18話
「リナ!」
びくっ。
「はい!」
反射的に振り返ってから、リリーは、はっとした。
――そうだった。
今日は、リリーではない。
リナだ。
先ほど、給仕をまとめている侍女に名前を聞かれた。
「リナです」と答えたら、それからずっと、この名前で呼ばれている。
まだ慣れない。
自分の名前ではないのに、返事をしなければならないなんて。
「これ、向こうの卓へ運んで!」
「はい!」
盆を渡される。
銀の水差し。
グラス。
小皿。
思ったより、重い。
リリーは両手で盆を持ち直した。
「……重っ」
「何か言った?」
「いいえ!」
慌てて首を振る。
近くにいた年上の侍女が、怪訝そうな顔をした。
「新人?」
「は、はい」
「臨時?」
「そうです」
「なら、ぼーっとしてないで動いて。今日は人が足りないんだから」
「はい!」
そのまま、背中を押されるようにして歩き出す。
――思っていたのと違う。
リリーは心の中で呟いた。
もっと、こう。
大広間の隅に控えて、エルディアの人々を眺めながら、隙を見て会話をする。
そんな、少し悠長なものを想像していた。
全然違った。
侍女は、忙しい。
とにかく、忙しい。
飲み物を運ぶ。
空いたグラスを下げる。
料理を運ぶ。
足りなくなった皿を補充する。
呼ばれれば飛んでいく。
誰かが何かを落とせば拾う。
「リナ!」
「はい!」
「こっち!」
「はい!」
「次、それ持って!」
「はい!」
どこへ行っても、何かを頼まれる。
途中から、誰に何を言われているのかすら、少し分からなくなってきた。
――侍女って、こんなに大変なの……?
そう思った、そのとき。
かたん。
「ひっ」
盆の上で、グラスが傾いた。
リリーは慌てて持ち直す。
水差しまでぐらりと揺れた。
「ちょっと、気をつけて!」
「す、すみません!」
「盆は腕だけで持つんじゃなくて、身体に近づけるの。ほら、こう」
年上の侍女が手早く盆の位置を直してくれた。
「ありがとうございます……」
「落としたら大変なんだからね」
「はい……!」
リリーは慎重に歩き出した。
たった数歩なのに、なんだかひどく長く感じる。
――マーサは、毎日こんなことをしているのだろうか。
……いや。
マーサなら、もっと手際よくやるに違いない。
人に指示を出している姿のほうが、簡単に想像できる。
けれど。
きっと、自分が知らないところで、もっとたくさんの仕事をしているのだ。
朝起きれば、服が用意されている。
食事の時間になれば、温かい料理が運ばれてくる。
部屋はいつも片づいている。
それが、どれだけの手間で成り立っているのか。
リリーは今まで、あまり考えたことがなかった。
「……帰ったら、お礼を言おう」
ぽつりと呟く。
「リナ、何か言った?」
「な、何でもありません!」
危ない。
今日は独り言も控えなければ。
⸻
それからも、仕事は続いた。
「リナ、背筋!」
隣を歩く侍女に突然言われた。
「え?」
「そんなにしゃんとして歩いたら、盆が揺れるでしょう」
「あ……はい」
違う理由だった。
でも、ちょうどいい。
マーサにも、背筋を伸ばしすぎるなと言われている。
少し肩の力を抜く。
歩幅を小さくする。
目線は少し下。
人の前を横切らない。
客人たちの会話を邪魔しない。
呼ばれるまでは、控えめに。
やってみると、難しいことばかりだった。
「……皇女のほうが楽だったかも」
ぽつり。
「何?」
「何でもありません!」
まただ。
リリーは口をきゅっと結んだ。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
足は疲れている。
腕も痛い。
普段、こんなに立ちっぱなしで動き続けることなどない。
でも。
顔を上げれば、そこにはエルディアの人々がいる。
青と銀を基調にした衣装。
アルデェリアとは少し違う髪型。
耳に入る、聞き慣れない言葉。
「あ……」
誰かが、エルディア語で話した。
思わず、そちらを見る。
本でしか知らなかった音。
自分が何度も、何度も練習してきた言葉。
それが、本当に人の口から聞こえている。
――今の。
分かった。
『港の景色が美しい』
そう言った。
胸が、ぱっと明るくなる。
次に聞こえた言葉も、少しだけ分かる。
全部ではない。
早い。
本で読むのとは全然違う。
発音も、微妙に違う。
それでも。
分かる。
「……本物だ」
思わず呟いた。
「リナ!」
「はい!」
また呼ばれた。
今度は、空いた皿を下げる。
でも、少しだけ足取りが軽かった。
疲れているのに、楽しい。
こんなこと、初めてだった。
本で読んだことが、目の前にある。
あの衣装も。
あの銀細工も。
青い刺繍も。
全部。
