19話
「……ふふ」
駄目だ。
どうしても、笑ってしまう。
先ほどのエルディアの女性の笑顔が、頭から離れない。
自分の言葉が通じた。
それだけで、こんなにも嬉しいなんて。
「……ふふふ」
「リナ」
「はい!」
近くを通った侍女が、怪訝そうにリリーを見る。
「何を笑ってるの?」
「え?」
「さっきから、ずっと笑ってる」
「……」
リリーは慌てて口元を引き締めた。
「何でもありません」
「そう?」
「はい」
侍女が去る。
三秒。
また、口元が緩む。
駄目だ。
嬉しい。
本当に。
自分が覚えた言葉が、誰かに届く。
相手の言葉が、自分にも分かる。
たったそれだけなのに。
今まで閉ざされていた扉が、ほんの少しだけ開いたような気がした。
「……もっと勉強しよう」
ぽつり。
単語も。
発音も。
もっと。
いつか、普通に話せるくらい。
そう思いながら、空になった盆を返し、今度は使用済みのグラスを回収するため、壁際へ向かった。
中央では、相変わらず華やかな会話が続いている。
アルデェリア語。
エルディア語。
時折、別の言語まで飛び交う。
音楽。
笑い声。
食器の音。
人。
人。
人。
こんな場所に、リリーがいる。
それだけでも、少し不思議だった。
皇女としては呼ばれなかった。
でも、侍女リナとしてなら、ここにいられる。
それを、少し面白く思ってしまう。
そんなとき。
ふと、視界の端に、一人の妙な人影が入った。
「……?」
壁際。
大きな柱の陰。
少年が、一人で立っている。
リリーと同じくらいの年頃だろうか。
エルディアの衣装を着ている。
淡い銀灰色の髪。
細身。
背丈は、ナージュと同じくらい。
そして、何より。
顔色が、ものすごく悪い。
「……青い」
本当に、青い。
いや、正確には青白い。
壁に片手をついている。
もう一方の手は口元に。
目も、少し虚ろ。
どう見ても、元気ではない。
リリーは少し迷った。
――近づかないほうがいい?
エルディア側の人間だ。
しかも、服を見る限り、ただの使用人ではない。
かなり身分が高そうに見える。
下手に話しかけないほうがいいかもしれない。
それに、自分はただの侍女。
余計なことはしない。
目立たない。
人に紛れる。
マーサに、何度も言われた。
だから、一度は通り過ぎようとした。
でも。
足が止まる。
少年が、少し身体を揺らした。
「……っ」
危ない。
今にも倒れそう。
リリーは盆を近くの台へ置いた。
考えるより先に、近づいていた。
「大丈夫ですか?」
アルデェリア語で声をかける。
少年が、ゆっくり顔を上げた。
目が合いそうになる。
リリーは、はっとして少し視線を下げた。
金色の瞳。
見せすぎてはいけない。
「……」
少年は何も答えない。
聞こえなかった?
それとも、アルデェリア語が分からない?
リリーは少し迷った。
そして今度は、エルディア語で。
「大丈夫ですか?」
と尋ねた。
少年の目が、ほんの少し大きくなった。
反応した。
リリーの胸が、また少しだけ高鳴る。
でも、今度は嬉しさより、心配のほうが大きい。
「顔色が悪いです」
エルディア語。
少し、ゆっくり。
「座りますか?」
少年は、しばらくリリーを見ていた。
それから、小さくエルディア語で答えた。
「……大丈夫」
全然、大丈夫そうではない。
リリーは思わず眉を寄せた。
「大丈夫な人は」
そこまで言って、止まる。
危ない。
普通に話してしまっている。
マーサに、簡単な挨拶くらいにしろと言われたばかりだ。
でも、目の前の少年は、今にも倒れそう。
リリーは少しだけ迷った末、小声で続けた。
「大丈夫な人は、そんな顔をしません」
少年が、じっとリリーを見る。
「……あなた」
小さな声。
「はい?」
「エルディア語を」
少年が一度、息を整える。
「話せるの?」
リリーの心臓が、少しだけ跳ねた。
聞かれた。
どう答える?
