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11話


マーサは正直なところ少し驚いていた。


「……殿下」


「なに?」


「これ」


机の上に置かれた紙を、指先でとんと叩く。


エルディア語で書かれた短い文章。


リリーが、自分で書いたものだった。


「誰かに直してもらいました?」


「もらってない」


「本当に?」


「マーサが昨日、自分でやってみなさいって言ったでしょう」


「言いましたけどね」


マーサは、もう一度、紙に目を落とした。


もちろん完璧ではない。


綴りの間違いが二つ。


語尾も一ヶ所、不自然だ。


けれど、意味は十分に通じる。


何より、昨日教えたばかりの表現を、別の文章に応用している。


「これ」


マーサが一文を指す。


「昨日覚えた言い回しですね」


「うん」


「どうして、ここで使えると思ったんです?」


リリーが、きょとんとした。


「だって」


少し考える。


「こっちの言葉と似てるでしょう?」


「ええ」


「昨日の本では、人を迎えるときに使ってたけど」


リリーが別の本を開く。


「ここでは船を港に迎えるときにも使ってる」


「……」


「だから、人じゃなくても何かを受け入れるときに使えるのかなって」


マーサは、しばらく黙った。


「……違った?」


「いいえ」


「よかった」


それだけ確認すると。


リリーは、すぐ次のページへ視線を戻した。


マーサは、そんな横顔を見つめる。


最初は、一時の気まぐれだと思っていた。


フロイト家との婚約が、自分のために結ばれたものではなかったと知った。


フロイト家が、将来的な婚約解消を考えていることも知った。


十一歳の少女には、十分すぎるほど衝撃だっただろう。


まして、あれだけナージュを慕っていたのだ。


何か、別のものに気を向けたくなったとしても。


不思議ではない。


だから、エルディアを調べ始めたのも、最初は気を紛らわせたいのだろうと思っていた。


どうせ、一週間もすれば飽きる。


そう思っていた。


けれど。


一週間。


二週間。


一ヶ月。


リリーは、やめなかった。


それどころか、日に日に深くなっている。


最初は、一文読むたびに辞書を引いていた。


今では、簡単な文章なら辞書を開かず読み進められる。


最初は歴史書に書かれた年号を、必死に覚えているだけだった。


今では。


「マーサ」


「はい」


「この戦争のあと、エルディアの南部だけ関税が変わっています」


「そうですね」


「どうして?」


「どうしてだと思います?」


聞き返すと、リリーは本を三冊並べた。


「たぶん、この港です」


「港?」


「戦争のあと、ヴァルグとの陸路が不安定になってるでしょう?」


「ええ」


「だから海路の価値が上がったんじゃないかなって」


マーサの眉が、わずかに上がる。


「誰かに教わりました?」


「また?」


リリーが不満そうに頬を膨らませた。


「自分で考えた」


「そうですか」


「違う?」


「いいえ」


マーサは、静かに答えた。


「大筋では合っています」


ぱっと。


リリーの顔が明るくなる。


「やっぱり!」


すぐさま紙へ何かを書き込む。


マーサはその姿を見ながら、少しだけ目を細めた。


好きこそものの上手なれ。


昔からある言葉だ。


なるほど、こういうことかもしれない。


リリーは、エルディアについて学ぶことを、楽しんでいる。


始まりが何だったのか、マーサには分からない。


婚約の事情を知ったことで、この国で自分が置かれている立場を、初めて真剣に考え始めたのかもしれない。


あるいは、ただエルディアという国そのものに、興味を持っただけなのかもしれない。


聞いてみても。


『なんとなく気になったの』


としか答えない。


少なくとも、ナージュのことを考えているよりずっと楽しそうではあった。


エルディアの文化。


歴史。


交易。


言葉。


祭り。


何でも知りたがる。


「マーサ」


「今度は何です」


「エルディアの北部と南部って、同じ言葉なのに少し発音が違うの?」


「違いますよ」


「どれくらい?」


「こちらで言う地方訛りのようなものです」


「じゃあ、王都では?」


「標準的な発音ですね」


リリーはすぐに何かを書き留める。


「何を書いてるんです」


「北部の発音も覚えておこうと思って」


「なぜ」


「もし北部の人と話すことがあったら、その方が嬉しいでしょう?」


マーサは、一瞬言葉を失った。


「……そこまで覚えます?」


「だめ?」


「駄目ではありませんが」


マーサは、少し呆れた。


そこまで、考えるものなのか。


けれど、思えばリリーは昔から、そういうところがあった。


人が何を好むか。


何を嫌がるか。


よく覚えている。


ナージュが砂糖を一つ入れることも。


好きだと言った菓子も。


相手の言葉を、小さなことまで拾っていた。


以前は、その注意のほとんどがナージュ一人に向いていただけなのだ。


それが今、別の方向へ向かっている。


「……なるほど」


マーサが呟く。


「なに?」


「何でもありません」


「最近それ多い」


「年寄りですから」


「またそれ」


便利な言葉ですね。


とリリーが笑う。


マーサは、その顔を見ながら。


ふと思った。


――この子。


思っていたより、ずっと頭がいい。


皇女として最低限の教育は受けている。


礼儀。


歴史。


語学。


音楽。


政治の基礎。


教師から。


出来が悪いと言われたことはない。


けれど、だからといって、誰かがこの子を、特別に伸ばそうとしたこともなかった。


必要がなかったからだ。


身分の低い母から生まれた皇女。


