がなくなるかもしれないことも。


考えたら泣きたくなる。


だから、今はエルディアを知ろう。


一つでも。


言葉を覚えよう。


一つでも。


未来を変えるためのものを増やそう。


ナージュを追いかけること以外にも。


自分にはすることがある。


そのことが、今のリリーには少しだけ、救いになっていた。


そして隣を歩くルーシュは、そんなリリーを横目で見ながら、少しだけ不思議に思っていた。


以前なら、兄の話を一つ出せば目を輝かせて何でも聞きたがった。


今も気にはしている。


好きなのだろう。


それなのに以前のように、兄だけを見てはいない。


何か別のものを、見つけ始めている。


「……変なの」


「何がです?」


「別に」


「絶対何か言いましたよね」


「言ってません」


「言いました!」


ルーシュは、また少し笑った。


そして、ほんの少しだけ兄がこれを知ったら。

どんな顔をするのだろう。


そう思った。

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