「本当に星なんだ……」
エルディアの使節の一人が身につけている留め具を見て、小さく呟く。
星。
帰る道を示すもの。
エルディアで、昔から大切にされている意匠。
本に書いてあった。
見ているだけで、次から次へと、知っていることと目の前にあるものが繋がっていく。
本の中の世界が、少しずつ、本物になっていく。
だから、リリーは。
危うく忘れそうになっていた。
自分が、本来ここにいてはいけないことを。
いや。
忘れていたわけではない。
皇族の近くには行かない。
ナージュとルーシュには会わない。
目を合わせない。
人に紛れる。
それだけは、頭の片隅に置いている。
だから、皇族が集まっている中央付近には近づかない。
なるべく、大広間の外側。
外交官。
学者。
文化人。
そういった人々が集まる場所を行き来していた。
それで十分だった。
少なくとも、今日のリリーには。
⸻
「リナ」
また、呼ばれた。
今度は、給仕をまとめている侍女だった。
「はい」
「これ、お願い」
渡されたのは、飲み物を載せた盆。
「向こうの方々に」
指差された先を見る。
三人。
エルディアの人だった。
リリーの心臓が、どくんと鳴った。
「……私が?」
「あなた以外、誰がいるの」
「そ、そうですよね」
「飲み物が足りているか聞いてきて」
「はい」
侍女は当然のように、別の場所へ行ってしまった。
リリーはその場に残る。
盆を持ったまま、三人を見る。
エルディアの人。
近い。
今までは、遠くから見ていただけ。
でも、今。
自分が、話しかける。
「……」
急に、喉が渇いた。
――どうしよう。
アルデェリア語でもいい。
当然だ。
向こうも通訳を連れている。
実際、多くのエルディア人が、簡単なアルデェリア語を話している。
だから、わざわざエルディア語を使う必要などない。
でも。
せっかく、ここまで勉強した。
一か月以上。
毎日。
何度も間違えて、書き直して。
発音も練習した。
――話してみたい。
リリーは盆を持つ手に、少し力を入れた。
マーサの声が、頭の中に響く。
『エルディア語を流暢に話しすぎない』
分かっている。
難しい話はしない。
政治の話もしない。
文化について熱弁もしない。
ただ、一言。
飲み物は、いかがですか。
それだけ。
侍女でも、おかしくない言葉。
「……よし」
小さく息を吐く。
一歩、歩く。
その瞬間、心臓がもっと速くなる。
――発音。
大丈夫。
――語順。
大丈夫。
――敬語。
たぶん。
……たぶん?
急に、不安になってきた。
リリーは頭の中で、もう一度文章を繰り返す。
飲み物はいかがですか。
飲み物はいかがですか。
お飲み物をお持ちしましょうか。
いや、こっちのほうが自然?
「……どっちだっけ」
危ない。
近づいている。
もう、三歩。
二歩。
一歩。
エルディアの男性が、リリーの存在に気づいた。
視線がこちらへ向く。
目を合わせない。
金の瞳を見られないように。
眼鏡の奥で、ほんの少し視線を落とす。
そして、リリーは。
覚えてきた異国の言葉で。
恐る恐る。
けれど、できるだけ自然に。
声をかけた。
「……お飲み物は、いかがですか?」
エルディア語で。
言えた。
言ってしまった。
その瞬間。
目の前の三人が、ぴたりとリリーを見る。
「…………」
リリーの心臓が、止まりそうになった。
――間違えた?
――発音?
――変だった?
逃げたい。
ものすごく、逃げたい。
けれど、侍女が飲み物を勧めた直後に、走って逃げるわけにはいかない。
リリーは必死に、その場へ立っていた。
すると。
三人のうち、一人の女性が、ぱっと嬉しそうに笑った。
そして、エルディア語で何かを返した。
リリーの目が大きくなる。
聞き取れた。
ちゃんと、聞き取れた。
――ありがとう。
――あなたは、私たちの言葉を話せるのね。
「……!」
嬉しさが、一気に胸まで込み上げる。
通じた。
本当に。
通じた。
本の中に並んでいた文字が。
何度も書いて、何度も口に出して練習した言葉が。
今、目の前の人に届いた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
リリーにとっては、ずっと憧れていた国の言葉だった。
けれど、目の前の女性にとっては、生まれたときから使っている、ごく当たり前の言葉なのだろう。
その言葉を、遠い国の自分が使った。
そして、相手が笑ってくれた。
なんだか、それが。
とても嬉しかった。
けれど。
笑いすぎてはいけない。
目立ってはいけない。
私は、ただの侍女。
ただの、リナ。
そう言い聞かせながら。
それでも、リリーの口元には。
どうしても、小さな笑みが浮かんでしまった。