皇后から疎まれ後ろ盾もなく。


離宮で静かに暮らす少女。


皇女として、恥をかかない程度の教養さえあればいい。


それ以上を、求める者などいなかった。


マーサもどこかでそう思っていた。


可哀想な子。


それだけだった。


母を亡くし、父親である皇帝からもほとんど顧みられず。


皇女でありながら、使用人にまで軽んじられる。


そして、ようやく決まった婚約すら、本人の幸福のためではない。


フロイト家を王家へ繋ぎ止めるため。


けれど、あまり大きな力は与えないため。


そのためにらちょうどよかった皇女。


それが、リリーだった。


皇族にとって、使いやすい駒。


そのはずだった。


でも。


「マーサ」


「はい」


「これ、見て」


また、紙を渡される。


今度は、エルディアの古い詩をリリーなりに訳したものだった。


港町で旅立つ人へ贈られるという詩。


マーサは、ゆっくり読む。


『星が見えなくても


 海は帰る道を覚えている


 心を縛らず


 遠くへ行きなさい』


「……」


「どう?」


不安そうに、リリーが尋ねる。


「最後のところ、ちょっと迷ったの」


「よくできていますよ」


「本当?」


「ええ」


「じゃあ意味、合ってる?」


「ほぼ」


「ほぼ?」


「ここ」


指を差す。


「“遠くへ行きなさい”より、“遠くへ行くことを恐れないで”のほうが近いでしょうね」


「ああ……」


リリーは、すぐに紙を取り戻す。


「じゃあ、こっちの単語を使った方がいいかな」


また、考え始める。


マーサは、その横顔を見た。


ふと。昔のことを思い出す。


リリーの母親。


身分こそ、高くなかった。


けれど、頭のいい女だった。


本を読むのが好きで。


一度聞いた話を、よく覚えていた。


難しい話を聞いても、少し考えればすぐに要点を掴んだ。


本人は、いつも笑って。


『私なんて、たいして賢くないわ』


と言っていたけれど。


違う。


賢くなかったのではない。


その賢さを、使える場所がほとんどなかっただけだ。


生まれた身分が許さなかった。


マーサは、目の前の少女を見る。


「……やっぱり」


小さく呟く。


「なに?」


「血ですかね」


「血?」


「こちらの話です」


リリーが怪訝そうな顔をする。


母親の血。


それだけではないかもしれない。


皇帝の血だって。


流れている。


誰も期待していなかっただけで。


この子は、初めからちゃんと持っていたのだ。


知る力も。


考える力も。


それを、誰も見ようとしなかっただけ。


マーサは少しだけ。


リリーを見る目を変えた。


可哀想だから。


見守る。


それだけではない。


この子がどこまで行くのか。


少し見てみたいと思った。


同時にほんの少しだけ、怖くもなった。


「殿下」


「なに?」


「一つ、覚えておきなさい」


「うん」


「今勉強していることを」


マーサは、机の上の本を見る。


エルディア語。


国際情勢。


交易。


歴史。


「誰にでも話してはいけません」


リリーが、目を瞬く。


「どうして?」


「賢いことが分かれば、皆が喜ぶと思います?」


「……違うの?」


「違いますね」


マーサは、淡々と答える。


「扱いやすい人間が」


「……」


「急に自分で考え始めたら」


「……」


「困る人もいます」


リリーは、黙った。


少しだけ考える。


「……私が?」


「そうです」


「扱いやすい?」


「今まではね」


随分。はっきり言った。


リリーは、少しむっとしたようだったが。


反論はしなかった。


「だから」


マーサは続ける。


「知っていることを全部見せない」


「……」


「考えていることも全部話さない」


「……」


「必要な相手にだけ、必要な分だけ」


リリーは、しばらく黙ったあと。


「分かった」


と答えた。


マーサはまた少し驚いた。


以前なら。


どうして。


誰に。


何を隠すの。


と。


質問攻めだっただろう。


今は一度飲み込む。


そして、自分で考えるようになった。


変わった。


まだ、ほんの少しずつだけれど。


確実に。


「……困りましたねえ」


マーサが、ため息をつく。


「何が?」


「殿下が」


「私?」


「ええ」


「何もしてないよ?」


「こういう子は後々面倒なんです」


「ひどい」


「褒めています」


「絶対違う」


「さあ、どうでしょう」


リリーは不満そうにしながら、また本へ戻った。


その姿を、マーサはしばらく見ていた。


生まれたときから、この子には、選べるものがほとんどなかった。


母親も。


身分も。


住む場所も。


扱われ方も。


婚約者も。


全部。


他人が決めた。


そのたびリリーは、ただ受け入れてきた。


皇族の駒として、ちょうどいい場所へ置かれてきた。


なら。せめて。


今。


自分から選んで夢中になっているものくらい、この子を悪い場所へ連れていかなければいい。


エルディアでも。


学問でも。


その先にある。


何かでも。


マーサには、この子が何を目指しているのか。


まだ分からない。


どうして、突然、ここまでエルディアに惹かれたのかも分からない。


それでもほんの少しだけ願った。


どうせ、誰かの都合で人生を決められるのならどこかで一度くらい、リリー自身が選んだものが、この子に幸せを運んでくれればいい。


もちろん、そんなこと本人には、絶対に言わない。


言ったら、きっと。


『マーサ、私のこと心配してくれてるの?』


なんて。


嬉しそうに笑うだろうから。


それは少し癪だった。

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