侍女が流暢に話せるのは、おかしい。
マーサの言葉。
『話しすぎないこと』
リリーは少しだけ笑った。
「ほんの少しです」
嘘ではない。
まだ、少し。
少年はまた、リリーを見る。
金の瞳を見られないように、リリーは少し俯く。
すると。
少年が、不意に口元を押さえた。
「……っ」
「え」
やっぱり、かなりまずい。
「本当に大丈夫ですか?」
今度は思わず、普通に聞いた。
少年は答えない。
代わりに、小さく。
「……気持ち悪い」
と言った。
リリーは固まった。
「……え」
少年も、苦しそうな顔のまま、もう一度。
「気持ち悪い」
と言う。
これは、かなり大丈夫ではない。
「何か、召し上がったんですか?」
リリーが尋ねると、少年は小さく首を振った。
「……別に」
「でも、ずいぶん顔色が悪いです」
「……気持ち悪いだけ」
だけ。
リリーは思わず少年の顔を見た。
どう見ても、「だけ」で済ませていい顔色ではない。
「少し、お休みになったほうが……」
「……ここでいい」
少年は、柱にもたれ直した。
リリーは困った。
妙に頑固だ。
それに、周囲は相変わらず騒がしい。
音楽。
笑い声。
大勢の人々の話し声。
こんなところにいたら、余計につらそうなのに。
「誰か、お呼びしましょうか?」
「いらない」
「でも」
「……少し休めば治るから」
全然、そうは見えない。
リリーは小さく眉を寄せた。
「では、お水をお持ちしましょうか?」
「……いらない」
「何か必要なものはありませんか?」
少年はしばらく黙っていた。
それから、ぽつり。
「……静かなところ」
リリーは周囲を見回した。
確かに、ここは騒がしい。
音楽。
話し声。
食器の触れ合う音。
これでは、具合の悪い人にはつらいだろう。
「では、人の少ないところへ移動しますか?」
少年は、かすかに首を振った。
「ここでいい」
「でも」
「ここで」
妙に頑固。
リリーは少し困った。
ナージュも、こういうところがある。
いや。
今、ナージュのことを考える必要はない。
「……分かりました」
リリーは少しだけ屈んだ。
「では、ここにいてください」
「……」
「倒れないでくださいね」
少年が、ほんの少し目を細めた。
「それ」
「?」
「命令?」
リリーが、はっとする。
しまった。
言い方が、皇女。
「ち、違います」
慌てる。
「お願いです」
「……」
「侍女からの」
付け足す。
「お願いです」
少年は、しばらくリリーを見つめた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。
「変な侍女」
「……よく言われます」
言われない。
でも、何となくそう答えた。
リリーは少し考えてから、近くを通りかかった侍女に声をかけた。
「すみません。あちらのお客様、少し具合が悪そうで……」
侍女が柱の陰を見た。
「あら、本当ね。誰か付き添いの方はいないのかしら」
「分からなくて」
「私から責任者に伝えておくわ。あなたは給仕に戻って」
「はい。ありがとうございます」
リリーは頭を下げた。
それから、もう一度少年を振り返る。
「すぐに誰か来ると思います。どうか、無理をなさらないでくださいね」
少年は、壁にもたれたまま、じっとリリーを見ていた。
「……あなた」
「はい?」
「名前は?」
リリーの心臓が、どきりと跳ねた。
名前。
そうだった。
今日の名前は。
「……リナです」
「リナ」
少年は、小さく繰り返した。
「そう」
それだけ言うと、また口元を押さえた。
「……っ」
「だ、大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
やっぱり、全然大丈夫そうではない。
けれど、近くの侍女に伝えた以上、ここに長く留まるのも不自然だ。
リリーは、もう一度頭を下げた。
「では、失礼いたします」
そう言って、急いで給仕へ戻った。
その背中を。
少年は、壁にもたれながら、じっと見ていた。
「……リナ」
小さく、名前を呟く。
そして。
「……変なの」
今度は、ほんの少しだけ笑った。




